ヴィーチャシ (コルベット・2代)

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ヴィーチャシ
Витязь
帆を張ったヴィーチャシ
帆を張ったヴィーチャシ
艦歴
起工 1883年8月16日 ガレー小島造船所
進水 1884年10月23日
就役 1886年
所属 ロシア帝国海軍バルト艦隊
沈没 1893年4月28日
要目
艦種 コルベット
艦級 ヴィーチャシ級
排水量 3210 t
全長 80.8 m
全幅 13.7 m
喫水 5.5 m
機関 水平蒸気機関 1 基
ボイラー 10 基
出力 3000 ihp
スクリュー 1 基
速力 14.6 kn
航続距離 3800
乗員 士官 25 名
水兵 347 名
武装 28口径152 mm 10 門
87 mm砲 4 門
水上魚雷発射管 3 門
装甲 甲板 38 mm

ヴィーチャシロシア語: Витязь ヴィーチェスィ)は、ロシア帝国で建造されたスクリューコルベットВинтовой корвет)である。のち、一等巡洋艦Крейсер I ранга)に類別された。艦名は古代ルーシ勇士のことで、1882年に改名された先代のコルベットから受け継いだ。その構造上、ロシアで最初の防護巡洋艦Бронепалубный крейсер)であり、一方でを併用する最後のロシア製巡洋艦となった。

概要[編集]

ヴィーチャシは、1883年8月16日サンクトペテルブルクにあったフランコ=ルースキイ工場のガレールヌイ・オストロヴォーク造船所(ガレー小島造船所)[1]で起工した。1884年10月23日には進水し、1886年には竣工し、バルト艦隊へ編入された。

艦長には、ステパン・マカロフ海軍大佐が就任した。同年8月31日には世界周回航海に出航した。ヴィーチャシは、大西洋からマゼラン海峡を抜け、ウラジオストクに逗留したのち、水路測量調査のため太平洋の西域を航行した。半年ののち、1888年12月にヴィーチャシは本国への帰途に着いた。中国インドシナ紅海スエズ運河地中海ジブラルタル海峡を抜け、1889年6月1日クロンシュタットへ帰港した。

その後、1891年には太平洋艦隊に編入され、再び極東へ派遣された[2]1892年2月1日海軍で新しい類別が採用されると、ヴィーチャシは新たに制定された一等巡洋艦に類別を変更された[3]

1893年の新年を長崎で迎えたヴィーチャシは、2月から3月にかけて中国沿岸を航海した。その後、日本へ戻り、続いて行われる予定であった朝鮮半島の地図作成のための測量航海の準備に取り掛かった。当時ロシアで使用されていた朝鮮半島の地図は、19世紀半ばにスループナデージュダフリゲートパルラーダの調査によって作成された古いもので、その補完が必要となっていた。

日本を出航したのち、物資の補給のため2 度ウラジオストクへ寄港した。4月28日までに、アンジュ岬からナヒーモフ半島までの測量を終えた。その後、続けてラーザレフ港までの測量を行う必要があった。しかし、この日の朝、艦の命運は尽きることとなった。ラーザレフ港の誘導ミスによりネヴェリスコイ海峡ザヴァリシン島で岩礁にぶつかり、損傷を受けて沈没した。その際の写真およびその後の潜水夫による調査の際の写真が、現代まで複数残されている。

ヴィーチャシの名は、他の10の著名な探査船の名とともにモナコの国際海洋学博物館のペディメントに刻まれている。また、マカロフはヴィーチャシに乗って行った太平洋域での研究の成果を『ヴィーチャシ号と太平洋』にまとめて発表している。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 現在のアドミラルテイスキエ・ヴェルフィのもととなった企業のひとつ。
  2. ^ この場合の太平洋艦隊は、バルト艦隊から極東へ分派される太平洋艦隊(Тихоокеанская эскадра)のことである。ソ連時代に編成された現代の太平洋艦隊Тихоокеанский флот)は、当時はシベリア小艦隊Сибирская военная флотилия)と称していた。
  3. ^ 一等巡洋艦には、装甲巡洋艦と防護巡洋艦が含められた。

外部リンク[編集]