レナウン (巡洋戦艦)

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HMS レナウン(1920年代時)
HMS レナウン(1920年代時)
基本情報
建造所 フェアフィールド社
運用者  イギリス海軍
艦種 巡洋戦艦
級名 レナウン級
艦歴
発注 1914年12月30日
起工 1915年1月25日[1][2]
進水 1916年3月4日
竣工 1916年9月20日
除籍 1948年
その後 1948年スクラップとして売却
要目(()内は近代化改装後のデータ)
基準排水量 31,988トン
満載排水量 32,000トン (37,410トン)
全長 242.0 m
27.4 m (31.3 m)
吃水 9.7 m (9.3 m)
主缶 パブコック&ウィルコックス重油石炭混焼缶42基(アドミラリティ式三胴型水管缶8基)
主機 ブラウン・カーチス直結タービン2基(パーソンズギヤード・タービン4基)
出力 120,000 hp (130,000 hp)
推進器 2軸推進 (4軸推進)
最大速力 31ノット (29ノット)
航続距離 3,650海里 (18ノット/8,000海里)
乗員 1,181名 (1,260名)
兵装
竣工時
38.1cm42口径MkI連装砲 3基
11.4cm45口径MkI及びMkIII連装両用砲 10基
2ポンド8連装ポンポン砲 3基
12.7㎜4連装機銃 4基
45.7cm水上魚雷発射管 8基
カタパルト 1基
- 1945年
38.1cm42口径MkI連装砲 3基
11.4cm45口径MkI及びMkIII連装両用砲 7基
2ポンド8連装ポンポン砲 3基
2ポンド8連装ポンポン砲4連装 1基
40㎜4連装機銃 1基
20㎜連装機銃 20基
20㎜単装機銃 28基
装甲
舷側
229 mm
甲板
127 mm
砲塔
178 mm(バーベット
279 mm(前盾)
司令塔
76 mm - 254 ㎜
搭載機 水上機 2基
レーダー
竣工時
無し
- 1944年
273R型 1基
281型 2基
282型 2基
284型 1基
285型 4基
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レナウン (HMS Renown) は、イギリス海軍巡洋戦艦[注釈 1]日本語におけるカタカナ表記では「リナウン」とされている例もある[4][注釈 2][注釈 3]Renownとは、英語で「有名」「高名」の意。

概要[編集]

レナウン (HMS Renown) は[3]、イギリス海軍が第一次世界大戦最中の1916年9月に完成させた巡洋戦艦[7]レナウン級巡洋戦艦一番艦[注釈 4]。同型艦には“レパルス” (HMS Repulse) [9]および“レジスタンス”(未成艦)がある。レナウンとレパルスでは、細部に若干の差異がある[10]

竣工後、グランド・フリートの巡洋戦艦部隊に編入されたが、大活躍する機会もなく世界大戦は終結した[8]。この時期、レナウンは大英帝国皇太子エドワード8世の御召艦となり、世界各地を航海した[11][注釈 5]。 1922年(大正11年)4月12日[13]、レナウンは日本横浜港に到着する[14]。英国皇太子は摂政宮を訪問[15]、その後は日本各地を訪問し、英国皇太子とレナウンは鹿児島から離日した[16][注釈 6]。 日本の服飾会社レナウンも、この英国皇太子訪問と本艦に由来する[18][19]

海軍休日時代、イギリス海軍は本級2隻と最新鋭(1920年5月竣工)のフッド[20] (HMS Hood) で、巡洋戦艦戦隊英語版を編成した。1930年代中期、塔型艦橋の増設、副砲の両用砲化、機関部の交換などの大改造工事をおこなった[19][21]

第二次世界大戦緒戦ではドイツ海軍ポケット戦艦シャルンホルスト級戦艦に対処するため、大西洋を奔走した[22]。1940年(昭和15年)4月から始まったノルウェー攻防戦ではドイツ戦艦グナイゼナウと交戦するが、逃げられた[23]。同年後半にH部隊に編入され、地中海戦域での航空機輸送作戦マルタ増援輸送作戦英語版と、大西洋におけるドイツ通商破壊艦への対応に従事した[22]。 1941年(昭和16年)3月、ベルリン作戦により大西洋に出撃してきたシャルンホルスト級戦艦2隻と対峙するが、結着をつけられなかった。 5月下旬、H部隊(巡洋戦艦レナウン、空母アーク・ロイヤル、軽巡シェフィールド)はドイツ戦艦ビスマルク追撃戦に参加する[24]。この追跡戦においてH部隊は決定的役割を果たし、ビスマルクの撃沈に貢献した[25]

その後は本国艦隊に所属し、1944年以降は東洋艦隊に所属して世界各地を転戦した[25]。第二次世界大戦の終結後の1948年(昭和23年)に除籍され、解体された[25][24]

艦歴[編集]

第一次世界大戦[編集]

巡洋戦艦レナウンは、スコットランドグラスゴーのフェアフィールド・シップビルディング & エンジニアリング社によって建造された[注釈 7]。1916年(大正5年)9月に竣工、その公試では排水量2万7900トンの状態で、32.58ノットを記録した[19]。しかしユトランド沖海戦には参加できず、第一次世界大戦の残り2年間はグランド・フリート第1巡洋戦艦戦隊英語版に所属して北海で活動したが、敵と砲火を交えることはなかった[26]。荒海を航行する巡洋戦艦2隻(レナウン、タイガー)の写真が残っている[27]

両大戦間[編集]

皇太子を乗せてポーツマス港を発つレナウン。
オークランド港に到着したエドワード皇太子。1920年。

第一次世界大戦後にグランド・フリートが解散すると、レナウンは1919年(大正8年)4月に大西洋艦隊所属となった[28]。航続力と壮麗で優美な外観が評価され[25]、レナウンはエドワード皇太子(後のイギリス国王エドワード8世)の御召艦に抜擢された[28]。艦後部の三連装副砲を1基撤去し、観閲台を設置した[19][28]。最初の航海は、同年8月から南北アメリカ大陸(カナダアメリカ合衆国、中南米各国)訪問であった[注釈 5]

1920年(大正9年)3月、レナウンは再び英国皇太子の御召艦となった[12]。今回の巡航は[29]パナマ運河を通過してアメリカ西海岸ハワイ諸島オーストラリアニュージーランド訪問であった[12]。 1921年(大正10年)10月、レナウンは三度目の御召艦となり、エジプトインド、日本などを訪問した[注釈 8][19]。随伴艦は軽巡ダーバン英語版[29] (HMS Durban) であった[31]

1922年(大正11年)4月12日[13]香港から日本列島まで球磨型軽巡洋艦に護衛された英艦隊(レナウン、ダーバン)は館山湾に到着して出迎えの戦艦山城および巡洋戦艦生駒礼砲を交換し、続いて横浜港に到着した[注釈 6]。 英国皇太子のほか、ベルギー王族チャールズ親王も士官候補生として同行していた[注釈 9]。 日本側は東伏見宮依仁親王皇族軍人、海軍大将)を接伴役として出迎える[33][注釈 10]。 エドワード親王は御召列車で東京にむかった[15][注釈 11]。 日本のアパレルメーカーのレナウンの由来も、英国皇太子を乗せて訪日した本艦にちなんでいる[19][29]

日本海軍は栃内曽次郎連合艦隊司令長官以下、戦艦3隻(長門陸奥伊勢)や金剛型巡洋戦艦3隻、第一水雷戦隊などが出迎えた[38][39]。 レナウンとダーバンは4月26日まで横浜港に停泊し、長門型戦艦や伊勢などの迎接艦と共に過ごした[40]。英艦乗組員はいくつかの行事に参加したり[41]、日本艦の乗組員に案内されて各地を観光したり、お互いの艦を見学して過ごした[40]。英国皇太子を含め王族関係者も、陸奥や長門を訪問している[注釈 9]。 同26日、レナウンは迎接艦と別れ、横浜を出発して西日本に向かった[40][42]。 その後、神戸港で英国皇太子が日程をこなすまで第三戦隊(木曾大井)と共に待機した[43][注釈 12]

日本各地を観光・訪問した英国皇太子は[注釈 6]5月6日に神戸で汽船に乗船する[14][46]5月8日[47]厳島神社安芸の宮島を観光した英国皇太子は軽巡洋艦木曾(供奉艦大井)に乗艦して呉市に移動し、海軍兵学校呉海軍工廠を見学したあと、久しぶりに御召艦レナウンにもどった[14][注釈 13]9日、レナウンは鹿児島湾桜島近海に碇泊し、英国皇太子は艦載水雷艇で鹿児島市に上陸した[14][注釈 14]。 同9日夕刻、英国皇太子は東郷平八郎元帥に見送られ[50]、レナウンと共に離日した[51][注釈 15]

ワシントン海軍軍縮条約により保有艦艇の整理がおこなわれると、イギリス海軍は本級2隻(レナウン、レパルス)と巡洋戦艦フッド (HMS Hood) [53]巡洋戦艦戦隊英語版を編成した[注釈 16]。1923年から1926年にかけて第一次近代化改装を行い、砲撃と水雷に対処するため装甲を増設した結果、ライオン級巡洋戦艦に相当する装甲を手に入れた[19]

1935年(昭和10年)1月23日、スペイン沖合で巡洋戦艦戦隊のフッドとレナウンが衝突事故を起こす[55]。巡洋戦艦戦隊司令官シドニー・ベイリー提督とソーブリッジ大佐(レナウン艦長)が軍法会議にかけられ、ソーブリッジ大佐に有罪判決が下された[注釈 17]

1939年の第二次近代改装の結果、レナウンの艦容は大きく変化した。

10年間に及ぶ活動の後、レナウンは再び改装作業に入る[57]。戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) に倣った大規模な改修が行われた[58]艦橋と前檣は前時代的な三脚檣から近代的な塔型艦橋に更新され、前檣は軽微な三脚檣として新造された[24][59][60]。二本の煙突はそのままだが副砲は10.2cm3連装速射砲から11.4cm連装高角砲へと更新され、ポンポン砲も最新の8連装型に更新され対空火力が強化された[24][59][60]。また、2番煙突の基部は水上機格納庫となり、後檣と格納庫の間に射出カタパルトが中央部甲板上に首尾線と直角に埋め込まれた。水上機と艦載艇は船体中央部甲板の左右に設置されたクレーンにより運用された[59]。この改装作業は第二次世界大戦勃発の直後、1939年(昭和14年)9月ポーツマス海軍工廠にて終了した[24]。しかし、上部構造物の更新や対空火器の更新に伴う重量増加により、本艦の浮力は船体に追加されたバルジをもってしても不足し、吃水が沈下した影響により凌波性と速力が改装前に比べ低下した。ただし、主機主缶の刷新により公試での速力は29.93ノットと微減に留まった[24]。また、この第二次改装時にレナウンにはライトグレー(507C)の塗装がなされたが、この塗装は1940年にミディアムグレー(507B)に改められている[注釈 18][59]

以上のようにレナウン級2隻は頻繁に改装をおこなうので、レナウンは「リフィット(Refit)」、レパルスは「リペア(repair)」と渾名されたという[24][62]

第二次世界大戦[編集]

1939年[編集]

レナウンの箱型艦橋を捉えた一枚。

世界各国が保有する第一次世界大戦~海軍休日時代の戦艦条約型戦艦)は20ノットから25ノット程度の速力であったが、これらに比べて高速を発揮できるイギリス巡洋戦艦3隻(フッド、レナウン、レパルス)は、第二次世界大戦においても運用上の長所となった。また列強各国の新世代戦艦に対しても速力では見劣りしなかった。特にドイツ海軍 (Kriegsmarine) のポケット戦艦[63]にとってイギリス巡洋戦艦は恐るべき存在であり[64][注釈 19]、同等速力のシャルンホルスト級戦艦[注釈 20]に対しても火力で勝っていた[67]

1939年(昭和14年)9月3日に第二次世界大戦が始まると、ドイツ海軍はポケット戦艦や仮装巡洋艦大西洋に放ち[68]通商破壊作戦を実施する[69]連合国の各海軍は対応を迫られ、イギリス海軍本部複数の任務部隊を編成する[70]。レナウンと空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) でK部隊 (Force K) が編成され、南大西洋に配置された[71]。 11月下旬には装甲艦 (Panzerschiff) アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee) を追跡して、マダガスカル南方まで進出している[72]。 同年12月13日、アドミラル・グラーフ・シュペーはラプラタ沖海戦で損傷し、ウルグアイモンテビデオに避難した[73]。大西洋に戻っていたK部隊および増援部隊(レナウン、アークロイヤル、ネプチューン、駆逐艦部隊)は、南米ラプラタ河口方面に急行する[74]。燃料の問題もあり、K部隊のラプラタ河口到着時刻は12月20日以後と予測された[75]。そこでイギリスは外交戦と情報戦を展開する[76]。アドミラル・グラーフ・シュペーは追いつめられ[注釈 21]、12月17日にラングスドルフ艦長はシュペーを自沈させた[78][79]

1940年[編集]

地中海を進むレナウン。

1940年(昭和15年)2月上旬、レナウンとアークロイヤルはラプラタ沖海戦で大破した重巡エクセター (HMS Exeter, 68) を護衛してイギリス本土に戻った。2月15日、プリマスに到着した。

4月、イギリスは中立国であるノルウェーの沿岸への機雷敷設作戦(ウィルフレッド作戦)を実施し、さらにノルウェー占領を企図してR4計画を準備した[80]。ちょうどドイツもヴェーザー演習作戦を発動し[81]、ドイツ海軍の有力部隊がノルウェーに攻め込んだ[82]ホイットワース提督はレナウンに将旗を掲げ、駆逐艦数隻をつれて機雷敷設作戦を支援したが、4月8日に麾下の駆逐艦グローウォーム (HMS Glowworm,H92) がトロンヘイム沖海戦でドイツ重巡アドミラル・ヒッパー (Admiral Hipper) に撃沈される[83]。翌9日、レナウンはロフォーテン諸島沖でヴェーザー演習作戦従事中のシャルンホルスト級戦艦2隻(グナイゼナウシャルンホルスト)と遭遇した[23]。レナウンはグナイゼナウ(リュッチェンス提督旗艦)を追跡し、15インチ砲3発の命中弾を与えた[23]。だが悪天候でグナイゼナウを見失い、ドイツ軍によるナルヴィク占領を防げなかった[23]

4月10日、フォーヴス司令長官が率いる本国艦隊直率部隊(戦艦ロドニーなど)が北海に進出し、ホイットワース提督のレナウンやレパルスに合流した[84]。イギリス海軍は第1次ナルヴィク海戦で勝利した[85][86]。だが空母フューリアス (HMS Furious, 47) による空襲は失敗し、勝利を完璧なものにするため、今度は戦艦がナルヴィクに突入することになった[87][88]13日、ホイットワース提督は洋上で巡洋戦艦レナウンから戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) に乗り換えた[89]。そしてウォースパイトと駆逐隊を率いてナルヴィクに進撃し、同地で大戦果を挙げた[90]第2次ナルヴィク海戦[91]。だが、その後の連合国軍のノルウェー作戦は上手くゆかず[92]アルファベット作戦を発動してノルウェーから撤退した[注釈 22]

1940年後半から1941年にかけてレナウンはジブラルタルを拠点とするH部隊 (Force H) に所属して活動し[注釈 23][24]大西洋及び地中海に戦略的存在として影響を与えた。レナウンは地中海戦域での作戦に従事し、マルタ島に空母を利用して戦闘機を輸送するクラブランClub Run)やマルタ増援輸送作戦英語版に幾度も従事した[22]。1940年11月、ホワイト作戦に参加した。

1940年12月20日、空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) 、軽巡洋艦シェフィールド (HMS Sheffield, C24) などとともにジブラルタルから出撃する(ハイド作戦[95]。地中海で戦艦マレーヤ (HMS Malaya) やマルタからの船団と合流して、12月24日にジブラルタルに戻った[95]。12月25日、大西洋で兵員輸送船団がドイツ重巡アドミラル・ヒッパーの攻撃を受ける[96]WS5A船団の護衛に英巡洋艦3隻がついていたのでヒッパーは戦果をあげられず、機関不調もあってドイツ本国にもどった[96]。それでもH部隊(レナウン、アーク・ロイヤル、駆逐艦8隻)は直ちに大西洋にむけて出撃した[97]。この出撃の際、レナウンでは大波によって被害が生じ、12月30日にジブラルタルに戻るとドックに入った[97]。次の作戦はMC4作戦で、レナウンはマルタへの船団を護衛した。

1941年[編集]

空母アーク・ロイヤルとともに波濤をゆくレナウン。

1941年(昭和16年)1月7日、レナウンは戦艦マレーヤ、空母アーク・ロイヤルなどと共にジブラルタルから出撃し[98]、途中で船団と別れて1月11日にジブラルタルに戻った[99]。1月31日、マレーヤ、アークロイヤルなどとともに出撃(リザルト作戦、ピケット作戦[100]。この作戦はサルデーニャ島のダム攻撃とジェノヴァ攻撃であり、前者はアーク・ロイヤル搭載機によって実施されたが後者は悪天候のため実施されず、艦隊は2月4日にジブラルタルに戻った[101]。中止になったジェノヴァ攻撃はグロッグ作戦と名を変えて再び実行され、レナウンなどは2月6日に出撃した[102]。攻撃は2月9日に行われ、レナウンは15インチ砲弾125発を発射した[103]

2月12日、ドイツの潜水艦(Uボート)と航空機およびドイツ重巡アドミラル・ヒッパーによる攻撃を受けたHG53船団の救援を命じられ、レナウンはアーク・ロイヤル、シェフィールド、駆逐艦5隻とともに出撃[104]。だが、同日中に命令は変更となり、シェフィールドのみが救援へと向かいレナウンとアーク・ロイヤルはWS6船団を護衛することになった[105]。船団の護衛を2月21日にまで行い、25日にジブラルタルに戻るとレナウンはドックに入った[105]

3月2日にドックから出ると地中海で訓練を行った[106]。3月8日、SL67船団護衛中の戦艦マレーヤが通商破壊作戦(ベルリン作戦)中のシャルンホルスト級戦艦2隻と出会い、各方面に通報した[107]。それを受けてレナウンは出撃して船団と合流し、しばらく護衛を行った[106]。3月16日、今度はHX114船団護衛中の戦艦ロドニー (HMS Rodney, 29) が戦艦グナイゼナウリュッチェンス提督旗艦)と遭遇した[108]。それらがブレストへ向かったとの報告を受けて、レナウンも船団から離れてその捕捉に向かった[109]。3月20日、H部隊のアーク・ロイヤル搭載機が以前にドイツ巡洋戦艦に捕獲された3隻のタンカーを発見[110]。レナウンはそのうちの2隻を捕捉したが、2隻とも自沈した[110]。その後もH部隊はシャルンホルスト級2隻を捜索したが成果は無く、3月24日にジブラルタルに帰投した[110][注釈 24]

4月になるとマルタへの航空機輸送作戦(ウィンチ作戦)に参加し、それから4月8日から16日までアーク・ロイヤル、シェフィールドなどとともにシャルンホルスト級戦艦2隻が潜むブレストの封鎖にあたった[112]。シャルンホルスト級2隻はイギリス空軍機の爆撃で損傷し、外洋に出てこられなくなった[113]5月24日朝、デンマーク海峡海戦で“マイティ”フッドが巨大戦艦ビスマルク (Bismarck) に撃沈された[94][114][注釈 25]。 ビスマルクおよび重巡プリンツ・オイゲン (Prinz Eugen) による通商破壊作戦に対応するため、英海軍のH部隊(レナウン、アーク・ロイヤル、シェフィールド)は大西洋に進出していたが、急遽ビスマルク追撃戦に参加した[24][116]。5月26日夜、レナウンに将旗を掲げるサマヴィル中将は、空母アーク・ロイヤルの空襲に最後の望みをかけた[117]。第二次攻撃隊のソードフィッシュが雷撃によりビスマルクの舵を破壊したので、イギリス艦隊はビスマルクを包囲して撃沈する英語版ことができた[118]。この際に、英海軍はレナウンが戦艦に対しては二線級の防御力しか有していない事実を熟知していたため、追撃戦終盤時には主力艦キング・ジョージ5世 (HMS King George V) 及びロドニー (HMS Rodney) が苦戦した場合にのみ砲撃に参加せよと命じていたという[24]

5月下旬にクレタ島陥落して枢軸軍の手にわたると、マルタ島の重要性は更に増し英領マルタを巡る一連の戦い英語版は激化した。

1942年以降[編集]

1944年5月12日、インド洋の英軍艦2隻(レナウン、ヴァリアント)とフランス戦艦リシュリュー

1942年から本国艦隊に所属した[119]。4月上旬、アメリカ海軍の第39任務部隊(戦艦ワシントン、空母ワスプなど)がスコットランドスカパ・フローに到着した[120][注釈 26]。第39任務部隊と本国艦隊は周辺海域で訓練をおこない、その最中、イギリス海軍の将兵は新鋭戦艦ワシントン (USS Washington, BB-56) の見学を認められた[122]。レナウンとワシントンが一緒に入港すると、レナウンの乗組員はいつもワシントンを訪問したという[123][注釈 27]

1944年より東洋艦隊に加わり、インド洋に派遣される[119][125]。この時期に海軍省欺瞞様式(Admiralty disruptive pattern)を用いた迷彩塗装を行うとともに、271型、282型、284型及び285型各種レーダーに更新した[注釈 28][119]。1944年から45年にかけてセイロン島を拠点として活動し、イラストリアス級航空母艦などと共に、日本海軍南西方面艦隊を牽制した[119][注釈 29]

1945年(昭和20年)2月に入ると、高速艦を欧州海域に補充すべくイギリス本国に回航された。この際に、海軍省指定本国艦隊用スタンダード迷彩(Admiralty Standard Home Fleet Scheme)を施された[注釈 30][127]

第二次世界大戦で実戦投入された巡洋戦艦のうち、唯一生き残ったのがレナウンである[注釈 31][注釈 32]。 大戦後は本国沿岸で短期間活動し、1948年(昭和23年)3月スクラップにするべく英国鉄鋼コーポレーション英語版(BISCO)に売却された[127][24]

主な活動[編集]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 戰艦“レナウン Renown[3] 全要目{排水量32,000噸 速力31.5節 備砲38糎砲6門 10糎砲12門 魚雷發射管2門(水中53糎) 起工1915年1月 竣工1916年9月 建造所フエヤー・フヰルド造船會社} 同型艦“レパルス Repupse但し10糎砲15門 魚雷發射管10門
     この2隻が起工より竣工に至る迄僅々1年半餘を費してゐるのみであることは當時が世界大戰の酣戰期であつた爲である。全長239.89米、幅31.29米、平均吃水8.12米。速力31.5節はこの2艦が巡洋戰艦として計畫されたものであつたがためである。そして主砲の38糎砲を僅か6門としたのも高速力の犠牲である。この高速力に要する軸馬力は實に112,000馬力である。カタパルトは1基。1926年に一度改装した。以上英國海軍の有する主力艦は計15隻、排水量合計474,750噸。ワシントン會議に依る保有量は15隻525,000噸である。
  2. ^ 英吉利 巡洋艦リナウン(一九一六年竣工)[5] 排水量三二〇〇〇噸、時速二八節。一九一四・五年の海軍豫算に依り上程。一九二三・六年の間に修理を受く。寫眞は英本國艦隊大演習の際、ヂブラルタル港に停泊中を巡洋戰艦フードより見たるもの。/巡洋戰艦タイガー(一九一四年竣工)排水量二八五〇〇噸、時速三〇節。除籍されたるものゝ如し。/巡洋艦レパルス(一九一六年八月竣工)排水量、時速共に同型艦リナウンに同じ。目下大修理中。
  3. ^ 列國艦艇一覧表(昭和十一年十二月三十一日調)[6] 〔 國別:英國|現状:既成|艦名:リパルス|排水量:三一,〇〇〇|速力:三一.五|備砲 主砲:三八-六/副砲:一〇-一五|魚雷發射管(糎)數:水中(五三)水上-二/八|竣工年月日(西暦):一六.八 〕/〔 國別:英國|現状:既成|艦名:リナウン|排水量:〃|速力:〃|備砲 主砲:〃/副砲:一〇-一二|魚雷發射管(糎)數:水中(五三)-二|竣工年月日(西暦):一六.九 〕
  4. ^ 戰艦“レナウン Renown[8] 全要目{排水量32,000噸 速力31.5節 備砲38糎砲6門 10糎砲12門 魚雷發射管2門(水中53糎) 起工1915年1月 竣工1916年9月 建造所フエヤー・フヰルド造船會社} 同型艦“レパルス Repupse 但し10糎砲15門 魚雷發射管10門。
     時あたかも世界大戰が酣であつたのでこの2隻は起工より竣工に至る迄僅々1年半餘を費してゐるのみである。レパルス、レナウンの二艦は世界戰爭の最中僅か一年餘りで急ぎ建造されたもので、この目的は砲2門を減じても31.5節の快速力を得んとしたために外ならない。しかしこの2隻が活躍する前に戰爭は終焉になつた。全長239.89米、幅31.29米、平均吃水8.12米でレパルスは建造後更に水上發射管8門を増して10門とした。10糎副砲が3聯装になつてゐるのも珍しい。1934年來改装中である。
  5. ^ a b (前略)[12] そこで千九百十九年(大正八年)八月五日巡洋艦レナウン號に御乗艦ポーツマス港を御出帆なされ先づ加奈陀に御渡航になりました。到る所非常な歡迎で、公式に御招待申上げた五十の町を片端から御訪問なされ、其度に何の隔てもなく極めて自由に何人とでも御近づきになり、晝の歡迎會の外毎晩舞踏會の招待にも御臨席になりました。そして三ヶ月の後加奈陀を去って北米合衆國に赴かれました。
     もと〱殿下は米國を御訪問なさる御豫定では無かったのでありますが、同國民が熱心に殿下のお立寄を希望したので遂に行かれる事となり、大正八年十一月十日に同國に入られました。ウイルソン大統領は丁度病氣で臥床中でありましたが、殿下はわざ〱病床に御見舞になりました。御接待は國務卿ランシング氏が大統領に代って其任に當り、首府ワシントンで盛大な歡迎會が開かれました。
     それから紐育市でも大歡迎があり、其他米國東部の諸名所にお立寄になって十一日間の御滞在の後十一月二十二日米國を御出發歸國の途に就かれました。(中略) 加奈陀と米國の御訪問に四ヶ月餘を費して御歸國になつた殿下は、間もなく千九百二十年(大正九年)三月十六日に同じくレナウン號に召されてオーストラリア、ニュージーランド、西印度諸島フィージー島等を御旅行の爲御出發なさいました。三月三十日にはパナマ運河に御着、同運河を通過して米國カリフォルニア州サン・ディエゴ港に御寄港、大に同市民の歡迎を受けさせられ、更に米領ハワイ島ホヽルヽ港に御寄港、同所にて歡迎を受け土民の水泳などを御覧になり、それから先づユニー・ジーランドにお着きなりました。この地で各島の歡迎を受けられ五月二十一日には同島を去つてオーストラリアに向はれました。シドニーやメルボルン、ニュー・サウス・ウヱールスを始め重要な都市には皆お立寄になり八月十九日に御出發、十月十日に御歸國なさいました。此の御旅行は實に七ヶ月間に亘り殿下の御旅行中一番長期のものであります。/ 今回も殿下は同じ御乗艦レナウン號に召されて長い間の御希望であつた我帝國を御訪問せらるゝことゝなつたのであります。
  6. ^ a b c (皇太子裕仁親王の欧州訪問に対して)[17]英國よりは同じく答禮の爲に、英國皇太子ウエールス公が來朝せらるゝことゝなり、印度御巡遊の上、御召艦レナウン、供奉艦ターバンにて日本に向はれたが、我が軍艦木曾大井球磨多摩は兩艦を香港に出迎へ、木曾の先導、其の他の艦の護衛の下に、大正十一年四月十二日早朝館山灣外に達し、此處に出迎へた山城、生駒と禮砲を交換し、觀音崎沖にて横須賀海軍航空隊の二十餘機の飛行機に迎へられ、横須賀沖通過の際は、在泊の北上より皇禮砲を發し、兩艦は出迎諸艦と共に、午前八時半横濱入港、英國皇太子殿下は随員と共に文武大官の奉迎裡に御上陸、直ちに宮廷列車に召され、午前十時四十分東京驛御着、高橋首相以下文武の顕官を随へて御出迎へあらせられた攝政殿下と、固き握手を交換し給ひたる上、近衛兵を御親閲、直ちに参内、皇后陛下に御對顔、御慇懃なる御挨拶を交換せられ、御少憩の後、御旅館にあてさせられた赤坂離宮に入られた。/ その日午後我攝政宮にはウエールス公を赤坂離宮に訪はせ給ひ、天皇陛下の御思召に依り、公を名誉陸軍大将に推させらるゝ旨を傅へさせられたが、公は喜んで之を受けられた。/ 斯くてその夜は宮中豊明殿にて催されたウヱールス公御歡迎宴に臨ませられ、その後連日我國朝野の歡迎を受けさせられ、同月二十二日御退京、箱根、京都、大津、奈良、大阪、神戸、宮島等御巡覽の上、鹿兒島に行かれ、五月九日鹿兒島御出港、洋上にて御見送りの木曾、大井と別れを告げさせられて、御歸國の途に就かれた。(以下略)
  7. ^ 英海軍省はタイガー(HMS Tiger)で建造をひとまず打ち止めにする予定だったが、速力優先主義者J.フィッシャー提督第一海軍卿に復帰したことでアスキス首相の反対を押し切って、レナウン級の建造を推進した[19]
  8. ^ 英國皇太子殿下御來朝[30] 昨春我皇太子殿下の御訪英に依り東西二大國の親善は更に加はり、兩國皇儲の交情殊の外濃やかに渉らせる。次で英皇太子殿下には大正十年十一月熱誠なる同國民の奉迎裡に吾國に向つて御出航された、御途次埃及印度属領の御巡視を了へ、萬里の航程恙く大正十一年四月十二日を以て我帝都に御來着、我皇太子殿下には東京驛まで御出迎遊された。御旅館には赤坂東宮御所を以て充てらる。國賓の御旅情を慰むるため帝都には種々の催しあり、且つ熱誠こむる吾國民の歡迎裡に各地名所等を親しく御觀光あり、同五月九日鹿兒島御見物を名殘とし御召艦レナウン號に御乗艦、御機嫌麗しく御歸航に就かせられた。
  9. ^ a b 十九日親王は連日御多忙なる中に、海軍候補生として英艦乗組中なる白耳義第二皇子チヤールス親王を招待して、本邸に茶話會を催され、同國大使及其家族も亦参殿陪席した。二十一日夜親王は英皇儲と共に男爵三井八郎右衛門邸に於ける晩餐會に列席せられ、二十二日は横濱在泊の軍艦陸奥に先箸して同艦上に英皇儲を迎へ、海軍大臣の案内に依り艦内御巡覧の上、僚艦長門艦上に於ける海軍大臣主催の晩餐會に臨み、同夜御歸京、此日午後は白耳義皇子を主賓とせる宮中茶話會に参列せられた[32]。(以下略)
  10. ^ 依仁親王は接伴中に体調を崩した[34]葉山御用邸で療養したが[35]、同年6月27日に死去した[36]
  11. ^ 2 横濱港御上陸[37] 四月十二日朝、横濱御上陸の日は、前日來の雨が上つて、麗しい日の光りを仰ぎました。八時二十分、お召艦レナウン號は、防波堤内十號浮標に艦首を西に向けて靜かに碇泊しました。英皇儲殿下には九時四十分、各艦の皇禮砲殷々たる中を、艦載水雷艇で、四號岩壁に特設された浮桟橋を靜かに登られました。第二圖先登に立たせらるがそれで、左はお出迎への東伏見接伴宮殿下です。岩壁の上では、奉迎塔の左に並んだ海軍儀仗兵、陸軍儀仗兵を御險閲になり、歡迎諸員に握手を賜り、日英少女から捧呈する花束を莞爾としてお受けになりました。第一圖がそれです。第三圖は、殿下に花束を捧呈したホルム總領事の令嬢ドリンさんと、井上知事の令嬢豊子さんです。
  12. ^ 神戸では、1921年(大正10年)11月17日に進水した加賀型戦艦1番艦の加賀[44]、艤装工事中断のまま繋留されていた[45]
  13. ^ 25 嚴島御觀光[48] 高松港御遊覧後、殿下は更に景福丸で、宮島へ向はせられ、嚴島を御觀光になり、更に、御警戒のため随伴した軍艦木曾に乗御、呉にならせられて工廠を御覽後、更に廿六日振りに御召艦レナウン號で鹿兒島へ向はせられました。
  14. ^ 26 鹿兒島港御着[49] お召艦レナウン號は、五月七日朝靄を衝いて、日本における最後の御寄港地である鹿兒島灣に雄姿を現し、櫻島袴腰島の前に投錨しました。七十年前の文久三年英國の軍艦が生麥事件の償金を強要すべくやつて來て、薩軍から不意討をうけた處は、實にこの地點でした。艦載水雷艇は同所から殿下の御雄姿を乗せて、萬歳裡に鹿兒島第一棧橋に着きました。(レナウン号の艦尾写真)
  15. ^ 30 日本よさらば![52] かくて、英國皇太子殿下を乗せた汽船は午後二時靜かに、日本の南端、鹿兒島の第一棧橋を離れました。一路の御平安を祈つて市民は萬歳裡にお見送りしました。(上圖)下圖は、軍艦木曾御退艦の殿下です。御滯留約一箇月日本を去られるに際して、殿下が、日本國民への御挨拶は別紙の如きものでありました。
  16. ^ イギリス海軍は練習艦として巡洋戦艦タイガー (HMS Tiger) も保有していたが[5]ロンドン海軍軍縮会議で破棄され、1931年(昭和6年)に除籍、翌年売却された[54]
  17. ^ Henry Richard Sawbridge。サーブリッジ大佐とも[56]
  18. ^ 英海軍は第一次世界大戦時に迷彩の研究を試みていたが、塗装には費用がかかるため戦間期には単色を用いた[61]。このうち、「507C」は地中海艦隊などの熱帯・亜熱帯海域で活動する艦艇用、「507B」は本国艦隊などの南大西洋を主とする中間海域で活動する艦船用に開発されていたー[61]
  19. ^ シュペー艦長のハンス・ラングスドルフ大佐は1939年11月24日に「シュペーと同等程度の戦闘能力を有する連合国軍軍艦は巡洋戦艦リナウン (Renown) 一隻のみである。よって敵の水上部隊との交戦もあえて辞さない」との作戦方針を示した[65]。また11月26日作製の覚書の中で「六、敵掃討部隊中、最も大敵と考えられるものはリナウンである。」と述べた[65]
  20. ^ シャルンホルスト級戦艦の正式な類別は戦艦だが、イギリス海軍などから巡洋戦艦に分類されたこともある[66]
  21. ^ 12月15日、シュペーの士官は「水平線上にリナウン、アークロイヤル、随伴駆逐艦を視認した。」と報告した[77]
  22. ^ ドイツ側はユーノー作戦を発動しており、6月8日にシャルンホルスト級戦艦2隻がイギリス空母グローリアス (HMS Glorious, 77) とA級駆逐艦2隻を発見、砲撃で英軍艦3隻を撃沈した[93]ノルウェー沖海戦)。
  23. ^ 1940年(昭和15年)6月にH部隊(司令官ジェームズ・サマヴィル中将)が新編された時の旗艦はフッドだったが、フッドは同年8月になりイギリス本国に呼び戻されていた[94]
  24. ^ リュッチェンス提督とシャルンホルスト級戦艦2隻は、3月22日午前中にフランス西部のブレストに入港した[111]
  25. ^ ビスマルクに将旗を掲げていたのは、ギュンター・リュッチェンス中将であった[115]
  26. ^ 第39任務部隊指揮官はロバート・C・ギッフェン少将で、4月26日付で第99任務部隊と改称している[121]
  27. ^ レナウン乗組員はワシントンの艦内売店でお土産を買い漁った[124]。レナウンはワシントンに500ポンドソーセージを贈呈したが、戦時代用品のためワシントン将兵には不評だったので、捨てられてしまった[124]
  28. ^ 同迷彩は大型艦向けに開発された迷彩で、1942年4月より導入が始まった[126]。使用色は黒、濃緑色、灰色、淡灰色、灰青色、淡青色、濃灰色のうちから3、4色を用いた[126]
  29. ^ 1944年4月中旬のコックピット作戦、5月中旬のトランサム作戦、6月中旬のペダル作戦、7月のクリムズン作戦、10月のミレット作戦など。
  30. ^ 同迷彩は、モスグリーン(G45)及びブルーバック/濃青色(B15)の二色を用いた迷彩[61]。1944年9月から漸次的に本国艦隊に適用された迷彩で、スキームパターンはAからKの9種類(Iは欠番)が存在し、レナウンに対してなされたのはスキームA[61]
  31. ^ トルコ海軍の巡洋戦艦ヤウズ(元はドイツ帝国海軍モルトケ級巡洋戦艦「ゲーベン」)は1960年代まで運用された[128]。ただしトルコ共和国は第二次世界大戦の大部分を中立国として過ごし、連合国として参戦したのは1945年(昭和20年)2月23日である(第二次世界大戦の参戦国)。
  32. ^ イギリス海軍のレパルス及びフッドアドミラル級巡洋戦艦[129]、巡洋戦艦に分類されることもあるドイツ海軍のシャルンホルスト級戦艦[130]、フランス海軍のダンケルク級戦艦[131]大日本帝国海軍金剛型戦艦はいずれも戦没している[132]

出典[編集]

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参考文献[編集]

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  • 世界の艦船』増刊第67集
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  • V.E.タラント『戦艦ウォースパイト 第二次大戦で最も活躍した戦艦』井原祐司 訳、光人社、1998年11月。ISBN 4-906631-38-X 
  • 高木宏之『英国軍艦写真集 British warship photograph collection』光人社、2009年1月。ISBN 978-4-7698-1415-3 
  • リチャード・ハンブル『壮烈!ドイツ艦隊 悲劇の戦艦「ビスマルク」』実松譲 訳、サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫 26〉、1985年12月。ISBN 4-383-02445-9 
  • 宮田一登志 編『海外艦艇模型 超入門』 vol.27、新紀元社、東京都千代田区、2016年11月25日。ISBN 9784775314609 
  • 宮永, 忠将 著、市村 弘 編『世界の戦艦プロファイル ドレッドノートから大和まで』大日本絵画、東京都千代田区、2015年。ISBN 9784499231527 
  • イヴァン・ミュージカント『戦艦ワシントン 米主力戦艦から見た太平洋戦争』中村定 訳、光人社、1988年12月。ISBN 4-7698-0418-0 
  • Peter C. Smith, The Battle-Cruiser HMS Renown 1916-1948, Pen & Sword Maritime, 2011, ISBN 978-1-84884-520-6
  • Wright, Malcolm (2016) (英語). British and Commonwealth Warship Camouflage of WW II: Battleships & Aircraft Carriers. 2. 47 Church St., Barnsley S70 2AS: Seaforth Publishing. ISBN 9781848322530 


  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『公文備考 昭和10年D外事 外事 巻2(防衛省防衛研究所)軍第173号11.4.8英国皇太子殿下御来朝当日に於ける諸事項に関する件』。Ref.C05034103100。 
    • 『大正11年 公文備考 巻24 儀制7(防衛省防衛研究所)第7輯 英艦行動関係』。Ref.C08050426000。 
    • 『第1巻 第3戦隊司令書提出(4)』。Ref.C08050428000。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]