レオポルト・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
レオポルト・ザルヴァトール
Leopold Salvator
ハプスブルク=トスカーナ家

全名
称号 オーストリア大公
出生 (1863-10-15) 1863年10月15日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ボヘミアアルト・ブンツラウ英語版
死去 (1931-09-04) 1931年9月4日(67歳没)
オーストリアの旗 オーストリアウィーン
配偶者 ブランカ
子女
父親 カール・ザルヴァトール
母親 マリア・インマクラータ
宗教 キリスト教カトリック教会
テンプレートを表示

レオポルト・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナドイツ語: Leopold Salvator von Österreich-Toskana, 1863年10月15日 - 1931年9月4日)は、オーストリア=ハンガリー(二重帝国)の皇族軍人。最終階級は陸軍中将、砲兵大将。

生涯[編集]

トスカーナ大公レオポルド2世の次男カール・ザルヴァトール大公と、その妻で両シチリア王フェルディナンド2世の娘であるマリア・インマクラータ大公妃の間に長男として生まれた。オーストリア帝室の諸分家の中でも自由主義的な気風の強い旧トスカーナ大公家の中で育った。全名はレオポルト・ザルヴァトール・マリア・ヨーゼフ・フェルディナント・フランツ・フォン・アッシジ・カール・アントン・フォン・パドゥーア・ヨハン・バプティスト・ヤヌアリウス・アロイス・ゴンツァーガ・ライナー・ヴェンツェル・ガルス(Leopold Salvator Maria Joseph Ferdinand Franz von Assisi Karl Anton von Padua Johann Baptist Januarius Aloys Gonzaga Rainer Wenzel Gallus)である。

1878年に第77歩兵連隊の少尉に任官、1881年から1883年まで帝都ウィーンの技術軍事アカデミー(Technischen Militärakademie)で軍事を学んだ。様々な部隊に所属した後、1887年から1889年まで士官学校で学び、1889年にレンベルク駐屯の第11砲兵連隊所属の少佐となる。1891年に中佐、1892年に大佐と昇進し、レンベルク駐屯の第24歩兵連隊内の大隊を指揮した。1894年9月にアグラム駐屯の第13砲兵連隊付に転任。1896年3月にはアグラム駐屯の第13砲兵旅団の旅団長に任じられ、同年4月に少将となる。1898年に歩兵部に戻って第72歩兵旅団の旅団長となり、1899年に陸軍中将に昇進、アグラム駐屯の第36歩兵師団の師団長となった。1900年から1906年にかけ、ウィーン駐屯の第26歩兵師団の師団長を務めた。1906年10月27日に砲兵大将となり、1907年4月20日に砲兵部総監に任命された。

ウィーン市庁舎大ホールにおける、市長カール・ルエーガー主催の舞踏会。ヴィルヘルム・ガウゼ(Wilhelm Gause)画、1904年。ルエーガーの右側2人目にレオポルト・ザルヴァトールが描かれている。

1889年10月24日にフロースドルフ城英語版において、スペインのカルリスタ王位請求者であるマドリード公カルロス・マリアの娘ブランカ・デ・ボルボーンと結婚し、間に10人の子女をもうけた。1918/1919年に二重帝国が崩壊し、皇族としての身分と資産を失ったため、妻の実家を頼ってスペインバルセロナに移住した。1931年、資産の一部を取り戻すべくウィーンを訪れていた際に死去した。

子女[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、レオポルト・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナに関するカテゴリがあります。