レカレド1世

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レカレド1世のカトリック改宗'、ムニョス・デグライン画、スペイン元老院所蔵

レカレド1世Recaredo、?年 - 601年)は、西ゴート王

レカレドは、レオヴィギルド英語版王と最初の妃の第2王子として生まれた。彼はアリウス派の教育を受けた。長兄ヘルメネギルドは父レオヴィギルドの存命中から共同統治王となっていたが、妻に迎えたアウストラシア王女イングンデシギベルト1世ブルンヒルドの娘)の影響を受けカトリックに改宗し、父に対し反乱を起こして流刑にされていた。父レオヴィギルドの死去数週間後、彼は西ゴート貴族の反対なしに王座についた。次いで、メロヴィング朝との深いつながりと、継母ゴイスインタの指示に従い、彼は大使をキルデベルト1世(ブリュンヒルデの子)とブルグント王グントラム(クロタール1世の子)の元へ送り、和平と同盟関係強化を申し入れた。しかしグントラムは大使と面会するのを拒んだ(グントラムは姪イングンデとその夫ヘルメネギルドの非業の死に怒り、西ゴートの治めるセプティマニアへ遠征した経緯があった)。

王の改宗[編集]

Recaredo Tremis Ispali.jpg

587年、レカレドはカトリックへの改宗を宣言した。多くの西ゴート貴族や聖職者たちが王にならって改宗した。しかしセプティマニアルシタニアでアリウス派の反乱が起こり、鎮圧にあたらなければならなかった。588年、陰謀を企んだとしてアリウス派を信仰する継母ゴイスインタを追放した。

彼はアリウス派書物の焚書を命じた。そしてアリウス派信徒を公職から追放し、アリウス派教会を立ち退かせたためわずか数年で教会は姿を消した。

589年、王の名のもとで第3回トレド教会会議が招集され、セビリアのレアンデル(セビリアのイシドールスの実兄)が指揮を執った。ここに新たなカトリック王国が設定された。王の公開懺悔状が公証人の声で読み上げられ、カトリック信仰の告白とアリウス派棄教を表明した。彼は西ゴート族およびスエビ族へカトリックへの改宗を呼びかけた。それでも、公然とアリウス派信仰を支持する司教たち(スエビ族が目立った)がいた。

教会会議の決定は、王の勅令発行で法的権力を得た。これに従わない者には厳しい処罰が課せられた(財産の没収、流刑など)。

西ゴート族のカトリック改宗は大きな社会変化でもあった。彼らはローマの衣服を着用していたが、伝統的なフィブラなどの留め金やバックルがなくなり、死者とともにその財産を埋葬する習慣が消滅した。

先代:
レオヴィギルド
西ゴート王
586年-601年
次代:
リウヴァ2世