リーチオ・ジェッリ

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リーチオ・ジェッリ
Licio Gelli
生誕 1919年4月21日(94歳)
イタリアの旗 イタリアトスカーナ州
職業 イタリア社会運動幹部
投資家
ロッジP2」代表など
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リーチオ・ジェッリ(Licio Gelli、1919年4月21日-)は、イタリアの極右政党イタリア社会運動(MSI)幹部、投資家、元フリーメイソンの「ロッジP2」代表。

プロフィール[編集]

黒シャツ隊[編集]

1919年にトスカーナ州のピストイアに生まれる。1930年代後半に当時イタリアの政権を担っていたファシスト党ベニート・ムッソリーニ率いる「黒シャツ隊」の一員として、当時ムッソリーニ政権と友好関係にあったスペインフランシスコ・フランコ政権を援助するためにスペインへ滞在したこともある。

またこの頃、第二次世界大戦終結後に「ネオファシスト」と呼ばれるイタリア社会運動党(MSI)を創立することになる、ジョルジオ・アルミナンテと知り合う。同時期にはドイツ空軍ヘルマン・ゲーリング総司令官への協力も行った。

CIAとの関係と戦犯逃亡幇助[編集]

1945年の第二次世界大戦の終結後には、イタリアに進駐したイギリスアメリカなどの連合国の情報局がイタリア国内および周辺国において行った、共産党及び共産党員に対するカウンター活動に協力することとなる。なおジェッリは、アメリカのOSS(その後1947年アメリカ中央情報局/CIAとなる)とは、その後冷戦期を通じて関係を保ち続けることとなった。

なお、第二次世界大戦終結の翌年の1946年に、かつての黒シャツ隊のメンバーを中心に、ファシスト党の復権を掲げる極右政党であるイタリア社会運動党が創立されると直ちに党員となり、幹部として活躍することとなった。

ドイツの戦犯逃亡幇助[編集]

しかしジェッリは、その後も両国の情報局との関係を保っていたにも拘らず、かつて関係の深かったドイツ政府や軍の戦犯容疑者のアルゼンチンブラジルなどの南アメリカへの逃亡を助けたことが明らかになっており、その中には第二次世界大戦時のドイツナチス親衛隊中尉で、元ゲシュタポクラウス・バルビーも含まれている。なおこの逃亡幇助の際に、イギリス情報局秘密情報部やアメリカのOSSはジェッリが関与していることを知りつつも見逃していたという説がある[1]

南アメリカの軍事政権との関係[編集]

その後1950年代冷戦下において、「反共産主義」を掲げた軍事独裁政権を維持していたアルゼンチンファン・ペロン大統領や、ペロン大統領と親しいパラグアイアルフレド・ストロエスネル大統領などの軍事独裁政権の首脳陣、そしてボリビアの軍事政権の私兵集団や秘密警察などとの関係を深めた。

なおこの際には、第二次世界大戦後にジェッリの協力を得てアルゼンチンやボリビアなどに逃亡し、その後アルゼンチン軍やボリビア政府の顧問となっていたクラウス・バルビーをはじめとするドイツの戦犯容疑者らが両者の関係を取り持つこととなった。

その後ジェッリは、駐伊アルゼンチン大使館の「経済顧問」に就任し、イタリアやフランスをはじめとするヨーロッパ各国の最新兵器のアルゼンチンなどへの輸出利権に深く関わっていただけでなく、その後1970年代にアルゼンチンで巻き起こった「汚い戦争」や、1982年に勃発した「フォークランド紛争」においてアルゼンチン軍に大戦果をもたらした「エグゾセ・ミサイル」のアルゼンチンへの供給を行うなど、アルゼンチン政府への協力を惜しまなかった。

ロッジP2[編集]

1963年には、1877年に設立されたイタリアに本拠を置くグランド・ロッジ「イタリア大東社(Grande Oriente d'Italia)」に入会し、その後同グランド・ロッジ傘下のロッジである「ロッジP2」(P2=Propaganda Due)を創設し、1971年には「イタリア大東社」のグランド・マスター(=親方)となった。

その後同「ロッジP2」は、冷戦たけなわの1970年代に、イタリア社会運動党の関係者や、イタリアの右派政治家や軍人を中心に、アルゼンチンなどの南アメリカ諸国の軍事政権の政治家や軍人もメンバーに持ち、さながら冷戦下における反共産主義者の集まりとして活動していた。同ロッジのメンバーは、反共産主義活動の一環として南アメリカの軍事独裁政権への武器買い付けを行ったほか、アルゼンチンで「汚い戦争」を進めていたホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領を積極的に支援していた[2]

さらに、歴代のボリビアの軍事政権指導者の治安対策アドバイザーとなっていたバルビーを経由して、アルゼンチンのペロン大統領の支援の下ボリビアへ亡命し、1964年から政権を握ったレネ・バリエントス・オルトゥーニョ将軍との関係も結んだ。 

この様な活動が疑惑と批判を浴び、1976年にフリーメイソンのロッジとしての認証が取り消されたものの、その後も「認証されないロッジ」として、他のロッジのメンバーとなった元メンバーのイタリアの政治家や軍人、極右活動家を中心に、言葉通りの「秘密結社」的存在として活動していた。

ヨハネ・パウロ1世「暗殺」[編集]

なおジェッリは、バチカン銀行の財政顧問も務めた弁護士で、自らが経営するミラノプライベートバンクを通じてマフィアマネーロンダリングを行っていたミケーレ・シンドーナとの関係を結んだ。さらに1960年代後半には、バチカン銀行の資金調達と投資を行う主力行のアンブロシアーノ銀行の幹部であるロベルト・カルヴィを通じて、バチカン銀行総裁でアメリカシカゴ出身のポール・マルチンクス大司教や、さらにマルチンクス大司教と昵懇の仲であったアメリカのデヴィッド・M・ケネディ財務長官との関係を結び、バチカン銀行とアンブロシアーノ銀行を通じたマフィアがらみの資金のマネー・ロンダリングと不正融資を進めることとなった[3]

これに対してイタリア政府内やバチカン内で批判が巻き起こった上、1974年にシンドーナが経営していたプライベートバンクが、3億アメリカドルを超える負債を抱え経営が悪化したことなどを受けて、イタリアの財政局がシンドーナに対し横領罪での調査を進めたものの、当時の教皇であるパウロ6世がマルチンクス大司教の事実上の後見人であったことから、ジェッリやカルヴィらによるマネー・ロンダリングと不正融資はおとがめを受けることなく行われることとなった[4]

しかし、1978年8月にパウロ6世教皇が死去し、ヨハネ・パウロ1世が同月26日新教皇に就任すると、バチカン銀行の取り引きの調査を進めることを指示しただけでなく、マルチンクス大司教の解任を中心とした新人事の発令を進めた。しかしヨハネ・パウロ1世は教皇就任後わずか33日後の同年9月28日に逝去し、バチカン銀行に対する調査やマルチンクス大司教の解任は行われないこととなった。さらにヨハネ・パウロ1世を継いで1978年10月に教皇となったヨハネ・パウロ2世が、急死した前任者と打って変わってバチカン銀行の改革に熱心でなかったこともあり、その後もジェッリやカルヴィは、マルチンクス大司教の庇護の下でバチカン銀行を経由したマフィア絡みのマネーロンダリングと不正融資を続けた[5]

なお、ヨハネ・パウロ1世教皇の逝去後に、ヨハネ・パウロ1世教皇が逝去時に手にしていた書類やメガネ、スリッパなどが行方不明になったり、即座に遺体に保存剤を注入するなど死因を隠ぺいしたと思われる不可解な動きが行われたこと、さらに、バチカン外に居住していたマルチンクス大司教が教皇逝去の直後にバチカンにいたことが目撃されていたことなどが疑惑を呼び、教皇の突然の死が、マルチンクス大司教やジェッリ、シンドーナやカルヴィによって仕組まれた「暗殺」であるという説がその後ささやかれることとなった[6]

ボローニャ駅爆破事件[編集]

爆破されたボローニャ中央駅

1980年8月2日の朝に、ボローニャにあるボローニャ中央駅で爆弾テロ事件が発生し、これにより85人が死亡、200人以上が負傷した。当初この事件は事故と思われていたものの、その後の調査で捜査員が爆心地近くで金属片とプラスチック片を発見したことにより、テロ事件と断定され捜査が開始された。

その後捜査当局はネオファシズム組織の「武装革命中核」(Nuclei Armati Rivoluzionari)がテロの実行犯と断定し、さらに「ロッジP2」のメンバーで、イタリア軍安全情報局(SISMI)のナンバー2のピエルト・ムスメキ将軍が、ジェッリの事件への関与の嫌疑をそらし、さらに他の極右組織のメンバーに嫌疑をかけるための偽装工作を行ったとして逮捕された。

その後行われた裁判でジェッリとムスメキ将軍は捜査妨害などの罪で有罪判決を受けた。なお、事件の動機は判明していないが、爆破テロを行い多くの市民を殺害し、その罪を共産主義者になすりつけることで、共産主義者による脅威と、当時のフランチェスコ・コッシガ政権の極左対策への無策をアピールし、世論を極右政党に対し有利な方向に誘導することが目的であったのではないかと言われている[7]

「P2事件」[編集]

シルヴィオ・ベルルスコーニ

1981年3月には、当時ボローニャ駅爆破事件及びいくつかの経済犯罪、さらに政府転覆謀議などへの関与の容疑でイタリア当局に逮捕状が出されていたジェッリのナポリの別宅をイタリア警察が捜索した際に、既に「認証されないロッジ」となっていた「ロッジP2」に、下記の10人を含む932人のメンバーがいることがジェッリ代表が持っていたリストから確認された。

その中には、第二次世界大戦後の王制廃止により亡命生活を余儀なくされていたヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイアイタリア王国王太子の他にも、30人の現役将軍、38人の現役国会議員、4人の現役閣僚、更には情報部員や後にイタリアの首相(2009年10月時点でも首相を務める)となるシルヴィオ・ベルルスコーニなどの実業家大学教授などが含まれており、「P2事件」と呼ばれイタリア政界を揺るがす大スキャンダルとなった[8]

これらの事態を受けフリーメイソンは、ジェッリ以下の「ロッジP2」の全てのメンバーを、「フリーメイソンの名をかたった上で、フリーメイソンにふさわしくない活動を行った」として1981年10月31日に正式に破門した。また同年12月24日には、アレッサンドロ・ペルティーニ大統領が「ロッジP2」を「犯罪組織」と指名し、議会に調査委員会が発足した。

ジェッリは当局の捜査が入る前に、逮捕を逃れるためにスイスに逃亡していたが、1982年にジュネーヴで逮捕され、上記の容疑にあわせて1970年代にトスカーナで発生した25件の極右テロに対する資金的援助の容疑で、イタリアとスイスの裁判所から有罪判決を受け服役した。しかし、その後数回に渡り脱獄と逮捕を繰り返した[9]。なおこれらの一連の脱獄には、ジェッリと親しかったジュリオ・アンドレオッティ首相を含むイタリア政界関係者やマフィアの関与があったとみられている。

「カルヴィ暗殺事件」[編集]

ロベルト・カルヴィ

ジェッリは「P2事件」後に逮捕されるまでの間、1975年にアンブロシアーノ銀行の頭取に就任したカルヴィの協力の元に、アンブロシアーノ銀行とバチカン銀行を経由したマネーロンダリングと不正融資を続けていたが、不明朗な資金の流れはイタリア政府関係者やイタリアをはじめとする各国のマスコミの疑念を呼ぶこととなった[10]。その結果、アンブロシアーノ銀行は1981年から1982年にかけてイタリア中央銀行による大規模な査察を受けることとなり、およそ10-15億アメリカドルに上る使途不明金を抱えていたことが明らかになり、1982年5月に破綻した。

なおカルヴィは、アンブロシアーノ銀行の破綻とそれに伴う議会の公聴会への招聘の直前に、偽造パスポートを使い国外に逃亡していたが、6月17日に、イギリス首都ロンドンテムズ川にかかるブラックフライアーズ橋の下で「首吊り死体」の姿で発見されたため、当事者のバチカンとイタリア、イギリス政府のみならず、全世界を揺るがす大騒動となった[11]

カルヴィの死体が発見された当時は単なる自殺であるということで片付けられたものの、死体の位置が自ら首を吊ったとするには無理がある状況であったり、なぜか衣服のポケットに別の場所で入れられたと見られる小石や煉瓦が入っていたりと、死体の状況が単なる自殺とはあまりにもかけ離れた状況であることから、その後遺族らによって再捜査を依頼されたスコットランド・ヤード(ロンドン市警)が再捜査を開始し、最終的に1992年に他殺と判断された。また、イタリア警察当局も2003年7月にカルヴィの遺族の依頼により遺体を掘り起こし再鑑定した結果、「他殺され発見現場に運ばれた」との判断を下している。

その後行われた捜査と裁判の過程の中で、イタリアの司法当局への情報提供者と転向したマフィアの構成員のフランチェスコ・マリーノ・マンノイアは、1991年7月に「カルヴィが殺害された原因は、アンブロシアーノ銀行破綻によりマフィアの資金が失われた報復であり、実際にカルヴィを殺害したのは当時ロンドンにいたマフィアのフランチェスコ・ディ・カルロであり、殺害命令を下したのは『ロッジP2』のジェッリ元会長と、マフィアの財政面、主にマネーロンダリングに深く関わったことから『マフィアの財務長官』と呼ばれたジュセッペ・ピッポ・カロ であった」と暴露した。

その後もイタリアの司法当局による捜査は続き、2005年4月18日に司法当局は、カロとジェッリ、カルボーニ、ディオタッレーヴィとカルヴィのボディガードだったシルヴァノ・ヴィットールら5人を、カルヴィに対する殺人罪などでローマ地方裁判所に起訴した。同年10月には裁判が開始され、その後2007年3月に検察官のルカ・テスカローリは、これら5人の被告に対してカルヴィ殺害に関与した容疑で終身刑を求刑した(なおカロは、1984年12月23日にフィレンツェとボローニャ間を走る急行列車の爆破テロを指示した他、64件の殺人罪と麻薬密輸罪など136件の犯罪に関与した容疑で終身刑4回の判決を受け、1987年より服役していた)。しかし、2007年6月6日にローマ地方裁判所はジェッリを含む5人の被告全員に対して「証拠不十分」として無罪判決を下した。

現在[編集]

1996年にはノーベル文学賞候補になり、さらに2003年には「ラ・レプッブリカ」紙のインタビューを受け「P2再生プラン」を発表し話題を呼んだ。また2007年に「カルヴィ暗殺事件」で無罪判決を受けた後には、自らの自叙伝的映画のための権利を譲渡する契約を、アメリカの映画プロデューサーとの間に結んだ。

索引[編集]

  1. ^ 「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年
  2. ^ 「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年
  3. ^ 「イタリア・マフィア」シルヴィオ・ピエロサンティ著 ちくま新書 2007年
  4. ^ 「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年
  5. ^ 「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年
  6. ^ 「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年
  7. ^ 「イタリア・マフィア」シルヴィオ・ピエロサンティ著 ちくま新書 2007年
  8. ^ 「イタリア・マフィア」シルヴィオ・ピエロサンティ著 ちくま新書 2007年
  9. ^ 「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年
  10. ^ 「法王暗殺」デイビッド・ヤロップ著 文藝春秋 1985年
  11. ^ 「サイレント・マイノリティ」塩野七生著 新潮文庫

関連項目[編集]