ルース・エリス

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ルース・エリス(Ruth Ellis、1926年10月9日 - 1955年7月23日)は、恋人デヴィッド・ブレークリー(David Blakely)の殺害で有罪判決を受けたのち、英国死刑が執行された最後の女性である。

卑しい生まれからエリスは、ロンドンナイトクラブホステス業の世界に早く引き入れられたが、これが短い諸関係の混沌たる人生につながったが、その関係の一部はナイトクラブで遊ぶ上流の人々や名士らとのものであった。 これらのうち2人は、既に別の女性と婚約している競走用自動車運転手デヴィッド・ブレークリー、および小売会社の重役で元イギリス空軍操縦士デズモンド・カセン(Desmond Cussen)であった。

1955年のイースター日曜日に、エリスは、ハムステッド(Hampstead)のパブリック・ハウスの外でブレークリーを撃って死なせ、ただちに警察に自首した。 公判で彼女は殺害の全責任をとったし、法廷と独房との両方での彼女のカーテシーと落ち着きは報道機関に注目された。 彼女は、ロンドンのホロウェー刑務所(Holloway Prison)で、アルバート・ピエレポイントによって絞首刑に処せられた。

絞首刑反対の議論が強まりつつあったときに事件は論争を引きつけたし、もし彼女が顔を和らげるようにという助言をいれたならば、彼女は死刑執行延期を勝ち得たかもしれない。 魅力的なブロンドの女性殺人犯人の肖像は、1950年代のロンドンの聖像のひとつのままである。

前半生[編集]

エリスは、6子の第3子として、ウェールズ沿岸の町リル(Rhyl)に生まれた。 彼女の子供時代に一家はベージングストーク(Basingstoke)に移った。 母は、ベルギー系の亡命者であった。 父アーサー・ホーンビー(Arthur Hornby)は、マンチェスター出身のチェロ奏者で、時間の多くを大西洋定期巡行客船で過ごした。 アーサーは、ルースの姉ミュリエル(Muriel)の誕生ののち、みょうじをネールソン(Neilson)に変えた。

エリスは、ベージングストークのフェアフィールズ・シニア・ガールズ・スクール(Fairfields Senior Girls' School)に通い、[1]14歳であったときウェイトレスとして働くために退学した。 その後まもなく、ロンドン大空襲のさなか1941年に、ネールソン家の人々はロンドンに移った。 1944年に、17歳のルースは既婚のカナダ人兵士によって妊娠し、息子クレア・アンドレア・ネールソン(Clare Andrea Neilson)を生み[1]、彼はアンディ(Andy)として知られる。[2] この父は、1年間ほど金銭を送り、それからやめた。 子は結局のところ、エリスの母と同居した。[3]

経歴[編集]

エリスは、ヌード・モデル業を経てナイトクラブのホステスになったが、これは彼女が退学してから就いたさまざまな工場や事務の仕事以上のかなりの利益になった。 デューク・ストリート(Duke Street)のコート・クラブ(Court Club)で彼女は働いたが、その支配人モリス・コンリー(Morris Conley)は、従業員ホステスらを恐喝して自分と寝させた。 1950年前半に彼女は、売春を始めて、常連客の1人によって妊娠した。[3] 彼女はこの妊娠を(不法に)3ヶ月で終結させ、出来るだけ早く仕事に戻った。

1950年11月8日、彼女は、2人の息子がいる、離婚した歯科医で、41歳のジョージ・エリス(George Ellis)と、ケントのトンブリッジ(Tonbridge)の登記所で結婚した。[4] 彼は、コート・クラブの常連客であった。 彼は、暴力をふるう、嫉妬深い、所有欲の強い、アルコール中毒者であったし、彼女が情事を持っていると彼が確信したので結婚は急速に悪化した。 ルースはいくたびか彼のもとを離れたが、いつも戻ってきた。

1951年に、妊娠4ヶ月のルースは、ランク(Rank)の映画『Lady Godiva Rides Again』に美人コンテストの女王役で、名前を挙げられないまま、出演した。 彼女は続いて、娘ジョージナ(Georgina)を生んだが、ジョージは父性の認知を拒んだし、彼らはその後まもなく別れた。 ルースとその娘は、彼女の両親と同居するようになり、彼女は収支を合わせるためにホステス業に戻った。[3]

デヴィッド・ブレークリーの殺害[編集]

1953年に、ルース・エリスはあるナイトクラブの支配人になった。 この時点で、彼女は讃美者らから惜しみなく高価な贈り物をされていたし、大勢の社交界の名士の友人がいた。[3] 彼女は、競走用自動車運転手マイク・ホーソーン(Mike Hawthorn)をつうじて、3歳年下のデヴィッド・ブレークリーに会った。 ブレークリーは、行儀のよい、パブリック・スクールの卒業者であったが、また大酒飲みのレース出場者でもあった。 幾週間もしないうちに彼は、別の女性メアリー・ドーソン(Mary Dawson)と婚約しているにもかかわらず、クラブの階上の彼女のフラットに引っ越してきた。 エリスは、4たびめの妊娠をしたが、ブレークリーによって示された、ふたりの関係への傾倒の程度に自分が返礼することができないと感じて、その子を流産した。[5]

彼女はそれからデズモンド・カセン(Desmond Cussen)に会い始めた。 1921年にサリー(Surrey)に生まれた彼は、イギリス空軍の操縦士で、第二次世界大戦中、ランカスター爆撃機(Lancaster bomber)を操縦し、イギリス空軍を1946年に去り、会計士業を始めた。 彼は、家業の、ロンドンおよびウェールズに販売店をもつたばこ卸売小売のカセン会社(Cussen & Co.)の重役に任命された。 ルースは、キャロル・クラブ(Carroll Club)の支配人をくびになったとき、オックスフォード・ストリート(Oxford Street)の北、デヴォンシャー・ストリート(Devonshire Street)のグッドウォード・コート(Goodward Court)20番地に、カセンの情婦となって、彼と住むようになった。

しかしながら、ブレークリーとの関係は続き、エリスとブレークリーが他の人々と会い続けるにつれてますます暴力的に、不幸になった。[5] ブレークリーはエリスに結婚しようと申込み、彼女は同意したが、彼女は、ブレークリーとの論争でにパンチを受けたために流産したのち、1955年1月にもう1人の子を亡くした。[5]

こんにちのマグダラ カムデン・ロンドン特別区

1955年4月10日、イースターの日曜日[6]、エリスは、カセンの自宅から、アンソニーとキャロル・フィンドレーター(Anthony and Carole Findlater)の自宅、ハムステッドのタンザ・ロード(Tanza Road)29番地のフラットまでタクシーに乗ったが、そこに彼女はブレークリーが居るのではないかと疑った。 彼女が到着すると、ブレークリーの車が走り去り、それで彼女はタクシー料金を支払い、ハムステッドのサウス・ヒル・パーク(South Hill Park)の4階建てのパブリック・ハウス、マグダラ(Magdala)[7]まで、4分の1マイルを歩くと、その外にブレークリーの車が駐まっていた。

午後9時30分ころ、デヴィッド・ブレークリーと友人クライヴ・ガネル(Clive Gunnell)が姿を現した。 エリスがマグダラのとなりの新聞雑誌販売業者、ヘンショーズ・ドアウェー(Henshaws Doorway)から足を踏み出したとき、ブレークリーが、舗道で待っている彼女の横を通った。 彼女が「こんばんわ、デヴィッド」("Hello, David,")と言い、それから「デヴィッド!」("David!")と叫んだとき、彼は彼女を無視した。

ブレークリーが車の鍵をさがしたとき、[8]エリスがハンドバッグから.38口径スミス・アンド・ウェッソン・ヴィクトリー・モデルのリヴォルヴァーを取りだし、ブレークリーに向けて発砲した。 1発目ははずれたし、彼は走り始め、エリスに追われて車のまわりをまわり、そこで彼女は2発目を発砲し、そのせいで彼は舗道にくずおれた。 彼女はそれから彼を見下ろすように立ちはだかり、さらに彼のなかにさらに3発を発射した。 1発はブレークリーの背から2分の1インチも離れていないところから発射され、彼の皮膚火薬による火傷をのこした。

エリスは催眠術にかかったように死体を見下ろすように立ちはだかっているところを見られたし、目撃者らは、伝えられるところによれば、彼女がリヴォルヴァーの最後の6発目を発射しようとする幾つかのカチッという音がはっきりと聞え、それから最後には地面に発射した。 この弾丸は路面を跳飛し、マグダラまで歩いていたグラディス・ケンジントン・ユール(Gladys Kensington Yule)、53歳、の親指の付け根を負傷させた。

ショック状態のエリスは、ガネルに「警察を呼んでくださる、クライヴ?」("Will you call the police, Clive?")と訊ねた。 彼女はただちに非番の警察官アラン・トンプソン(Alan Thompson)(PC 389)によって逮捕されたが、彼は彼女から、まだ煙の出ている銃を取り、上着のポケットに入れ、彼女が「わたしは罪を犯しました、わたしはすこし混乱しています」と言うのが聞えた。 彼女はハムステッド地区警察本署(Hampstead police station)に連れて行かれたが、そこで彼女は、落ち着いていてかつ明らかに酒または薬物の影響を受けていないように見えた。 彼女は警察に詳しい告白をし、殺人罪に問われた。 ブレークリーの死体は病院に運ばれたが、肝臓大動脈および気管に達する多数の弾丸による負傷があった。

捜査[編集]

ハムステッド地区警察本署でのエリスの尋問のあいだじゅう、あるいは供述を取るあいだじゅう、その夜、午後11時30分に3人の警察官吏が居たけれども、事務弁護士は居なかったが、その3人は警部補ジル(Detective Inspector Gill)、警部補クロフォード(Detective Inspector Crawford)および警部デーヴィス(Detective Chief Inspector Davies)である。 エリスは、1955年4月11日に下級判事裁判所(magistrates' court)に初めて現われたときにもなお法律上の代表者(legal representation)が共に居ることは無かったし、再勾留された。

彼女は、保健所員(Medical Officer)長、ペンリー・ウィリアムズ(Penry Williams)殿によって2たびにわたって検査されたが、彼は精神病の徴候を見出さなかったし、彼女は5月3日に脳波検査を受けたが、なんら異常は見出されなかった。 ホロウェーで再勾留ちゅうに、彼女は弁護側の精神医学者D・ウィッタカー(D. Whittaker)博士によって、内務省のためにA・ダルゼル(Dr A. Dalzell)によって、検査された。 いずれもが狂気の証拠を見出さなかった。

公判と死刑[編集]

1955年6月20日、エリスはオールド・べーリーの第1号法廷の、裁判官セシル・ヘイヴァーズ(Cecil Havers)殿の前に現われた。 彼女は、黒のスーツと白の絹のブラウスを着て、髪は脱色したばかりのブロンドで、セットしてあった。 彼女の弁護士らは彼女に、自分の容貌がたいしたことでないように見せるようにしてもらいたかったが、彼女は、やるときはやるという決心であった。 裁判所内の多くの人々にとって、真鍮色のブロンドであることへの彼女の固執は、少なくとも部分的には、証言をするときに彼女が与える悪い印象の原因であった。

わたしが彼を撃ったときわたしは彼を殺す意図であったことは、明白です。[9]

ルース・エリス, 1955年6月20日、オールド・べーリー、証人席

これが、検察官クリスマス・ハンフリーズ(Christmas Humphreys)によって彼女に発せられた唯一の質問に対する彼女の返事であったが、彼は「あなたがデヴィッド・ブレークリーの身体に近距離からリヴォルヴァーを発砲したとき、あなたは何をする意図でしたか?」と訊ねた。[9] セバーグ・ショー(Sebag Shaw)とピーター・ローリンソン(Peter Rawlinson)によって支持された弁護人メルフォード・スティーヴンソン(Melford Stevenson)であれば、公判の開始の前にこのあり得る質問について助言するのが標準的な法律的な慣習であるのだから、エリスにもそのようにしたであろう。 公判廷におけるハンフリーの質問に対する彼女の答えは、有罪の評決を、したがって、それに続く強制的な死の判決を、保証した。 陪審は彼女に有罪の評決を下すのに14分間をかけた。[9] 彼女は判決を受入れ、ホロウェーの死刑囚監房に連れて行かれた。

2010年、テレヴィジョンのインタヴューで、裁判官ヘイヴァーズ殿の孫息子で俳優のナイジェル・ヘイヴァーズ(Nigel Havers)の話では、祖父は内務大臣グウィリム・ロイド・ジョージ宛てに、彼はそれを「情痴犯罪」と見なすので死刑執行延期をすすめたが、それはにべもなく断られたが、それは一家によって保持されている。 彼女の棺の最後の釘が、無実の通行人が負傷させられたことであるということは、示唆されてきた。

死刑の前日、1955年7月12日の真昼、いやいやながらエリスは、友人デズモンド・カセンによって自分のために選ばれた事務弁護士ビックフォード(Bickford)を解任し、事務弁護士(その法律事務所は以前、殺人事件公判ではなく離婚手続きで彼女の代理をつとめていた)とその秘書レオン・シモンズ(Leon Simmons)に声明を出した。 彼女は、射撃にかんするさらなる証拠を明らかにし、銃はカセンによって供給されたこと、彼が彼女を殺人現場に乗せていったことを言った。 死刑囚監房での90分間のインタヴューに続いて、事務弁護士とシモンズは内務大臣のもとに行き、そこで彼らはエリスの暴露について下位公務員に話した。 当局は、これの追跡調査をする努力を払わなかったし、死刑執行延期はなかった。

独房からデヴィッド・ブレークリーの両親宛の最後の手紙で、彼女は「わたしはご子息を愛していましたし、ご子息をなおも愛しながら死にます」と書いた。[10]

エディス・トンプソン(Edith Thompson)の1923年の死刑執行以来、女性死刑囚は詰め物をした、厚い、キャリコのニッカーズを着用しなければならなかったが、3週間エリスを護衛したウォーダー・イヴリン・ギャラリー(Warder Evelyn Galilee)は、定刻の前に、彼女を手洗いに連れて行った。 ウォーダー・ ギャラリーは言った、「悪いけれど、ルース、わたしはこれをやらねばならないの」。 それらは、正面と背面のテープを引っぱるようになっていた。 エリスは「これでいい?」と、そして「こちらを引いてくださるかしら、イヴリン? わたしは残りを引きますから」と言った。 死刑囚監房にふたたびはいるや、彼女は眼鏡をはずし、それをテーブルの上に置き、言った「もうこれは必要ないでしょうね」。[11]

7月13日水曜日午前9時の30秒前、絞首刑執行人アルバート・ピエレポイントとその助手ロイストン・リカード(Royston Rickard)は、死刑囚監房のなかにはいり、となりの執行室まで15フィート(4.6メートル)、ルースを護衛した。[12] 彼女は前日、体重は103ポンド(47キログラム)あったし、8フィート4インチ(2.54メートル)の絞首台の踏落台が準備された。 ピエレポイント12秒間ちょうどで死刑を実行したし、死体は1時間、吊り下げられたままであった。 病理学者キース・シンプソン(Keith Simpson)博士による検死解剖報告が、公表された。[13]

ステップニー(Stepney)の主教(Bishop)ジュースト・ド・ブランク(Joost de Blank)が、死の直前のエリスを訪ねると、彼女は彼に語った、「わたしが彼を撃った人物ではないことはまったく明らかです。 わたしは自分がリヴォルヴァーを帯びているのが見えたとき、わたしは自分が別の人物であることを知りました」。 これらの評言は、当時のロンドンの夕刊紙『ザ・スター(The Star)』でなされた。

公衆の反応[編集]

事件は当時、報道機関と公衆の例外的に強い関心を、内閣によって議論される点まで呼び起こして、広範囲の議論を巻き起こした。[14]

死刑執行の当日、『デーリー・ミラー』のコラムニストであるカッサンドラ(Cassandra)ことウィリアム・コナー(William Connor)は判決を攻撃するコラムを書き、「人類に名声と威厳をもたらし、われわれを獣以上に高尚にする唯一のものが、彼女には拒否されるであろう--あわれみと究極のあがないの希望が」と書いた。[15] 寛大な処置を求める内務大臣への請願には、5万人が署名したが、保守党の内務大臣で少佐のグウィリム・ロイド・ジョージ(Gwilym Lloyd George)は、それを却下した。[15]

当時ブリテンに在住していた小説家レーモンド・チャンドラーは、 『イヴニング・スタンダード』宛てに痛烈な手紙を書き、「法の中世的な未開性」(the medieval savagery of the law)と彼が表現したものに言及した。[16]

遺産[編集]

絞首刑は、死刑の廃止への公衆の支持を強めるのを助けたが、死刑はイギリスで10年間、執行されなかった(英国における最後の死刑執行は1964年のことであった)。 死刑執行延期はそのときまでにありふれたことであった。 ひとつの統計的記事によれば、1926年と1954年との間で、677人の男性と60人の女性がイングランドウェールズで死刑判決を受けたが、375人の男性と7人の女性だけが死刑が執行された。[17]

1970年代前半、エリスの事務弁護士ジョン・ビックフォード(John Bickford)は、マルタの自宅からスコットランド・ヤードに声明を出した。 彼は、1955年にデズモンド・カセンが自分に語ったことを回想している: どのようにエリスが公判で嘘をついたか、そしてどのように彼(ビックフォード)がその情報を隠したか。 ビックフォードの告白ののち、警察の捜査が続いたが、カセンにかんするそれ以上の行動は取られなかった。

当時の首相アンソニー・イーデンは、回想録でルース・エリス事件に言及しなかったし、彼の文書には何も無い。 彼は決定は内務省の責任であることを容認したが、彼がそのことで悩んでいた兆候がある。[18]

複数の外国紙は、「情痴犯罪」(crime passionnel)の概念は、イギリス人には異質に思われると述べた。

家族への余波[編集]

1969年、エリスの母バータ・ネールソン(Berta Neilson)はヘメル・ヘムステッド(Hemel Hempstead)の、自分のフラットの、ガスが充満した室で意識不明で発見された。 彼女は決して完全に回復しなかったし、もとのように首尾一貫した口をきくことはなかった。 エリスの夫ジョージ・エリス(George Ellis)はアルコール中毒におちいり、1958年に首吊り自殺をした。 彼女の息子アンディは母の絞首刑の当時、10歳であったが、1982年、寝室兼居間(bedsit)で自殺をした。 公判の裁判官サー・セシル・ヘイヴァーズ(Sir Cecil Havers)は、毎年、アンディの維持のために金銭を送ったし、エリスの公判の検察官クリスマス・ハンフリーズは、彼の葬儀代を支払った。[2] エリスの娘ジョージナは、母の死刑が執行されたとき3歳であったが、父が3年後に首吊り自殺したとき養子縁組された。 彼女はで50歳で死亡した。[19]

恩赦を求める運動[編集]

事件は、イギリス人の想像を強く握り続けているし、2003年に、刑事事件再審査委員会(Criminal Cases Review Commission)によって控訴院(Court of Appeal)に付託された。 裁判所は上訴を断固として拒否したが、ただし、彼女に死刑が執行されるべきであるかどうかにではなく、1955年現在の法に基づく有罪判決のみに判断を下すことができることを明らかにした。[20]

裁判所は、上訴を審議しなければならなかったという事実について批判的であった:

われわれは、さらにひとつの観察をおこないたい。 われわれは、ミセス・エリス自身が 当時、上訴しないことを意識的に慎重に選んだのに、これほど事件のずっと後に上訴を審議することのこの行使が、控訴院の有限な資源の賢明な使用であるか否かを問わなければならない、 どのように見ても、ミセス・エリスは重大な刑事犯罪を犯した。 したがってこの事件は、係争点がまったく無実な人物が殺人罪の有罪判決を受けたか否かにあるハンラッティ[2002] 2 Cr App R 30のような事件とは、まったく異なる。 その規模の邪悪は、こんにちにおいてさえ、一般公衆の関心の問題であるかもしれないが、しかしこの事件において、ミセス・エリスが殺人犯ではなく、唯一の係争点が彼女が犯した正確な犯罪であることには疑問はない。 もしわれわれが彼女の事件を審議しなければならなかったのでないならば、われわれは、利用し得る時間に8ないし12の他の事件を取り扱ったかもしれないであろうし、そのうちの多数は誤ってこうりゅうされていると言われる人々を巻き込んでいたであろう。[21]

2007年7月に、1955年のオールド・べーリーの陪審が審議することを求められなかった新証拠に照らして、ルース・エリス事件を再び審議し、彼女に恩赦を与えることを首相ゴードン・ブラウンに求める請願が、ダウニング街10番地ウェブサイトに公表された。 それは2008年7月4日に終った。[22]

埋葬[編集]

エリスは、死刑が執行された元死刑囚の習慣として、ホロウェー刑務所のしるしづけられていない墓に埋葬された。 1970年代前半に刑務所は、再建築の拡張計画を受けたが、その間、死刑が執行されたすべての元女性死刑囚の死体は他の場所への再埋葬のために発掘された。 エリスの死体は、バッキンガムシャーのアマーシャム(Amersham)の聖マリー教会の教会付属墓地拡張地に再埋葬された。 教会墓地の竿石は「ルース・ホーンビー 1926年 - 1955年」("Ruth Hornby 1926–1955")と記された。 彼女の息子アンディは、1982年に自殺する少し前に竿石を破壊した。

ホロウェーで死刑が執行された他の4人の女性、スティロー・クリストフィ(Styllou Christofi)、イディス・トンプソン(Edith Thompson)、アメリア・サックとアニー・ウォルターズ(Amelia Sach and Annie Walters)の遺物は、ブルックウッド・セメトリーの単一の墓にふたたび埋葬された。

これは偶然の一致であるが、スティロー・クリストフィは、1954年に死刑が執行されたが、ハムステッドのサウス・ヒル・パーク11番地[23]に息子および義理の娘とともに住んでいたが、そこは番号 2a のマグダラ・パブリック・ハウスから数ヤードのところであり、そこでデヴィッド・ブレークリーが4ヶ月後に撃たれた。

映画、テレビジョンおよび演劇化[編集]

1980年、ITVドラマ・シリーズ『Lady Killers』の第1シリーズの第3回は法廷事件を再創造し、エリス役はジョージナ・ヘイル(Georgina Hale)が演じた。

最初のエリスの映画上の肖像は、マイク・ニューウェル監督の『ダンス・ウィズ・ア・ストレンジャー』(1985年)の上映とともに現われ、エリス役はミランダ・リチャードソンであった。

エリスの話とアルバート・ピエレポイントの話は、舞台劇『Follow Me』でふたたび語られているが、これはロス・ガーニー=ランドール(Ross Gurney-Randall)とデーヴ・マウンフィールド(Dave Mounfield)脚本、ガイ・マスターソン(Guy Masterson)監督。エディンバラ・フェスティバル・フリンジの一部として、アッセンブリー・ルームズ(Assembly Rooms)でプレミアが行なわれた。

映画『Pierrepoint』(2006年)において、エリス役はメアリー・ストックリー(Mary Stockley)が演じた。

『Lady Godiva Rides Again』でダイアナ・ド-スは主演し、エリスは名前の挙げられない端役を演じたが、ドースは、J・リー・トンプソン監督のイギリス映画『Yield to the Night』(1956年)で、エリスに似た(ただし、基づいてはいない)人物を演じた。[24][25]

注釈[編集]

  1. ^ a b Dunn 2010.
  2. ^ a b Jakubait and Weller, 2005.
  3. ^ a b c d Blackwell, 2010, p. 95
  4. ^ Ruth Ellis: The Last to Hang
  5. ^ a b c Blackwell, 2010, p. 96
  6. ^ Melford Stevenson « Searching for the Truth about Ruth Ellis By Monica Weller
  7. ^ "The Magdala" FancyaPint.com (Retrieved 13 February 2010)
  8. ^ David Cocksedge, on his website 'The Lady Died for Love' described Blakely's car as a green 'Vauxhall Vanguard', a make/model that does not exist. It is presumed that he could have been referring to either a Standard Vanguard or some other model of Vauxhall
  9. ^ a b c Block, Brian P. and Hostettler, John. Hanging in the Balance. 1997, page 164
  10. ^ Ruth Ellis's letter to David Blakeley's parents from the condemned cell
  11. ^ Searching for the Truth about Ruth Ellis By Monica Weller
  12. ^ The condemned cell and execution chamber at Holloway Prison
  13. ^ Autopsy Report of Ruth Ellis
  14. ^ James, Robert Rhodes (1987), Anthony Eden, p. 420, Papermac, ISBN 0-333-45503-7
  15. ^ a b Blackwell, 2010, p. 98
  16. ^ Raymond Chandler, A Biography, Tom Hiney, 1997, p. 224
  17. ^ Block, Brian P. and Hostettler, John. Hanging in the Balance. 1997, p. 165
  18. ^ James,Robert Rhodes (1987) "Anthony Eden,"p. 420. Papermac,ISBN 0-333-45503-7.
  19. ^ “Judgement reserved in Ellis case”. BBC News. (2003年9月17日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/london/3116722.stm 2010年5月23日閲覧。 
  20. ^ Court of Appeal, 2003; section 89
  21. ^ Court of Appeal, 2003; section 90
  22. ^ Author May Prove Hanged Womans Innocence (from This Is Local London)
  23. ^ According to the 1954 Electoral Register for England
  24. ^ Leonard Maltin's 2004 Move & Video Guide
  25. ^ Film Forum Brit Noir summer 2009 schedule.

参考文献[編集]

  • Blackhall, Sue (2009). "Ruth Ellis", True Crime: Crimes of Passion. Igloo. ISBN 978-1-84817-719-2
  • Dunn, Jane (2010). "Ruth Ellis," Oxford Dictionary of National Biography.
  • Hancock, Robert (1963). Ruth Ellis: The Last Woman to Be Hanged. Orion; 3rd edition 2000. ISBN 0-7528-3449-5
  • Jakubait, Muriel and Weller, Monica (2005). Ruth Ellis: My Sister's Secret life. Robinson Publishing. ISBN 1-84529-119-0
  • Mark, Laurence and Van Den Bergh, Tony (1990). Ruth Ellis: a Case of Diminished Responsibility?. Penguin. ISBN 0-14-012902-2

外部リンク[編集]