ヴァルター・ルフト

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スペインで戦うルフト(1939年3月撮影)
ポーランド戦線にて将校と会話するルフト。(1941年)

ヴァルター・ルフト(Walther Lucht, 1882年2月26日 - 1949年3月18日)は、ドイツ軍人。最終階級は砲兵大将(General der Artillerie)。

経歴[編集]

1882年、ベルリンにて生を受ける。1901年夏、アビトゥーア試験に合格したルフトは軍人の道を選び、士官候補生(Fahnenjunker)として第1(東プロイセン)「フォン・リンゲル」徒歩砲兵連隊(Fußartillerie-Regiment „von Linger“ (Ostpreußisches) Nr. 1)に配属される。1902年10月18日、少尉(Leutnant)に昇進。1907年から1910年までは大隊付副官(Bataillonsadjutant)として勤務する。1911年10月18日、中尉(Oberleutnant)に昇進。以後は第8砲兵中隊(8. Batterie)にて勤務する。第一次世界大戦が始まると、彼は一時ベルリンのプロイセン陸軍大学ドイツ語版に送られるが、まもなく連隊に復帰し前線にて砲兵中隊長として勤務した。1914年9月4日、大尉(Hauptmann)に昇進。その後は参謀将校として参謀本部勤務や大隊長勤務などについた。

敗戦後も共和国軍に残留し、第2(プロイセン)砲兵連隊(2. (Preußisches) Artillerie-Regiment)に勤務する。1921年10月1日、国軍省ドイツ語版に移り、1924年まで陸軍輸送局(Heerestransportabteilung)に勤務した。1925年12月1日、少佐(Major)に昇進。同年以降は第7(バイエルン)師団ドイツ語版(7. (Bayerische) Division)に移り、1927年まで第1集団司令部(Gruppenkommandos 1)の参謀として勤務した。1929年、グローガウの地区司令官(Standortkommandant)に任命される。1930年4月1日、中佐(Oberstleutnant)に昇進。1932年3月31日、退役。

退役から4年後の1936年、軍拡の決定を受け陸軍に復帰。1937年10月から1939年夏まで、コンドル軍団付砲兵隊の指揮を執る。1938年6月1日までに大佐(Oberst)となり、1939年9月1日には第215砲兵連隊(Artillerieregiment 215)の連隊長に任命される。1940年2月6日、第40砲兵司令官ドイツ語版(Artilleriekommandeur 40)に任命され、2月17日には少将(Generalmajor)に昇進している。同年夏には1939年版鉄十字章略章を受章している。その後、第310高等砲兵司令官(Höherer Artilleriekommandeur 310)を経て1942年2月17日より第336歩兵師団ドイツ語版長に任命され、この頃にドイツ十字章金章を受章している。

1942年11月1日、中将(Generalleutnant)に昇進。1943年1月30日、第366師団によるドン川方面の防衛に関する戦功により、騎士鉄十字章を受章。1943年7月22日、ケルチ海峡方面の指揮官に任命される。1943年10月1日、砲兵大将(General der Artillerie)に昇進。1943年11月1日、第66軍団(LXVI. Armeekorps)司令官に就任。1945年1月9日、アルデンヌ攻勢での戦功から騎士鉄十字章に柏葉章が付される。

1945年3月初頭、ルフトはルール包囲戦ドイツ語版の只中にいたが、100人程度の将兵を率いて脱出に成功している。1945年4月、第11軍司令に就任。第11軍は敗戦までハルツ要塞に立てこもっていた。敗戦後、ブランケンブルクドイツ語版にてアメリカ軍に投降する。

1948年には捕虜収容所から釈放されるが、その1年後には交通事故で死去した。

受章[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c Rangliste des Deutschen Reichsheeres, Hrsg.: Reichswehrministerium, Mittler & Sohn Verlag, Berlin 1930, S. 119
  2. ^ a b Veit Scherzer: Die Ritterkreuzträger 1939-1945, Scherzers Militaer-Verlag, Ranis/Jena 2007, ISBN 978-3-938845-17-2, S. 516

参考文献[編集]

外部リンク[編集]