ヴィルム・ホーゼンフェルト

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ヴィルム・ホーゼンフェルト
Wilm Hosenfeld 
生誕 1895年5月2日
ドイツ帝国マッケンツェル
死没 1952年8月13日
ソビエト連邦スターリングラード
職業 教師・陸軍予備役大尉 
配偶者 アンネマリー・クルムマッハー
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ヴィルム・ホーゼンフェルトWilm Hosenfeld1895年5月2日 - 1952年8月13日)は、ドイツの教育者、軍人陸軍大尉

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来歴[編集]

マッケンツェル(現ヘッセン州ヒューンフェルト市)生まれ。6人兄弟の4番目で、父親は敬虔なカトリックの教師だった。父と同じく教師への道を目指し教育学を専攻するが、卒業と同時に第一次世界大戦が勃発し、中尉として従軍。重傷を負って1917年に帰還した。戦後は地元ヘッセンの村で熱心な教師となった。1920年に結婚、5人の子をもうける。子供たちは全員医師になっている。カトリック、かつワンダーフォーゲル運動に熱心な家庭で育ち、はじめはプロイセン的な愛国主義者だったが、妻の影響で平和主義思想ももつようになった。

第二次世界大戦勃発と共に、44歳のホーゼンフェルトは故郷の後備部隊に従軍。予備役士官となり、ドイツが侵攻したポーランドの首都ワルシャワのスポーツ施設の責任者となる。ワルシャワ蜂起の際、ポーランド人ピアニスト・作曲家のウワディスワフ・シュピルマンを助けた。ホーゼンフェルトと何人かのドイツ軍将校は、ドイツ軍占領下のポーランドにおいて、ユダヤ人を含むポーランド国民に対して、同情すると共に、ナチス・ドイツがポーランドで行った諸々の行為を恥じ、シュピルマンと同じ境遇の多数の人々に支援の手をもたらした。ホーゼンフェルト自身はポーランド語もマスターし、ポーランド人教会に通った。

第二次世界大戦の末期の1944年に中隊長に転じ、1945年1月17日ソ連軍捕虜となる。ソ連はホーゼンフェルトが諜報部に属していたと断定しミンスクの獄に投じて拷問を加えたが、証拠も自白も得られなかった。証拠がなく、しかもホーゼンフェルトを弁護する多くの人々の証言にもかかわらず、ホーゼンフェルトの不起訴と刑の執行猶予はソ連軍当局によって拒絶され、軍事法廷で諜報活動に従事した戦犯として25年の強制労働を宣告された。拷問や過酷な労働のため何度かの脳卒中を起こし、精神に異常を来たした末に、スターリングラードの戦犯捕虜収容所で1952年8月13日に死亡した。

2007年10月、ポーランド政府はシュピルマンらを救った功績を顕彰してホーゼンフェルトにポーランド再生勲章を授与した。2009年2月にはイスラエル政府も「諸国民の中の正義の人」の称号をホーゼンフェルトに追贈した。

参考[編集]

  • Wilm Hosenfeld: "Ich versuche jeden zu retten"—Das Leben eines deutschen Offiziers in Briefen und Tagebüchern (Wilm Hosenfeld: "'I try to save everyone [I can]'—The life of a German officer in [his] letters and diaries"), compiled and with commentary by Thomas Vogel, published by the Militärgeschichtlichen Forschungsamt (MGFA: Military History Research Institute), Deutsche Verlags-Anstalt, Munich, 2004. ISBN: 3421057761

関連項目[編集]

外部リンク[編集]