ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィート
| ヴィルヘルム / スカンデルベク2世 Vilhelm / Skënderbeu II |
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| アルバニア公 | |
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| 首相 | トゥルハン・ペルメティ |
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| 出生 | 1876年3月26日 |
| 死亡 | 1945年4月18日(満69歳没) |
| 埋葬 | ルーマニア、ブカレスト、ルーテル教会 |
| 実名 | Wilhelm Friedrich Heinrich ヴィルヘルム・フリードリヒ・ハインリヒ |
| 王室 | ヴィート家 |
| 父親 | ヴィルヘルム・アドルフ・ツー・ヴィート |
| 母親 | マリー・ファン・オラニエ=ナッサウ |
| 公妃 | ゾフィー・フォン・シェーンブルク=ヴァルデンブルク |
| 子女 マリー・エレオノーレ カロル・ヴィクトル |
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| 信仰 | キリスト教ルーテル教会 |
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ヴィルヘルム・フリードリヒ・ハインリヒ・ツー・ヴィート(ドイツ語: Wilhelm Friedrich Heinrich zu Wied、1876年3月7日 - 1945年4月18日)はアルバニア公。対外的にはアルバニア公と称したが、アルバニア国内では国王(Mbret)と称した。
[編集] 生涯
ヴィート侯ヴィルヘルム・アドルフ(ルーマニア王妃エリサベタの実弟)と、妻マリー・ファン・オラニエ=ナッサウの三男として、ノイヴィート(現在のドイツ・ラインラント=プファルツ州の都市)で生まれた。
ヴィルヘルムは伯母エリサベタにより、アルバニア君主候補として推薦された。これに当時の欧州の大国、オーストリア、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリアがただちに賛成にまわり、1913年11月に新興国アルバニアの君主としてドイツ貴族ヴィート家出身のヴィルヘルムが擁立された。この決定をアルバニア首相イスマイル・ケマリも受け入れた。アルバニア公即位の依頼を最初に1913年春に受けたヴィルヘルムは乗り気ではなく依頼を拒否したにもかかわらず、オーストリアが圧力をかけたため前言を覆して即位を決めた。
1914年2月に正式に即位を宣言、同年3月に彼と妻ゾフィーはドゥラスへ到着した。ヴィルヘルムはトゥルハン・ペルメティに組閣を命じたが、大臣の一人であるエサド・トプタニがイタリアから資金提供を受け、クーデターを計画していることを知った。彼は1914年5月にエサド・トプタニを逮捕させ、裁判のうえ死刑をにしようとした。これにイタリアが横やりを入れ、エサド・トプタニは死刑から減刑されイタリアへ亡命した。
彼の統治が脆弱であることはすぐに露呈し、アルバニア中部で外国人支配を嫌う叛乱が起こった。これを支援したのはギリシャで、北エピルス地方政府が成立した。ギリシャ国民の多数の賛成を受け、ギリシャ軍がアルバニア南部へ侵攻し、ベラトとコルチェを占領した。
第一次世界大戦が勃発すると、オーストリアはヴィルヘルムに、アルバニア軍をオーストリア軍支援に派遣せよと言う難題を突きつけた。彼はロンドン条約による中立をたてに拒絶すると、彼が得ていた報酬が断たれた。
1914年7月からアルバニアは南部がギリシャに掌握され、大国の圧力も受けて内戦状態となった。ヴィルヘルムは9月に亡命したが、国を離れても形式上は君主のままだった。
ヴィルヘルムはドイツへ戻り、ドイツ帝国軍に加わった。彼はアルバニアを囲む周辺国の敗退を望み、実際アルバニア北部に接するセルビアとモンテネグロは事実上敗戦状態だったのだが、戦後のパリ講和会議では彼が公位に復帰することに大国の支持は得られなかった。アルバニアは公国としての体制のまま首相を代理として据えていたが、1925年1月31年にアルバニア共和国成立が宣言され、ヴィルヘルムの治世が正式に終わった。
その後アルバニアにおける君主制は大統領のアフメト・ゾグが国王となってアルバニア王国を樹立する形で復活したが、その際ヴィルヘルムは自身が君主であることを再度断言し、その後も自身と長男の公位継承権を主張し続けた。
ヴィルヘルムは、ルーマニアのプレデアル(シナヤ近郊)で死去した。
[編集] 家族
1906年11月30日、ゾフィー・フォン・シェーンブルク=ヴァルデンブルクとヴァルデンブルクで結婚し、一男一女をもうけた。
- マリー・エレオノーレ(1909年 - 1956年)
- カロル・ヴィクトル(1913年 - 1973年)
[編集] 関連項目
| 地位の継承 | |||||||||
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