リットン伯爵

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カウンティ・オブ・ダービーにおけるリットン伯爵: Earl of Lytton, in the County of Derby)は、イギリス伯爵位。連合王国貴族1880年に、インドの総督を務めた政治家・外交官の第2代リットン男爵ロバート・ブルワー=リットンが叙位されたことに始まる。

初代伯は父親からカウンティ・オブ・ハートフォードにおけるネブワースリットン男爵Baron Lytton, of Knebworth in the County of Hertford)の爵位を相続しており、また伯爵叙位の際にカウンティ・オブ・ハートフォードにおけるネブワース子爵Viscount Knebworth, of Knebworth in the County of Hertford)にも叙されたため、リットン伯爵にはこの二つの連合王国貴族の爵位が付属する。伯位の法定推定相続人は、儀礼称号としてネブワース子爵と称する。

歴史[編集]

代表作に『ポンペイ最後の日』(The Last Days of Pompeii)がある小説家にして、第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー第2次内閣植民地大臣Secretary of State for the Colonies)を務めた政治家でもあったエドワード・ブルワー=リットンは、1838年準男爵の称号を与えられ、1866年にリットン男爵に叙された。なお彼の出生時の姓は「ブルワー」であったが、1844年2月20日に勅許を得て「ブルワー=リットン」へ改めている。

後にリットン伯爵に叙された第2代リットン男爵ロバート・ブルワー=リットンは、この初代男爵の長男であった。彼は外交官および詩人であり、襲爵後の1876年4月12日インドの総督副王)に任命された。副王在職中にイギリス領インド帝国では大飢饉Great Famine of 1876–78)が発生したが、これが天災か人災かは論争の対象となっている。またバーラクザイ朝アフガニスタンへ送った使節が拒絶されたことがきっかけで第2次アフガン戦争が勃発した。イギリス側は当初の目論見に反して苦戦し、首相ベンジャミン・ディズレーリは総選挙に敗れて退陣、第2代リットン男爵も副王を辞職した。帰国後の1880年にリットン伯爵に叙され、その後在フランスイギリス大使となり、赴任先のパリで死去した。

2代伯となったヴィクターは、初代伯の長男である。彼も政治家で、1920年からインド担当省政務次官Parliamentary Under-Secretary of State for India)を、1922年からベンガル州知事(Governor of Bengal)を務め、1925年には短期間ながらインド副王となった。日本においては1930年代初めにリットン調査団の団長として満州事変の調査を行なったことで知られる。

2代伯の男子はともに早世したため、伯位は弟のネヴィルが相続した(一方それまで伯爵家が邸宅としていたネブワース・ハウスKnebworth House)は娘が相続し、コボルド男爵Baron Cobbold)に渡った)。ネヴィルは画家であり、イギリスやフランスで肖像画や風景画を発表した。また1908年ロンドンオリンピックジュ・ド・ポーム競技に参加、銅メダルを獲得した。

4代伯となったノエルNoel Lytton)は、3代伯の息子である。彼は父親からリットン伯爵位を、母親の第16代ウェントワース女男爵ジュディス・ブラントJudith Blunt, 16th Baroness Wentworth)からウェントワース男爵位をそれぞれ相続した。彼は姓を「リットン=ミルバンク」に改めたが、後に「ミルバンク」を取り除いている。

2009年現在のリットン伯爵は4代伯の息子であるジョンJohn Lytton)で、1985年に襲爵した。

リットン男爵 (1866年)[編集]

リットン伯爵 (1880年)[編集]

外部リンク[編集]