ルネ・ド・シャロン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ルネ・ド・シャロン

ルネ・ド・シャロンRené de Châlon, 1519年2月5日 - 1544年7月15日)は、オランジュ(オラニエ)公、及びホラント州ゼーラント州ユトレヒト州ヘルダーラント州総督ナッサウ家の最初のオラニエ公であり、オラニエ=ナッサウ家の祖と見なされることもある。一般に祖とされるウィレム1世の従兄である。

ブレダ領主ヘンドリック3世・ファン・ナッサウ=ブレダ (enと2番目の妻クローディア・ド・シャロン (enの一人息子として生まれた。ドイツ語名はレナートゥス(Renatus)。母の弟フィリベール・ド・シャロン (enシャロン家 (en最後のオランジュ公だった。フィリベールが1530年に嗣子なしに死去したため、ルネはシャロンの家名と紋章を用いることを条件に、オランジュ公領やフランシュ=コンテの所領を相続した。一方、父からナッサウ家のライン川左岸およびネーデルラントの所領も相続している。

1540年、ルネはロレーヌ公アントワーヌの娘アンヌと、ロレーヌのバル=ル=デュックで結婚した。2人の間の一人娘マリーは生後3週間で死亡し、他に子は生まれなかった。

シャロン家は代々ブルゴーニュ公の廷臣として仕え、ルネもブルゴーニュ公である神聖ローマ皇帝カール5世に仕えた。第4次イタリア戦争にも参陣したが、1544年サン=ディジエの包囲戦のさなかに、25歳の若さで戦死した(守備にあたっていたベンヴェヌート・チェッリーニが、砲につめた鉄屑を撃ち放ちルネを直撃した、という[1])。

ルネは生前、カール5世の意向により、父方の叔父ナッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルム (enの長男ヴィルヘルム(ウィレム)を相続人に定めていた。カール5世が、万が一の際にルネの財産がプロテスタントのディレンブルク伯に渡ることを好まず、その子供であれば改宗も容易であると考えたためである。実際にルネが不慮の死を遂げたことで、オランジュ公領やネーデルラントの所領などは全て、この11歳の従弟が相続した。

脚注[編集]

  1. ^ 古賀弘人・訳 『チェッリーニ自伝・上』 岩波文庫、1993年、131-132頁。
先代:
フィリベール・ド・シャロン
オランジュ公
1530年 - 1544年
次代:
ウィレム1世