ヴィンチェンゾ・カポネ

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ジェームズ・ヴィンチェンゾ・カポネ(James Vincenzo Capone、1892年5月 - 1952年10月1日)は禁酒法時代の禁酒法取締り捜査官カポネ家の長男で、アル・カポネの兄。イタリアナポリ生まれ。別名リチャード・ジェームズ・ハートトゥー・ガン・ハート

1908年に16歳で家出をした。家を出て1年後にカンザス州ウィチタの消印がある手紙で元気だと書いてあった。彼が放浪していたころ戦争が始まり、歩兵隊に志願し、フランスへ渡った。優秀な兵士として中尉まで昇進した。フランスでは米海外派遣軍司令官のジョン・パーシング将軍から一級射手のメダルを授与された。この頃、カポネ家の人々は彼の居場所はまったく知らなかった。

1919年の春にネブラスカ州ホーマーに鉄道を使って来た。そのとき彼はリチャード・ジョゼフ・ハートと名乗っていた。彼の憧れる無声映画のカウボーイ・スターのウィリアム・S・ハートにあやかってつけた。後年にときたまホーマを離れることはあったが、生涯この村に住み続けた。ホーマーに来て最初はペンキ塗りや壁紙張りの職人として働くがうまくいかなかった。1919年3月19日に突然の豪雨がネブラスカ州の町エマートンを襲うと、リチャードは救援活動に身を投じ、ウィンチ家という家族を全員救助した。ウィンチ家の娘のキャスリーンとやがて恋に落ちて、9月1日に結婚した。すぐに3人の子供(全員男子)が生まれた。しかし、リチャードは自分の出自を隠し続けた。

1920年夏にネブラスカ州知事のサム・マケルヴィにより禁酒法捜査官に任命された。ホーマーに来て2年しか経たない1921年春には、手強い取締官としてネブラスカ全土に知られるようになった。弟たちが法を破る側に入ったとき、リチャードは法を守る側にいた。

1923年に酒の密売人と間違えて無実のエド・モーヴァスを射殺してしまい、故殺罪で告発された。町はリチャード支持派と反対派に二分した。禁酒主義の人たちが7500ドルの保釈金を用意し、彼は刑務所に入らずに済んだ。禁酒派の人たちはリチャード支持に固執した。リチャードは有罪にはならず、再び禁酒法捜査官に戻った。数年後にもインディアン逃亡者の射殺で裁判にかけられたが、陪審員は無罪にした。

1924年にカポネ家の住むシカゴへ行く、弟たちが出ている新聞の見出しからシカゴに引かれて家族がどうしているか確かめようとした。シカゴで記者たちに「禁酒法捜査官として酒の密売で弟たちを逮捕するつもりか?」と聞かれ、「弟たちがネブラスカ州に足を踏み入れたら、必ず逮捕する」と答えた。以後、リチャードは少なくとも年に1度は休暇を利用してシカゴへ行った。行くときに妻のキャスリーンには行き先や理由は告げなかった。

1927年にはカルヴィン・クーリッジ大統領の護衛を務める。もちろん大統領や国民も護衛の一人がアル・カポネの兄だとは知らない。

1931年ごろ、禁酒法は廃止に向かっていた。大恐慌でホーマーでは仕事がなく、失業者になりかけていた。ペンキ塗りや壁紙張りをやったが、結局、生活保護を受けた。この時代はギャングスターは金持ちになり若死にをし、警察官は長生きをして無一文で死ぬと言われた時代だった。

1933年にシカゴに行き弟のラルフ・カポネから援助を受けた。ラルフは兄への援助を惜しまなかった。そのおかげでリチャードは家族を養い、大恐慌を生き抜くことができた。しかし、生活は苦しくなる一方だった。1940年には電気代も払えないほどの貧乏で、電力会社は電気を止めるといってきた。彼は恥を忍んで、再びラルフに経済的な援助を求めた。ラルフに会うためにウィスコンシン州マーサーまで行った。マーサーに着くと、ラルフや母親からの歓迎を受けた。それから、ホーマーに帰ったときは、新調のパナマ・スーツを着て、ポケットには100ドル札が詰まっていた。子供たちに、この大金をどこで手に入れたかを聞かれると、リチャードは険しい顔をして、政府の仕事を引き受けたが、軍事機密だから話すわけにはいかないと答えた。それから何ヶ月にもわたり、ラルフから送金してもらった。翌年の夏にマーサーを訪れたときは、久しぶりにアル・カポネに会った。このときアルは元気そうだったが、梅毒の影響かだいぶ記憶が飛んでいたという。リチャードはそのことを刑務所で虐待を受けたからだと思った。子供たちを連れてマーサーを訪れたときは子供たちとアルは一緒に遊んだりして、アルのことを好きになったという。

カポネ家の末っ子でリチャード(ヴィンチェンゾ)の妹のマファルダはリチャードのことを嫌っており、ラルフはリチャードに送金していることにも憤慨していた。ラルフがハートに金を渡せば、それだけ自分の取り分が少なくなるからだ。

息子の一人のリチャード・ジュニアは第二次世界大戦中にフィリピンで戦死した。

ラルフから送金を受けていたため、ラルフ・カポネの脱税を調査する大陪審への召喚状を受ける。そのときアル・カポネの兄が禁酒法取締官ということが新聞の見出しになった。大陪審に出頭したときのリチャードは糖尿病を患って肥満し、杖をついていた。頭は禿げ、眼鏡をかけていたが視力はひどく損なわれていた。かつての禁酒法捜査官の面影はなかった。

1952年10月1日にホーマーで心臓発作を起こし死亡。60歳。晩年に世間の注目を浴びたのでその死は広く報じられた。