ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌス

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サトゥルニヌスが描かれた硬貨

ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスラテン語: Lucius Appuleius Saturninus, ? - 紀元前100年12月)は、共和政ローマ期の政治家であり、ガイウス・マリウス派の護民官。

生涯[編集]

紀元前104年、サトゥルニヌスはクァエストル(財務官)としてオスティアへ赴任し、穀物の輸入を担当したが、元老院によって解任され、後任にはオプティマテス(閥族派)の有力議員であったマルクス・アエミリス・スカウルス(Marcus Aemilius Scaurus)が就任することとなった。これがサトゥルニヌスがポプラレス(民衆派、マリウス派)へ転じた契機であったとされる。

紀元前103年、サトゥルニヌスは護民官に選任されたが、その年の執政官でローマで最も人気のあったガイウス・マリウス及びその支持者によるところであった。グラックス兄弟の承継者を自認したサトゥルニヌスは、マリウスの軍制改革により軍隊に志願した者の多くがキンブリ・テウトニ戦争の終結によって職を失うこととなったのに対して、アフリカ属州に新植民地を開拓し、元軍人らに土地100ユゲラ(約25ヘクタール)を与える法案をケントゥリア民会へ提案した。

元老院議員の多くは財源の問題からこれに反対したものの、マリウスはこの法案に賛成して可決された。この際にクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ヌミディクスは反対したため、国外へと亡命するに至った。

元老院を屈服させた格好となったサトゥルニヌスはその後も護民官に選出されたが、紀元前99年の護民官を争う有力候補であったオプティマテスに属するガイウス・メンミウス(Gaius Memmius)を自派の運動員に殺害させたことから、元老院はサトゥルニヌスに対して「セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム」を突きつけた。サトゥルニヌス派は鎮圧に出動したマリウス率いるローマ軍とフォルム・ロマヌムで市街戦に及んだが敗北、サトゥルニヌスらはカピトリヌスの丘に支持者と共に立て篭もったが、水を断たれたサトゥルニヌス派は降伏した。

マリウスはサトゥルニヌスの降伏を受け入れて、クリア・ホスティリア内に収容したが、反サトゥルニヌス派はクリア・ホスティリアを襲撃し、石や屋根瓦を投付けられたサトゥルニヌスは支持者と共に殺害された。サトゥルニヌスを殺害した実行犯の1人がガイウス・ラビリウスであったが、この事件から37年後の紀元前63年に同じサトゥルニヌス派に属して殺害された親族を持つティトゥス・ラビエヌスガイウス・ユリウス・カエサルの支援を受け、護民官権限を行使して、ラビリウスをサトゥルニヌス殺害の咎で刑事告訴することとなった。

参考文献[編集]