リュシアン・フェーヴル

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リュシアン・フェーヴル
人物情報
生誕 (1878-07-22) 1878年7月22日
フランスの旗 フランスナンシー
死没 1956年9月27日(1956-09-27)(78歳)
フランスの旗 フランスサンタムール
出身校 高等師範学校
学問
研究分野 歴史学
研究機関 ディジョン大学
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リュシアン・ポール・ヴィクトル・フェーヴルフランス語: Lucien Paul Victor Febvre1878年7月22日 - 1956年9月27日)は、フランス歴史学者

略歴[編集]

1878年7月22日にフランスのナンシーにて生誕する。パリ高等師範学校在学時(1899年 - 1902年)に、当初歴史学を志すものの文献史料批判に明け暮れる風潮になじめず、文学を学ぶ。卒業後、地理学者ヴィダル・ド・ラ・ブラーシュの影響を受け、再度歴史学研究へ興味を移していった。

1911年に論文『フェリペ2世フランシュ・コンテ--政治・宗教・社会史研究』を執筆。フランシュ=コンテ地域圏の歴史を政治・宗教・社会の総体的な位置づけのもとに執筆した論文は高く評価され、学位を取得する。翌1912年にはディジョン大学の教授に就任するが、第一次世界大戦の勃発に伴い、4年間軍役生活を送り教壇から離れる。

アルザス=ロレーヌがフランスへ帰属した1919年に、ストラスブール大学の教授に就任。1922年に『大地と人類の進化-歴史への地理学的序論-』La Terre et l’Évolution Humaine, Introduction Géographique à l’Histoireを発表し、歴史学と地理学社会学等の周辺領域の学問の連関を主張、この時期に同僚であるマルク・ブロック「生きた歴史学」の必要性において意見を交わしている。同書の中でフリードリヒ・ラッツェル環境決定論者、ブラーシュを環境可能論者と呼び[1]、環境決定論を否定し、環境可能論を正当化しようとした[2]。この本の反響は大きかったが、地理学ではすでに環境決定論から環境可能論への転換が終わっていたので、地理学に与える影響は大きくなかった[3]

1928年、フェーヴルとブロックは、ベルギーの歴史学者アンリ・ピレンヌに経済史に重点を置いた歴史学誌の発刊を持ちかけるが、意見の一致が見られず計画が頓挫。翌1929年、二人は歴史学誌の創刊を実現し、自身の歴史学における経済学・社会学の重要性の主張をこめ、『経済社会史年報』Annales d'histoire, economique et socialeと名づける。『経済社会史年報』はその後たびたび誌名を変えることとなるため、総称して『アナール』と呼ばれる(アナール学派を参照)。

1933年にはコレージュ・ド・フランスに招聘され、近代文明史の講義を担当する(前掲『大地と人類の進化』訳者飯塚によると歴史地理学講座担当)。その傍ら、『アナール』での執筆、書評に力を注ぎ、宗教改革ルネサンスを、精神生活・心性・芸術との関連において位置づける、心性史Histoire des mentalitésを提唱する。1941年に勃発した第二次世界大戦において、フェーヴルの研究活動は中断され、ナチス・ドイツへのレジスタンス運動に身を投じていたブロックは銃殺されてしまう(1944年)。

しかし、フェーヴルの情熱は衰えず、戦後も『アナール』に拠った活動を続け、フェルナン・ブローデルなどの歴史家へ活動の場所を提供し、活発に議論を交わした。晩年は高等研究実習院[4]の第六部門(経済および社会)[5]の創設に携わり、歴史学および周辺領域の学問の研究促進に寄与した。

1956年9月27日、フェーヴルはブルゴーニュ地方のサンタムールにて、2つの大戦を生き抜き、歴史学に改革を起こした78年の生涯を閉じる。

フェーヴルの歴史学の特色[編集]

  • 文献史料主義への批判
    ランケにより確立された、政治史・外交史を文献に基づき厳密に再現する歴史学(「歴史は文献で作られる」)を無味蒙昧な方法(「生命を欠いたオウム返しの歴史」)と批判。統計学、地理学、経済学等を取り入れた社会学的手法を取り入れ、文献史料の意義を問い直し、「生きた歴史学」を主張した。また、古文書等の文献史料のみならず、絵画戯曲考古学的史料なども、広義において史料と位置づけられることを強調した。
  • 学際性の提唱
    農業史技術史出版史などのテーマ史において、周辺領域の学問との連携が必要であると主張した。経済史においては政治史のみならず、貨幣価値の変遷を重視し、統計学的手法を取り入れた。上記のように絵画・文学を史料として用いる場合は芸術学心理学・文学の手法を用いるなど、テーマに応じ他の学問の手法を柔軟に援用し、対象となる時代の「心性」を包括的に位置づけるよう主張した。
  • テーマ史・問題史の提唱
    自己の問題意識から出発し、様々な史料から得られた仮説を組み立てつつ、対象のテーマを掘り下げて再構成する、テーマ史または問題史を提唱した。この姿勢は19世紀のランケが、ドイツ統一のナショナリズムの気運の影響下で政治史・外交史・戦争史的側面の強い研究を行っていたのと対照的である。フェーヴルは、2つの大戦を経て、人間の心性の進化や歴史でのその描かれ方に強い疑念を抱いていた。そのため、歴史を「人間を対象とする学問」と定義づけ、歴史家の役割を問題提起を行うことであると規定した。

主著 (日本語訳書)[編集]

参考文献[編集]

  • 『“ヨーロッパ”とは何か?』長谷川輝夫訳、刀水書房

影響を受けた日本の歴史学者[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 斎藤ほか 編(1990):7ページ
  2. ^ 杉浦ほか(2005):37 - 38ページ
  3. ^ クラヴァル(1975):76ページ
  4. ^ パリ大学の大学院部門に相当する
  5. ^ 部門創設は1947年。後に1975年に独立して社会科学高等研究院となる。
  6. ^ 上巻のみ訳書。田辺訳が文庫下巻で出版されるまで未訳だった。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]