レイナルド・ゴルノ(Reinaldo Berto Gorno、1918年6月18日 - 1994年4月10日)は、アルゼンチンの元陸上競技選手である。彼は、1952年に開催されたヘルシンキオリンピックのマラソンで銀メダルを獲得した。
経歴 [編集]
ゴルノは長距離走の選手として活躍し、南アメリカ陸上競技選手権大会(英語版)では1945年にクロスカントリーで金メダルを獲得したのを始め、銀メダル5個、銅メダル1個を獲得した実績を持っていた[1]。ゴルノがオリンピックに出場したのは、34歳のときだった。彼はヘルシンキオリンピックのマラソンアルゼンチン代表3人のうちの1人として、ヘルシンキに赴いた。
ヘルシンキオリンピックのマラソンは、32の国から66人の選手が出場して、1952年7月27日に実施された。レースがスタートしたのは午後3時28分で、当日はかなり涼しい天気だった[2]。事前の予想では、オリンピック直前の6月14日に当時のマラソン世界最高2時間20分42秒を記録していたイギリス代表のジム・ピーターズ(英語版)が金メダルの最有力候補だった[2]。実際のレースでは、「人間機関車」の愛称で知られたチェコスロバキア代表のエミール・ザトペックが、10000メートル競走、5000メートル競走に続いて圧倒的な強さを見せて2時間23分3秒2の記録で金メダルを獲得し、オリンピック長距離走メダル三冠を達成した。ゴルノはザトペックに2分半以上の大差をつけられたが、2時間25分35秒の記録で2位に入って銀メダル獲得を果たした[2]。
その他の主要な大会では、1951年にブエノスアイレスで開催されたパンアメリカンゲームズのマラソンで、1948年ロンドンオリンピックのマラソン金メダリスト、デルフォ・カブレラに次いで2位に入っている[3]。そして彼は、1954年に開催された第9回福岡国際マラソンで外国選手として初めて優勝した[4][5]。彼は1950年代を代表するマラソン選手の1人として、1952年、1954年、1955年の合計3回男子マラソンの世界トップ10に名を連ねている[6]。
主要大会での成績 [編集]
| 年 |
大会 |
場所 |
種目 |
結果 |
記録 |
| 1941 |
南アメリカ陸上競技選手権 |
ブエノスアイレス(アルゼンチン) |
5000m |
2位 |
15分12秒1 |
| 1941 |
南アメリカ陸上競技選手権 |
ブエノスアイレス(アルゼンチン) |
10000m |
2位 |
31分39秒6 |
| 1945 |
南アメリカ陸上競技選手権 |
モンテビデオ(ウルグアイ) |
5000m |
3位 |
15分24秒2 |
| 1945 |
南アメリカ陸上競技選手権 |
モンテビデオ(ウルグアイ) |
10000m |
2位 |
32分38秒2 |
| 1945 |
南アメリカ陸上競技選手権 |
モンテビデオ(ウルグアイ) |
クロスカントリー |
1位 |
44分12秒4 |
| 1947 |
南アメリカ陸上競技選手権 |
リオデジャネイロ(ブラジル) |
クロスカントリー |
2位 |
38分39秒0 |
| 1951 |
パンアメリカンゲームズ |
ブエノスアイレス(アルゼンチン) |
マラソン |
2位 |
2時間45分00秒 |
| 1952 |
南アメリカ陸上競技選手権 |
ブエノスアイレス(アルゼンチン) |
5000m |
2位 |
15分5秒5 |
| 1952 |
ヘルシンキオリンピック |
ヘルシンキ(フィンランド) |
マラソン |
2位 |
2時間25分35秒 |
| 1954 |
福岡国際マラソン |
福岡(日本) |
マラソン |
1位 |
2時間24分55秒 |
| 1955 |
エンスヘーデマラソン |
エンスヘーデ(オランダ) |
マラソン |
1位 |
2時間26分33秒[7] |
脚注 [編集]
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]