ヴィクトール・ルイシキン

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ヴィクトール・ルイシキン
Viktor Ivanovich Ryzhkin
フィギュアスケート選手
生誕 (1937-04-26) 1937年4月26日(86歳)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の国旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
選手情報
代表国 ロシアの旗 ロシア
所属クラブ CSKAモスクワ

ヴィクトール・ルイシキンロシア語: Виктор Иванович Рыжкинロシア語ラテン翻字: Viktor Ivanovich Ryzhkin1937年4月26日- )は、旧ソ連フィギュアスケートアイスダンス選手で旧ソ連ロシアフィギュアスケートコーチ、振付師

来歴[編集]

ルイシキンは6歳でモスクワのピオニール宮殿にてフィギュアスケートを始めた。アイスダンス選手として競技を続け、9歳年下のリュドミラ・パホモワと組みスタニスラス・ジュークの指導の下、1964-1966年までソ連国内選手権3連覇、1966年世界選手権を10位入賞した。しかしパホモワがアレクサンドル・ゴルシコフと恋愛関係になり[1]、このシーズンをもってパホモワとパートナーシップを解消した。その後すぐにイリーナ・グリシュコワと組み、コーチをエレーナ・チャイコフスカヤに変え、1966-1967年のソ連国内選手権を連覇し、1968年ヨーロッパ選手権4位、1968年世界選手権5位となりそのシーズンで引退した。現役選手中の1960年にロシア国立体育・スポーツ・青年・観光大学を卒業してフィギュアスケートコーチの資格を既に得ていた。

コーチ活動[編集]

1972年からはコーチ拠点をSDUSHOR CSKA に移し、コーチ活動を開始する。1972-1981年にはCSKAのヘッドコーチ、1984-1991年にはCSKAの上級コーチを務めた。これらの役職と平行して1981-1984年までブルガリア五輪チームのコーチ、1990-1998年に日本フィギュアスケート連盟の招聘により[2]日本で就労ビザを取得し[3]コーチ活動と大会運営などのコンサルタントも行っていた。当時日本で指導した選手には伊藤みどり横谷花絵らがいる。また当時松戸DLLに沢山のロシア人選手が居て、直接指導を受けていないが川口悠子もルイシキンと会話はしていた[4]。 またそれらのコーチ活動と並行してフリーランスのスポーツライターとして新聞旧ソ連プラウダにスケート関連の記事を寄稿したり、旧ソ連ロシアのスポーツジャーナリストとして競技会テレビ解説者やラジオ解説者としてコメンテーターも行っていた。また、旧ソ連の指導者達と共著で一流のトレーニングプログラム指導法、テキストブックを書き、指導法を確立した。現在でも日本のフィギュアスケート雑誌に識者として寄稿したり[5]、大会についてコメントを求められている。

指導した選手[編集]

称号[編集]

主な戦績[編集]

パートナーはリュドミラ・パホモワ 

大会/年 1963-1964 1964-1965 1965-1966
世界選手権 10
欧州選手権 7
ソビエト選手権 1 1 1

パートナーはイリーナ・グリシュコワ

大会/年 1966–1967 1967–1968
世界選手権 7 5
欧州選手権 8 4
モスクワ国際 1 1
ソビエト選手権 1 1

脚註[編集]

出典[編集]

外部リンク[編集]