ローレンス・スティーヴン・ラウリー

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ローレンス・スティーヴン・ラウリー
Laurence Stephen Lowry
生誕 1887年11月1日
イギリスの旗 イギリスイングランドランカシャー(現グレーター・マンチェスター)、ストレットフォード
死没 1887年11月1日(満-89歳没)
イギリスの旗 イギリスダービーシャー、グロソップ
国籍 イギリスの旗 イギリス
教育 マンチェスター大学
サルフォード大学
著名な実績 画家
代表作 『試合を見に行く』Going to the Match (1928年)
『工場から出てきて』Coming from the Mill (1930年)
『工業風景』Industrial Landscape (1955年)
『アンの肖像』Portrait of Ann (1957年)
受賞 サルフォードの名誉市民権
名誉学位 Master of Arts
Doctor of Letters
この人に影響を
受けた芸術家
ヘレン・ブラッドリー(Helen Bradley)、シェーラ・フェル(Sheila Fell)、ハロルド・ライリー(Harold Riley)、アーサー・デラニー(Arthur Delaney)

ローレンス・スティーヴン・ラウリー(Laurence Stephen Lowry、1887年11月1日 - 1976年2月23日)は、イングランドのストレットフォード(Stretford)に生まれた画家である。そのデッサンおよび絵の多くは、英国のマンチェスターのペンドルベリー(Pendlebury)(同地で彼は40年以上にわたって暮らし、創作活動した)、サルフォード(Salford)およびその周辺地域を描いている。

ラウリーは、20世紀半ばの北西イングランドの工業地域の生活風景を描いたことで有名である。ラウリーは、独特の絵画製作のスタイルを発展させ、そして「マッチ棒男」("matchstick men")としばしば評されるヒト(人)の姿のある郊外風景で最もよく知られている。ラウリーはまた、人の住んでいない謎めいた風景画、黙想している肖像画、そして未刊の「マリオネット」("marionette")の作品をも描いたが、それらは、その死後ようやく見つかった。

様式化された人影の使用と天候の影響の欠如のために、ラウリーはときどき、素朴な(naïve)「日曜画家」("Sunday painter")として特徴づけられているが、これは彼の回顧展を計画準備した諸ギャラリーの見解ではない。[1][2][3][4]

ラウリーの作品の大規模な収集は、ザ・ラウリー(the Lowry)と命名されたサルフォード桟橋(Salford Quays)にある、目的をもって建てられたアート・ギャラリーのなかの永久的な公的な展示のなかにある。ラウリーは、生涯で5つの栄典を拒否した - そのなかには1968年のナイトがふくまれており、そしてしたがって英国の栄典の拒否の最多記録を保持している。[5]

2013年6月26日、ロンドンのテート・ブリテン(Tate Britain)で、同所では初めて、大きな回顧展が、開かれた。

前半生[編集]

ラウリーは、1887年11月1日に、ランカシャー(現グレーター・マンチェスター)のストレットフォード(Stretford)のオールド・トラッフォード(Old Trafford)のバレット・ストリート8番地(8 Barrett Street)に生まれた。[6]

エリザベスは女児を希望していたので、初めはラウリーを見ることすら不愉快であった。のちに母は、姉妹メアリーにたいする羨望を表したが、その姉妹には「ぶきような少年」("clumsy boy")でなく「すてきな3人娘」("three splendid daughters")がいた。ラウリーの父ロバートは、ジェーコブ・アーンショー・アンド・サン・プロパティー・カンパニー(Jacob Earnshaw and Son Property Company)の事務員であったが、引っ込み思案で内向的な男で、かつてラウリーは父を「冷たいひと」("a cold fish")で「自分は生きるべき人生を持っていることを悟り、そしてそれを生き抜こうとせいいっぱいがんばった(ような男)」("(the sort of man who) realised he had a life to live and did his best to get through it")と評した。[7]

ラウリーの誕生ののち、母親の健康はあまりに衰えているので、教授をつづけることはできなかったほどである。母親は天分がすぐれ、尊敬され、コンサートのピアノ奏者になりたいという大望があったと伝えられている。母親は、厳格な父によって高水準を期待するよう育て上げられた、怒りっぽい、神経質な女性であった。父とおなじように、母親も支配的で、失敗に不寛容であった。母親は、やさしくて愛情深い夫の注意と服従を確保する手段として病気をもちいて、そして母親は息子を同じやり方で支配した。英語版[要出典]

ラウリーは、晩年になされたインタヴューで、自分は不幸な幼年時代をすごし、抑圧的な家庭の雰囲気のなかで育てられたと主張した。母は、息子の美術家としての天賦の才の真価をみとめたとあらわにしめさなかったけれども、ラウリーが両親からクリスマス・プレゼントとして受け取った多くの本は、「かわいいラウリー」"Our dearest Laurie")に贈ると署名されている。在学中は、ラウリーは友だちをほとんどつくらず、そして学問的適正をしめさなかった。父親はラウリーにたいして愛情深かったが、しかし誰の話でも、機嫌がよくても、でしゃばらない存在として背景に徐々に消える、静かな男であった。[8][9]

ラウリーの早い時期の大部分は、ラスホルム(Rusholme)のヴィクトリア・パーク(Victoria Park)の、葉のおおく繁ったマンチェスター郊外で過ごされたが、しかし1909年に財政的逼迫のために、一家はペンドルベリー(Pendlebury)という工業都市のステーション・ロード117番地(117 Station Road)に移った。ここでは風景は、樹々というよりもむしろ織物工場と工場煙突から成った。ラウリーはのちにこのように回想した。

「初めはわたしはそれを嫌悪し、それから幾年もののちわたしはそれにかなり関心を抱き、それから取り憑かれた...。ある日わたしはペンドルベリー - わたしが7年間、無視した(場所)- からの列車に乗り遅れた。そしてわたしが駅を出ると、アクメ紡績会社(Acme Spinning Company)の工場が見えた...。哀しげな、湿気をおびた午後の空を背景に、黄色く照明された窓の列の巨大な黒い枠組みが、たかく立っていた。工場はストライキをしていた...。わたしはこの風景を見守った。これをわたしはいくたびも眼を向けていたのに、見えていなかった。夢中になって...。」[10]

教育[編集]

ラウリーがサルフォード・ロイヤル・テクニカル・カレッジ(Salford Royal Technical College)で研究したピール・ビルディング(Peel Building)。 ここから、サルフォードのピール・パーク(Peel Park)を望めるが、それはラウリーのおおくの絵の主題である。

学校を去ったのち、ラウリーはポールモール社(Pall Mall Company)ではたらきはじめ、のちに家賃を集金した。 ラウリーは、昼食時間をビル・ヒル・パーク(Buile Hill Park)ですごすのが常であった。[11]

ラウリーは、毎夕、古代風の、用具をつかわず手による、デッサンの、美術の個人授業をうけた。1905年にラウリーは、マンチェスター美術学校(Manchester School of Art)に職を得たが、そこで彼はフランス印象主義者ピエール・アドルフ・ヴァレット(Pierre Adolphe Valette)の下で研究した。[12]ラウリーは、教師としてのヴァレットにたいする賛美の念でいっぱいで、次のように述べた「わたしは、フランスの印象主義者でいっぱいな、パリで起こっているすべてのことを意識している、アドルフ・ヴァレットのこの淡褐色の都市にくわわることの、わたしにたいする効果を過大評価することができない。」[13]1915年にラウリーは、サルフォード・ロイヤル・テクニカル・カレッジ(Salford Royal Technical College)(今のサルフォード大学(University of Salford))に進学し、そこで彼は1925年まで研究を続け、そしてそこでラウリーは工業風景にたいする関心をふかめ、そしてそのスタイルを確立しはじめた。[14]

両親の死[編集]

父は1932年に負債を遺して死んだ。母は神経症鬱病のために、寝たきりになり、世話は息子に依存するようになった。ラウリーは、母が寝入ったのち、午後10時から午前2時まで、または、疲れかたしだいで、ラウリーはもう1時間、起きていて、特徴を追加することもあった。この期間に製作された多くの絵は、罪を証明する自画像(しばしば「恐ろしい頭部」"Horrible Heads")と評される)であったが、これは表現主義の影響をしめしているし、そして1931年の、ゴッホの作品のマンチェスター市立美術館での展示に霊感を与えられたのかもしれない。ラウリーは、母が死んだ年まで自分が美術家としてほとんど認知されなかったことと、母が自分の成功を享受できなかったことを後悔していると述べた。1930年代半ばからすくなくとも1939年まで、ラウリーはベリック・アポン・ツイードで年次休暇をすごした。第二次世界大戦の勃発ののち、ラウリーは、志願しての火災監視員として兵役に服し、そして公式の戦争美術家になった。1953年にラウリーは、エリザベス2世戴冠式の公式画家に任命された。

母が1939年10月に死んだとき、ラウリーは鬱病になり、じょじょに、家の補修をなおざりにして、1948年に家主がそれを取り戻したほどであった。ラウリーは金が不足していなかったし、そしてモットラム・イン・ロングデンデール(Mottram in Longdendale)の『ズィ・エルムズ(ニレ(楡))』(The Elms)を買った。ラウリーはその家を醜くそして住みにくいと考えたけれども、ラウリーはほとんど30年後の死亡時までそこにとどまった。[15]

個人的生活[編集]

後年、ラウリーは、休暇を、ダラムのサンダーランド(Sunderland)のシーバーン・ホテル(Seaburn Hotel)で浜辺やちかくの港や炭鉱の風景を描きながら、過ごした。スケッチブックを持っていなかったとき、ラウリーは、鉛筆あるいは木炭で、封筒の裏、ナプキン、そしてクロークルームのチケットに風景を描き、そしてそれらを家族とともにすわっている若い人々に贈った。掘り出し物として偶然に発見されるこういう作品は今や、数千ポンドの価値がある。或るナプキンのスケッチは、サンダーランド・マリオット・ホテル(Sunderland Marriott Hotel)(もとシーバーン・ホテル(Seaburn Hotel))で見ることができる。

ラウリーは、真実性にかかわらず、物語を楽しむ、秘密主義な、いたずら好きな男であった。[16] ラウリーの友人らは、ラウリーの逸話は正確さよりもユーモアで有名であり、そして多くの場合、ラウリーは、だまそうと故意に思い立ったと述べた。虚構のアン(Ann)にかんするラウリーの物語は、首尾一貫しておらず、そしてラウリーは、ほかのひとびとを話をぶらさげる枠組みとしてでっちあげた。ラウリーのリヴィング・ルームに収集された置き時計は、どれも違う時刻に合わせられていた。ラウリーは、ある人々には、本当の時刻を知りたくないからだと言い、またある人々には、同時のチャイムに耳をつんざかされなくてすむからだと主張した。

ラウリーの人生における矛盾は、このような混乱によって激化させられている。ラウリーは恥ずかしがり屋としてひろく見なされているが、しかしラウリーは、サルフォードの美術家ハロルド・ライリー(Harold Riley)をふくむ長く持続する交友があり、成人生活をつうじて新しい友人をつくった。ラウリーは、ジェームズ・ローレンス・イシャウッド(James Lawrence Isherwood)のような自分が賛美する若い美術家から作品を買ったし、彼の『黒猫をだく女』(Woman with Black Cat)はラウリーのアトリエの壁にかかっていた。[17]ラウリーは、これらの美術家のいくたりかと友だちづきあいをつづけた。ラウリーは1955年11月に23歳のカンバーランドの美術家シェーラ・フェル(Sheila Fell)と友人になり、彼女を「20世紀半ばの最高の風景美術家」(“the finest landscape artist of the mid-20th century”)と評した。[18]ラウリーは、自分が美術館に与えた幾点かの絵を買うことによって彼女の経歴をささえた。フェルはのちにラウリーをつぎのように評した。

「偉大なヒューマニストです。ヒューマニストであるためには、まず人類を愛さなければなりませんし、そして偉大なヒューマニストになるには、人類からすこし無関心でなければなりません」

ラウリーはついに結婚しなかったので、このことはラウリーの影響力に衝撃を与えたが、しかしラウリーは女性の友だちがいくたりかいた。 88歳でラウリーは、自分は「まったく女性を知らない」("never had a woman")と言った。[19]

1950年代後半に自分の名声がたかまるにつれて、ラウリーは見知らぬ人に接近されることに飽きるようになり、そして自宅を訪問されることをとくにきらった。べつの立証しえない話では、ラウリーは、ちょうど出かけるところであったと主張できるように表の扉のそばにスーツケースを置きっぱなしにしていたが、親切な若者が、ラウリーを鉄道駅に連れて行こうと主張し、そしてラウリーのだましをあきらかにしないでたったひと駅の乗車券を彼が買えるように紙を買いにやらされたあとに、この習慣はやめたとラウリーは主張した。しかし、ラウリーはモットラムの住民に礼儀正しかったし、彼らはラウリーを尊敬し、ラウリーのプライヴァシーを尊重した。ラウリーは隠遁の区域をまわるのにバスを利用した。ラウリーの青銅製の彫像が、村の交通信号灯のところに立てられた。ラウリーは、自分を「単純な人間」"simple man")として見せかけようとし、かつ、不履行によって、古典期以後の美術の真価を評価することができないにもかかわらず、20世紀美術の主要な傾向に気づいていたように思われる。マーヴィン・レヴィー(Mervyn Levy)とのインタヴューで、ラウリーは、ルネ・マグリットルシアン・フロイドの作品にたいする感嘆をあらわしたけれども、ラウリーは、自分はフランシス・ベーコン (芸術家)の作品を理解しないと認めた。自作の売却で大金を自由につかえるようになりはじめたとき、ラウリーは、ラファエル前派の美術家ロセッティによる多数の絵とスケッチを購入した。これらの作品の多くは、エリザベス・シダルジェーン・モリスウィリアム・ホルマン・ハントのミューズであるアニー・ミラー(Annie Miller)の肖像画であった。ラウリーは、ロセッティが自分の主たる霊感源であると見なしていた。

主として孤独な隠遁した人物と見られているけれども、ラウリーは、サッカーの試合にかようことをたのしんだし、マンチェスター・シティFCの熱心なサポーターであった。 [20]

引退[編集]

ラウリーは、1952年、65歳の誕生日にポール・モール・プロパティー・カンパニー(Pall Mall Property Company)を退職した(McLean、1978年)。ラウリーは、現金係主任になったが、しかしけっして家賃を集金することをやめなかった。会社は、ラウリーの美術家としての発展をささえ、そして年次休暇にくわえて展示のために時間をあたえた。ラウリーは自分の仕事を誇りに思っていなかったように思われる。会社雇用にかんする秘匿は、自分自身を本格的な美術家として見せかけたいという欲望としてひろく見なされるが、しかし秘密は美術界をこえて社会圏のなかにおよんだ。

ヒルダ・マージェリー・クラーク(Hilda Margery Clarke)は女生徒であったときラウリーに会い、そしてラウリーは彼女の家族の一部となった。ラウリーは、彼女の家族や友人らとともにコンサートに行き、彼女の家を訪ね、ペンドルベリーの自宅で彼女をもてなし、そこでラウリーは絵の知識を分け与えた。ふたりはラウリーが死ぬまで友人であったが、しかしラウリーは美術以外のしごとをもっていることを彼女に語らなかった。1950年代にラウリーは、カンバーランド(そこでジェフリー・ベネット(Geoffrey Bennett)はウェストミンスター銀行(Westminster Bank)の支配人であった)のクリエーター・ムーア(Cleator Moor)とサウサンプトン(そこにマージェリー・トンプソン(Margery Thompson)は結婚後、移っていた)にいる友人らのもとを訪れた。ラウリーは、クリエーター・ムーアの岸、サウサンプトンの浮き橋(Southampton Floating Bridge)(ウールストンの浮き橋(Woolston Floating Bridge))、および友人らの家に近いその他の風景の絵を描いた。

1957年に、キャロル・アン・ラウリー(Carol Ann Lowry)という親戚ではない13歳の女生徒が、美術家になることについて助言を求めるように母に強くうながされてラウリーあてに手紙を書いた。ラウリーは、グレーター・マンチェスター(Greater Manchester)のへーウッド(Heywood)の彼女の家を訪れ、その家族と友人になった。ラウリーの、キャロル・アン・ラウリーとの交友は、彼が死ぬまで続いた。[21]

ラウリーは、変化する風景には関心が無いことを引きあいにだして美術界から引退することで冗談を言った。そのかわりに、ラウリーは、人物像ときみょうな想像上の登場人物の集団に焦点を合わせはじめた。友人らや公衆に知られないまま、ラウリーは、一連のエロチックな作品を製作したが、それらはラウリーの死後、はじめて見られた。それらの絵は、謎めいた「アン(Ann)」の像を描いているが、アンは、性的な攻撃や自尊心を傷つける拷問に耐えながら、ラウリーの生涯をつうじて製作された肖像やスケッチにあらわれている。これらの作品が1988年にバービカン・センターでアート・カウンシルの100年記念(Art Council's Centenary)の展覧会で展示されたとき、美術批評家リチャード・ドーメント(Richard Dorment)は『デーリー・テレグラフ』に、これらの作品は「さきだつ60年間の作品においてはけっしてこれほど示唆されていない性的不安をあきらかにした」と書いた。これらのエロティックな作品は、ときには「マネキン・スケッチ」("the mannequin sketches")あるいは「マリオネット作品」("marionette works")と評されており、ラウリー・センターに保管されており、そして訪問者は請求しだい見ることができる。一部は、交代制で公共展示区域に出されている。マンチェスターの著者ハワード・ジェーコブソン(Howard Jacobson)は、これらのイメージはラウリーの憂鬱な拷問される世界観のほんのいちぶぶんであり、これらはもしより広く見られればラウリーの作品の複雑さの公的な認識を変えるであろうと主張した。[22][23]

死と遺産[編集]

サルフォード桟橋のラウリー・センターの出入口

ラウリーは1976年2月23日に88歳でダービーシャーのグロソップ(Glossop)のウッズ病院(Woods Hospital)で肺炎のために死亡した。ラウリーはマンチェスターのサザン墓地(Southern Cemetery)の、両親のとなりに埋葬された。ラウリーは、298,459ポンド相当の財産と、自分自身と他人とによる美術作品をキャロル・アン・ラウリーに遺し、彼女は2001年にこの美術家の署名の商標保護を入手した。

ラウリーは、文化的な遺産、幾100万ポンドでしばしば売られ、ほかの美術家に霊感をあたえた作品を遺した。サルフォード桟橋のザ・ラウリーは、2000年に106百万ポンドをかけて開かれた。ラウリーにちなんで命名され、2,000平方メートル (22,000 ft²)の画廊、彼の絵のうち55点と278点のデッサン。 - ラウリーの作品の世界最大の収集。 - 100点まで展示する。[24]2005年1月に、ロングデンデール(Longdendale)のモットラム(Mottram)でラウリーの彫像の除幕が行なわれた[25]が、そこは彼の1948年から1976年の死までの自宅から100ヤード離れている。彫像は、除幕されたときから、破壊者の標的となってきた。[26] 2006年に、サルフォードにあるラウリー・センター(Lowry Centre)は、ラウリーの諸作品に霊感をうけたコンテンポラリー・ダンス・パフォーマンスを主催した。[27]

2013年6月26日、ロンドンのテート・ブリテンで、同所では初の、ラウリーの回顧展が開かれ、10月20日までの予定である。[28][29]

栄典[編集]

L. S. ラウリーの記念物 ロングデンデール(Longdendale)のモットラム

ラウリーは、1945年にマンチェスター大学によって 名誉Master of Arts の学位を、1961年に Doctor of Letters をあたえられた。 ラウリーは1965年にサルフォードの名誉市民権を与えられた。1975年にラウリーは、サルフォード大学とリヴァプール大学によって 名誉Doctor of Letters 学位をあたえられた。1964年に美術界は、マンチェスター、エクルズ(Eccles)のモンクス・ホール・ミュージアム(Monk's Hall Museum)でのラウリーの作品の展示と、賛辞を提示した同時代の美術家25人の作品の展示でラウリーの77歳の誕生日を祝った。ハレ管弦楽団は、ラウリーに敬意を表して演奏会を開き、そして首相ハロルド・ウィルソンはラウリーの絵『池』(The Pond)を公式クリスマス・カードに用いた。ラウリーの絵『学校から出てくる』(Coming Out of School)は、1968年に英国の偉大な美術家を描いている、ポスト・オフィス(Post Office)によって発行された、シリーズの最高金額の郵便切手に描かれた。

ラウリーは2度にわたって、大英帝国勲位を辞退した:1955年に、第4級勲爵士(an Officer (OBE))、1961年に、第3等勲爵士(Commander (CBE))。[30]彼は1968年にナイトを、1972年と1976年に最下級勲爵士(Order of the Companions of Honour (CH))をことわった。[30]ラウリーは、栄典の辞退の最多記録を保持しているようである。[30]

引用[編集]

工業風景について:

  • 「われわれはマンチェスターの居住がわから1909年のペンドルベリーに行き、そしてわれわれはそれが気に入らなかった。父は、仕事上の理由からある友人のそばに近づきたかった。われわれは隣で暮らし、そして長い間、母はそれが気に入らず、そして、初めはわたしはそれが嫌いであったし、そしてそれから1年かそこらのちにそれに慣れ、それからに夢中になり、それからそれにのぼせあがった。それからわたしは、これをやったひとがいたかしらと思い始めた。真面目な話、1回や2回ではなく、本格的に。それはりっぱな工業的な主題であるように、このときまでに、わたしにはおもわれた。そしてわたしはそのとき、だれかそれをやったひとに会えなかった - そしてだれもやっていないようにおもわれた。」
  • 「わたしの土地と町景観の大部分は、複合物である。作り上げられた。いちぶは現実でそして一部は想像上で [...] 地元の位置の寄せ集め。わたしは、自分がそれらを入れていることを知ってさえいない。それらは突然、現われる、夢のなかでのように。」

自分のスタイルについて:

  • 「わたしは、自分が夢中になったもののなかにじぶんじしんを描きたかった[...]自然の人影であればそれの呪文を解くであろうし、それでわたしは自分の人影をなかば非現実的にした。批評家のなかには、わたしが人影をパペットにした、あたかもわたしの目的は人影を駆り立てる厳しい経済的必要性をほのめかすことであるかのように、と言っている人々もいる。実を言うと、わたしは人々のことはあまり考えていなかった。わたしは、社会改革者のようなやりかたでは彼らを気にしていなかった。彼らは、わたしにつきまとった美の一部である。わたしは、彼らと家々を同じやりかたで愛していた:ヴィジョンの一部として。」
  • 「わたしは単純な人間であるし、そしてわたしは単純な原材料を用いている:アイヴォリー・ブラック、ヴァーミリオン、プルシアン・ブルー、フレーク・ホワイト、それだけである。わたしが絵にかつて用いたのは、それだけである。わたしは油絵具が好きだ[...]わたしはある期間、働き込むことができる原材料が好きだ。」

自分の「海景画」("Seascapes")について:

  • 「それは生のたたかいである - 海の乱流[...]わたしはうまれてからずっと海が好きであった、それはなんとすばらしいものであろう、しかしそれはなんとおそろしいものであろう。しかしわたしはしばしば考える[...]もしそれの気がかわり、そして潮を変えたならばどうしよう? そしてまっすぐ襲ったならば? もしそれがとどまらずそしてどんどんおそったならば[...]それはすべてのおわりであろう。」

美術について:

  • 「画家になるには頭脳は必要ない、ただ感覚だけだ。」
  • 「わたしは美術家(artist)ではない。絵を描いている人間だ」
  • 「この術(art)は恐ろしいものだ。」

作品[編集]

ラウリーの作品は、多くの公的な、そして私的なコレクションに収められている。最大のコレクションは、サルフォード市議会が所蔵し、そしてザ・ラウリーで展示されている。そのコレクションは約400点である。[31]彼の諸デッサンの下の隠された人影らが、エックス線分析によって、明らかになった - 「アン」("Ann")の人物ら。『試合を見に行く』(Going to the Match)は、プロフェッショナル・サッカー選手協会(Professional Footballers' Association (PFA))が所有し、そしていちじ、国立サッカー博物館(National Football Museum)に展示されている。

ロンドンのテート・ギャラリーは、23点の作品を所有している。サウサンプトン市は『浮き橋』(The Floating Bridge)、『運河橋』(The Canal Bridge)および『工業都市』(An Industrial Town)を所有する。彼の作品は、ニューヨーク近代美術館で特集されている。ニュージーランドのクライストチャーチにあるクライストチャーチ・アート・ギャラリー・テ・プナ・オ・ワイフェトゥ(Christchurch Art Gallery Te Puna o Waiwhetu)は、そのコレクションに『ウィッドネスの工場』(Factory at Widnes)(1956年)を持っている。この絵は、そのギャラリーの1950年代の最も重要な取得物の1つであったし、そしてその収集の現代英国美術の呼び物のままである。[32]

ラウリーは、生涯に約1000点の絵と8000点を超えるデッサンを制作した。ここの一覧表は、特に重要であると見なされているもののいちぶである。

主な作品[編集]

  • 1906年 『静物』(Still Life
  • 1910年 『クリフトン・ジャンクションの朝』(Clifton Junction Morning
  • 1912年 『美術家の母の肖像』(Portrait of the Artist's Mother
  • 1917年 『工場からやって来て』(Coming from the Mill) - ラウリー・スタイルとして知られているものの初期の例
  • 1919年 『フランク・ジョップリング・フレッチャー』(Frank Jopling Fletcher) - ラウリーのスタイル化が選ばれたものであっていかなる技量の欠如でもないことをしめす肖像画
  • 1922年 『製造業都市』(A Manufacturing Town) - 原型的なラウリーの工業風景
  • 1922年 『リージェント・ストリート、ライサム』(Regent Street, Lytham
  • 1925年 『自画像』(Self Portrait
  • 1926年 『事故』(An Accident
  • 1927年 『ピール・パーク、サルフォード』(Peel Park, Salford) - ラウリーがことに好んだ画廊兼博物館で、ザ・ラウリーという劇場と画廊の複合施設が開く前は彼の作品のサルフォードの収集をおさめていた
  • 1927年 『橋からの眺め』(A View from the Bridge
  • 1927年 『学校からやって来て』(Coming Out of School) - ロード・デュヴィーン・ファンド(Lord Duveen Fund)によって、テート・ギャラリーによって買われることになる、最初のラウリーの絵
  • 1928年 『路上風景』(A Street Scene) - サルフォード・シティー・アート・ギャラリー(Salford City Art Gallery)によって買われることになる、最初のラウリーの絵
  • 1928年 『試合見物に行く』(Going to the Match
  • 1930年 『工場からやって来て』(Coming from the Mill
  • 1934年 『空き家』(The Empty House
  • 1935年 『たたかい』(A Fight
  • 1935年 『発熱で救急車』(The Fever Van[33]
  • 1936年 『礎石を据えて』(Laying a Foundation Stone) - グレート・マンチェスター、クリフトンに礎石を据える、スウィントン・アンド・ペンドルベリー(Swinton and Pendlebury)の市長[34]
  • 1937年 『湖』(The Lake
  • 1938年 『人の頭部』(A Head of a Man
  • 1940年 『寝室 - ペンドルベリー』(The Bedroom ;- Pendlebury
  • 1941年 『運河のはしけ』(Barges on a Canal
  • 1941年 『丘の上の家』(Houses on a Hill[35]
  • 1942年 『海』(The Sea) - ベリック=アポン=ツイード(Berwick-upon-Tweed)海岸沖合の悲嘆に暮れた絵[36]
  • 1942年 『電撃的に襲撃された土地』(Blitzed Site
  • 1943年 『遊んでいる英国』(Britain at Play) - マンチェスター、セント・マイケルズ・フラッグズ・アンド・エンジェル・メドー・パーク(St Michael's Flags and Angel Meadow Park)を描いている、忙しい都市風景
  • 1943年 『働きに行く』(Going To Work) - 戦争美術家として描き、帝国戦争博物館(Imperial War Museum)のコレクションにある。[37]
  • 1945年 『ヨーロッパ戦勝記念日』(V.E. Day[38]
  • 1946年 『公園』(The Park
  • 1946年 『聖金曜日、デージー・ヌーク』(Good Friday, Daisy Nook) - 2007年に380万ポンド(ラウリー作品の記録価格)で売られた[39]
  • 1947年 『川岸』(A River Bank[40] ベリーカウンシル(Council)によって1951年に150ポンドで買われ、そしてぎゃくに1000,0000ポンドの財政赤字に資金を提供するためにメトロポリタン・バラ・オヴ・ベリー(Metropolitan Borough of Bury)によって2006年にクリスティーズで125,0000ポンドで売られた。[41]
  • 1947年 『鉄工所』(Iron Works
  • 1947年 『クレーンと船、グラスゴー』(Cranes and Ships, Glasgow Docks) - 2005年11月にクリスティーズにおいてグラスゴー市議会によって19万8400ポンドで入手され、もっか、ケルヴィン・ホールで展示されて、それはとくにあたらしいリヴァーサイド・ミュージアム(Riverside Museum)における展示のために買われた。[42]
  • 1949年 『運河橋』(The Canal Bridge
  • 1949年 『フットボールの試合』(The Football Match) - 20年間、一般公開されなかったのち、ようやく2011年5月にクリスティーズにおいて売りに出された。[43]のちに5.6ポンドで売れた[44]
  • 1950年 『池』(The Pond[45] - 絵は、1964年に英国首相ハロルド・ウィルソンによってクリスマス・カードとして用いられた
  • 1953年 『サッカー場』(Football Ground) - ボルトン・ワンダラーズF.C.(Bolton Wanderers F.C.)の古いサッカー場バーデン・パーク(Burnden Park)にあつまっているファンら。サッカー協会(the Football Association)によって運営される競技会のために描かれて、それはのちに『試合を見に行く』(Going to the Match)と命名され、そして1999年にプロ・サッカー協会(Professional Footballers' Association)によって190万ポンドという記録で買われた。[46]
  • 1955年 『若者』(A Young Man[47]
  • 1955年 『工業風景』(Industrial Landscape[48]
  • 1956年 『浮き橋』(The Floating Bridge) - サウサンプトン市によって所有される絵のひとつであるが、市ではその橋が1977年まで利用された
  • 1956年 『ウィッドネスの工場』(Factory at Widnes)ニュージーランド、クライストチャーチ、クライストチャーチ・アート・ギャラリー・テ・プナ・オ・ワイフェトゥ
  • 1957年 『壁によりかかっている男』(Man Lying on a Wall) - 男のブリーフケースに「LSK」というイニシャルがある、優しいジョークに注目せよ
  • 1957年 『アンの肖像』(Portrait of Ann
  • 1959年 『砂の上に』(On the Sands
  • 1960年 『何かを見ている紳士』(Gentleman Looking at Something
  • 1961年 『サンダーランドの川堰』(River Wear at Sunderland
  • 1962年 『ひとが2人』(Two People
  • 1963年 『海』(The Sea
  • 1967年 『工業的風景』(Industrial Scene
  • 1967年 『油送船がタイン川にはいる』(Tanker Entering the Tyne

デッサン[編集]

  • 1908年 『骨董品の頭部』(Head from the Antique
  • 1914年 『座る裸の男』(Seated Male Nude
  • 1919年 『ロバート・ラウリー』(Robert Lowry
  • 1920年 『美術家の母』(The Artist's Mother
  • 1931年 『ペンドルベリーの風景』(Pendlebury Scene
  • 1936年 『ドゥワーズ・レーン』(Dewars Lane)(ドゥワーズ・レーンは今は、ラウリー・トレール(Lowry Trail)のいちぶである)[49]
  • 1942年『ウェンロック・エッジの一部』(A Bit of Wenlock Edge)
  • 1956年『バーウィック桟橋と灯台』(Berwick Pier and Lighthouse
  • 1957年『あごひげのある女』(Woman with Beard
  • 1958年『ズィ・エルムズ』(The Elms) (Lowry's house in Mottram in Longdendale)(ロングデンデールのモットラムのラウリーの家)
  • 1961年『コーリアリー、サンダーランド』(Colliery, Sunderland)
  • 1969年『正面、ハートルプール』(The Front, Hartlepool
  • 年不明『パレス・ストリート』(Palace Street), Berwick
  • 年不明『試合』(The Match[36]
  • 1945年?『聖ルカ教会、オールド・ストリート、ロンドン』(St Luke's Church, Old Street, London[50]

盗難にあったラウリーの諸作品[編集]

2007年5月2日、ストックポート(Stockport)のチードル・ハルム(Cheadle Hulme)のグローヴ・アート・ギャラリー(Grove Fine Art Gallery)でラウリーの美術作品5点が、盗難にあった。最も高価なものは『高架橋』(The Viaduct)で、700,000ポンド相当、『タイン川にはいる油送船』(The Tanker Entering the Tyne)は500,000ポンド超と見積もられた。『診療所』(The Surgery)、『リングリーの橋』(The Bridge at Ringley)および『露天市』(The Street Market)もまた盗まれた。[51] これらの絵は、のちにリヴァプールのちかくのヘールウッド(Halewood)の或る家で見つかった。[52]

記念[編集]

  • ラウリーの生誕100年をしるしづけるために、サルフォード市およびBBCのために、ロイストン・ファター(Royston Futter)は、ノーザン・バレー・シアター(Northern Ballet Theatre)およびギリアン・リン(Gillian Lynne)に彼を祝してダンス・ドラマを創作するように依頼した。『A Simple Man』は、振付、監督がリン、音楽がカール・デーヴィス(Carl Davis)、出演がクリストファー・ゲーブル(Christopher Gable)、モイラ・シアラー(彼女の最後のダンス・ロール(dance role))で、そしてこれは1987年に英国映画テレビ芸術アカデミー賞のベスト・アーツ・プログラム賞を受賞した。これはつづいて舞台化され、そしてさいしょに1987年にマンチェスターで、1988年にサドラーズ・ウェルズ(Sadler's Wells)でロンドンで上演された。
  • 2011年8月、ラウリーの青銅製の彫像が、彼のお気に入りのパブ「サムズ・チョップ・ハウス」(Sam's Chop House)の地階に据え付けられた。[53]

大衆文化において[編集]

  • 1968年1月、ロック・バンドステイタス・クオーは、シングル『 Pictures of Matchstick Men 』でラウリーを賞賛した。1989年にこの歌はキャンパー・ヴァン・ベートーベン(Camper Van Beethoven)によってカヴァーされた。
  • 1978年、ブライアン・アンド・マイケル(Brian and Michael)は、「マッチストーク・メン・アンド・マッチストーク・キャッツ・アンド・ドッグズ」(Matchstalk Men and Matchstalk Cats and Dogs)で英国ポップ・チャートの首位にたち、そして1980年にこれはザ・アイリッシュ・ローヴァーズ(The Irish Rovers)のアルバムにあらわれた。
  • テリー・ギリアムのファンタジー映画『未来世紀ブラジル』は「ラウリスクな」("Lowryesque")都市風景をくみこみ、そしてその主人公の名前はサム・ラウリー(Sam Lowry)である。
  • マンチェスターのロック・バンドオアシス (バンド)は、彼の絵のスタイルのアニメーションを用いてアルバム『ザ・マスタープラン』のためのミュージック・ヴィデオをリリースした。
  • バーバリーのデザイナー クリストファー・べーリー(Christopher Bailey)は、その秋/冬 2008-09 コレクションのためにラウリーの作品から影響をうけた。[54]
  • 2010年8月、『フィギュアズ・ハーフ・アンリアル』(Figures Half Unreal)が、ラウリーが常連であったベリック・アポン・ツイードのブラス・バスション劇団(Brass Bastion theatre company)によって公演された。[55]
  • 彼は、マニック・ストリート・プリーチャーズの2013年のアルバム『リワインド・ザ・フィルム』(Rewind the Film)の歌『 30-Year War 』において、
  • ラウリーは、ダイアン・ブルックス(Diane Brooks)およびニール・スティーヴンス(Neil Stevens)による2012年の時間旅行する若者のミュージカル『祖父の逆説』(The Grandfather Paradox)に重要な登場人物として登場している。

脚注[編集]

注釈

  1. ^ L. S. Lowry Retrospective Exhibition (Manchester: Manchester City Art Gallery, 1959)
  2. ^ L S Lowry RA: Retrospective Exhibition, (London: Arts Council, 1966)
  3. ^ Mervyn Levy, L. S. Lowry (London: Royal Academy of Art, 1976)
  4. ^ M. Leber and J. Sandling (eds.), L. S. Lowry Centenary Exhibition (Salford: Salford Museum & Art Gallery, 1987)
  5. ^ Rogers, Simon (2012年1月26日). “Refused honours: who were the people who said no? (And help us find out)”. 2012年11月18日閲覧。
  6. ^ Anon. “Stretford Area”. Blue Plaques In Trafford. Trafford Council. 2012年5月18日閲覧。
  7. ^ Anon. “LS Lowry Biography”. lowryprints.com. LS Lowry prints. 2012年4月28日閲覧。
  8. ^ Julian Spalding, Lowry, (Oxford: Phaidon, New York: Dutton, 1979)
  9. ^ Paul Vallely, 'Will I be a great artist?', The Independent, 23 February 2006
  10. ^ Anon. “LS Lowry - His Life and Career”. thelowry.com. The Lowry. 2012年4月28日閲覧。
  11. ^ Buile Hill Park”. Salford Borough Council. 2012年2月16日閲覧。
  12. ^ "Lowry and Valette"”. Manchestergalleries.org. 2012年11月1日閲覧。
  13. ^ Brown, Mark (2011年10月14日). “Exhibition for 'Monet of Manchester' who inspired Lowry”. guardian.co.uk (London: Guardian News and Media). http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2011/oct/14/exhibition-for-artist-who-inspired-lowry 2011年10月21日閲覧。 
  14. ^ McLean, D. 1978
  15. ^ L. S. Lowry”. Britain Unlimited. 2006年11月8日閲覧。
  16. ^ For example, that when he was treated to lunch at the Ritz by the art dealer Andras Kalman, he asked if they did Egg and Chips, Daily Telegraph, Thursday 9 August 2007, Issue Number 47,332 p. 27.
  17. ^ www.isherwoodart.co.uk
  18. ^ "LS Lowry's brilliant but tragic protege gets her day in the sun" at independent.co.uk
  19. ^ Nikkhah, Roya (2010年10月16日). “Hidden LS Lowry drawings reveal artist's erotic stirrings”. The Telegraph (London: Telegraph Media Group). http://www.telegraph.co.uk/culture/art/art-news/8068169/Hidden-LS-Lowry-drawings-reveal-artists-erotic-stirrings.html 
  20. ^ “Lowry's 'hidden' football painting could set £4.5m record at auction... but what would he make of his beloved Manchester City today?”. Daily Mail. (2011年1月31日). http://www.dailymail.co.uk/news/article-1352093/Lowrys-hidden-football-painting-set-4-5m-record-auction--make-beloved-Manchester-City-today.html 2011年9月13日閲覧。 
  21. ^ Angela Levin (2011年4月16日). “"The dark side of the matchstick man"”. Dailymail.co.uk. 2012年11月1日閲覧。
  22. ^ Thorpe, Vanessa (2007年3月25日). “Lowry's dark imagination comes to light”. The Observer (Guardian News and Media Limited). http://www.guardian.co.uk/uk/2007/mar/25/artnews.art 2012年4月28日閲覧。 
  23. ^ Osuh, Chris (2007年3月26日). “Let Lowrys see the light”. Manchester Evening News (MEN media). http://menmedia.co.uk/manchestereveningnews/news/s/1002835_let_lowrys_see_the_light 2012年4月28日閲覧。 
  24. ^ “Royals open Lowry centre”. BBC News. (2000年10月12日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/968911.stm 2008年7月11日閲覧。 
  25. ^ Lowry bronze unveiled - News - Manchester Evening News”. Manchesteronline.co.uk (2005年1月17日). 2012年11月1日閲覧。
  26. ^ Lowry statue too big a draw for vandals - News - Manchester Evening News”. Manchesteronline.co.uk (2005年1月29日). 2012年11月1日閲覧。
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  36. ^ a b [1][リンク切れ]
  37. ^ Imperial War Museum. “Going to Work”. IWM Collections Search. 2013年3月8日閲覧。
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  49. ^ [2][リンク切れ]
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  51. ^ Anon (2007年5月2日). “Lowry's valuable work stolen from Grove Fine Art gallery”. ls-lowry.com. 2011年10月4日閲覧。
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  53. ^ “Back at his local: Statue of LS Lowry installed at the bar of Sam's Chop House”. Manchester Evening News (M.E.N. Media). (2011年2月21日). http://menmedia.co.uk/manchestereveningnews/news/s/1408770_back_at_his_local_statue_of_ls_lowry_installed_at_the_bar_of_sams_chop_house?all_comments=1 
  54. ^ [3][リンク切れ]
  55. ^ David Whetstone (2010年8月4日). “Culture - Theatre - Theatre puts Berwick firmly on the map”. JournalLive. 2012年11月1日閲覧。

参考文献一覧

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  • David, McLean. 1978.L. S. Lowry. The Medici Society, London.
  • Hilda Margery Clarke, Lowry Himself, (Southampton: The First Gallery, 1992) ISBN 0-9512947-0-9
  • Michael Howard, Lowry ;— A Visionary Artist (Lausanne, Switzerland: Acatos, 1999)
  • Michael Leber & Judith Sandling (editors), L. S. Lowry, (Oxford: Phaidon, 1987)
  • Michael Leber & Judith Sandling, Lowry's City: A Painter and His Locale, (London: Lowry House, 2001)
  • Mervyn Levy, The Paintings of L. S. Lowry: Oils and Watercolours, (London: Jupiter Books, 1975)
  • Mervyn Levy, The Drawings of L. S. Lowry: Public and Private, (London: Jupiter Books, 1976)
  • Tilly Marshall, Life with Lowry, (London: Hutchinson, 1981) ISBN 0-09-144090-4
  • Shelley Rohde, A Private View of L. S. Lowry, (London: Collins, 1979)
  • Shelley Rohde, The Lowry Lexicon ;— An A-Z of L. S. Lowry, (Salford Quays: Lowry Press, 1999)
  • Doreen Sieja, The Lowry I Knew, (London: Jupiter Books, 1983)
  • Julian Spalding, Lowry, (Oxford: Phaidon, New York: Dutton, 1979)
  • H. W. Timperley, (ill. L. S. Lowry), A Cotswold Book, (London: Jonathan Cape, 1931)

外部リンク[編集]