リチャード・イーウェル

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リチャード・ストッダート・イーウェル
Richard Stoddert Ewell
Richard S Ewell.png
渾名 年寄りの禿頭
生誕 1817年2月8日
ワシントンD.C. ジョージタウン
死没 1872年1月25日(54歳没)
テネシー州スプリングヒル
軍歴 1840年-1861年 (USA)
1861年-1865年 (CSA)
最終階級 中将
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リチャード・ストッダート・イーウェル: Richard Stoddert Ewell1817年2月8日-1872年1月25日)は、アメリカ陸軍の職業軍人であり、南北戦争のときは南軍の将軍だった。ストーンウォール・ジャクソンロバート・E・リーの下で上級指揮官として名声を得、戦争の大半で実効を挙げたが、ゲティスバーグの戦いスポットシルバニア・コートハウスの戦いでの行動が論議を呼び、その功績が曇らされた。

生い立ちと初期の経歴[編集]

イーウェルはワシントンD.C.ジョージタウンで生まれた。3歳の時からバージニア州プリンスウィリアム郡にある「ストーニー・ロンサム」と呼ばれるマナサス近くの農園で育てられた[1]。父トマス・イーウェル博士と母エリザベス・ストッダート・イーウェルの三男であり、祖父は初代海軍長官ベンジャミン・ストッダート、兄は南軍の士官ベンジャミン・ストッダート・イーウェルだった[2]。 イーウェルは1840年陸軍士官学校を、同期42名中13番目の成績で卒業した。友人達には、「年寄りの禿頭」、あるいは「ボールディ」(禿頭)と呼ばれた。アメリカ第1竜騎兵連隊の少尉に任官され、1845年に中尉に昇進した。1843年から1845年、フィリップ・セントジョージ・クックおよびスティーブン・ワッツ・カーニーと共にサンタフェ・トレイルオレゴン・トレイルの護衛任務に就いた[3]米墨戦争では、ウィンフィールド・スコット将軍の下で認められ、コントレラスの戦いチュルブスコの戦いでの勇敢さで大尉に昇進した。コントレラスでは、当時工兵大尉で後の指揮官となるロバート・E・リーとともに夜間の偵察を行ったことがあった。

イーウェルはしばらくの間ニューメキシコ準州で任務し、新しく獲得したガズデン購入地域をベンジャミン・ボンビル大佐と共に探検した。1859年にはコーチシュ率いるアパッチ族との小競り合いで負傷した[2]1860年アリゾナ州ブキャナン砦の指揮官をしているときに、健康を害して西部を離れ、療養のためにバージニアに戻った[3]。イーウェルはこの病気のことを、「眩暈、吐き気などがある重病、今は過度に衰弱しており、ときに悪寒に襲われる」と表現していた[4]。この病気と怪我は来るべき南北戦争の間も災いの種となった。

南北戦争[編集]

国全体が南北戦争に向かって動いている時、イーウェルは概して合衆国支持の感情を持っていたが[3]、出身州のバージニア州が脱退した後の1861年5月7日にアメリカ陸軍から除隊し、バージニア州軍に加入した。5月9日には騎兵隊の大佐に任命され、5月31日のフェアファックス・コートハウスの小競り合いでは、この戦争で負傷した最初の上級士官の一人となった。6月17日には南軍の准将に昇進し第一次ブルランの戦いでは1個旅団を指揮したが、ほとんど戦闘に参加することはなかった。

イーウェルはその外見にも拘らず、また外見の故ではなく部下達に印象を与えた。歴史家のラリー・タッグはイーウェルのことを次のように表現した[5]

身長5フィート8インチ (172 cm)でやや低く、一房の茶色の髪があるだけで禿げており、砲弾型の頭をしていた。高い鼻の上に突き出る明るく膨らんだ目は、ある者は鷹の目と言い、ある者はヤマシギの目とも言うように、多くの者が鳥に喩える効果を生み出しており、特に彼がよくしたように頭を片方の肩に傾けたとき、また甲高く、囀るような舌足らずで奇妙な話をするときに顕著だった。通常の会話の間に奇抜な注釈を入れる癖があり、例えば、「デイヴィス大統領が私を少将にしてくれると思うかい?」というふうだった。彼は華々しく、激しく冒涜的になりえた。大変神経質で落ち着きがなかったので、通常の姿勢では眠ることができず、宿営用腰掛の上で丸くなって夜を過ごした。自分では不思議な内臓の「病気」があると信じており、ほとんど毎日ミルクで煮た脱穀小麦に砂糖で味付けした粥で生存していた。「異常性の合成物」というのが、友人がイーウェルを要約した言葉だった。北バージニア軍の中でも変人で通り、まず彼の勇敢さや寛大な心を知った部隊兵はその故に彼を愛した。

Larry Tagg、The Generals of Gettysburg

ストーンウォール・ジャクソンと共に[編集]

1862年1月24日、イーウェルは少将に昇進し、バレー方面作戦ではストーンウォール・ジャクソンの下で仕え始めた。2人の将軍は協力してことを運び、2人共に非現実的な挙動で注目されたが、2人の間には多くの様式的な違いがあった。ジャクソンは厳格で敬虔なところがあったが、イーウェルは機知に富み、極端に冒涜的だった。戦場ではジャクソンは柔軟性があり、直感に従って動いたが、イーウェルは勇敢で実効を挙げたものの、効果を有効にさせるために正確な指示を求めた[6]。イーウェルは、ジャクソンがその作戦計画について部下に知らせない傾向があることに当初不満だったが、最終的にはジャクソンのやり方に合わせた。

バレー方面作戦の間ジャクソンの小さな軍隊で、イーウェルは見事にその1個師団を指揮し、北軍ジョン・C・フレモントナサニエル・バンクスおよびジェイムズ・シールズ各少将が指揮する大部隊に対して、個人的にもかなりの数の戦闘で勝利した。続いてジャクソン軍はリッチモンドに呼び戻されて、ジョージ・マクレラン少将のポトマック軍が遂行していた半島方面作戦に対してリッチモンド市を守るために、ロバート・E・リーの軍に加わった。ゲインズミルの戦いマルバーンヒルの戦いでは目だった戦い方をした。七日間の戦いでリー軍が北軍を追い払った後で、北軍ジョン・ポープ少将のバージニア軍が北からの攻撃をする怖れがあったので、ジャクソンはその妨害に派遣された。イーウェルは8月9日シーダー山の戦いで再びバンクス軍を破り、以前のマナサスの戦場に戻って、第二次ブルランの戦いにも良く戦ったが、グラブトンで負傷し、その左足は膝から下を切断された。

この傷から快復する間に、ナッシュビル地区で富裕な未亡人であった従姉妹のリジンカ・キャンベル・ブラウンから看護された。イーウェルは10代のころからリジンカに惹かれており、1861年やバレー方面作戦の間もそのロマンスを咲かせていたが、この時の密接な世話によって、1863年5月26日のリッチモンドにおける結婚に繋がった[7]

傷の治療に長く掛かった後で、イーウェルはリーの北バージニア軍に復帰し、チャンセラーズヴィルの戦いに加わった。ジャクソンが1863年5月3日に瀕死の重傷を負ったとき、ジャクソンはイーウェルがその軍団指揮を継ぐことを提案した。リーは一時的に騎兵隊指揮官のJ・E・B・スチュアートにその後任を託したが、5月23日、イーウェルは中将に昇進し、第2軍団指揮を任された(この時、やはりジャクソン軍の師団指揮官だったA・P・ヒル中将に新しい第3軍団を任せるためにジャクソン軍から一部引き抜いたので、軍団の大きさはやや小さくなった)。

ゲティスバーグおよび論争[編集]

ゲティスバーグ方面作戦が始まった日の第二次ウィンチェスターの戦いで、イーウェルは北軍の4,000名を捕虜にし、23門の大砲を捕獲するという華々しい功績を挙げた。この時使用済みの弾丸が胸に当たるということがあり、あわや重傷というところを免れた(これはイーウェルの軍歴では2回目のことであり、前回はゲインズミルの戦いでだった)[2]。イーウェルの軍団はペンシルベニア州侵攻で先頭を進み、州都のハリスバーグまで到着するばかりまで迫ったが、リーが戦力をゲティスバーグに集結させるために呼び戻された。これらの成功はジャクソンにも比定されるものだった。

しかし、ゲティスバーグの戦いで、イーウェルの軍人としての評判はそれから長く続く下降を始めた。1863年7月1日、イーウェルの軍団は北からゲティスバーグに接近し、北軍第11軍団と第1軍団の一部を撃破し、北軍は町を通って撤退し、町の南にあるセメタリーヒルで防御的な陣を布く事を余儀なくされた。リーは戦場に到着したばかりであり、その陣地の重要性を認めた。リーは「もし可能ならば」セメタリーヒルを獲れという自由裁量のある命令をイーウェルに送った。歴史家のジェイムズ・M・マクファーソンは「ジャクソンが生きておれば、疑いも無くそれが実行可能と分かっただろう。しかしイーウェルはジャクソンとは違った」と記した[8]。イーウェルは攻撃をしないことを選んだ。

イーウェルは攻撃しないことに幾つかの理由をつけた可能性がある。リーからの命令には本質的な矛盾があった。「実行可能だと判断すれば敵に占領されているあの丘を奪え。しかし、我が軍の他の師団が到着するまでは会戦を避けろ」とされていた[9]。リーはまた、イーウェルが求めたヒルの軍団からの支援を拒んでいた。イーウェルの兵士達は長い行軍と7月の午後の激しい戦闘で疲れており、戦闘隊形を組みなおすことが難しく、ゲティスバーグの通りを抜ける狭い通路を使った丘への攻撃も難しくしていた。エドワード・"アレゲニー"・ジョンソン少将のまだ疲れを知らない師団が到着したばかりだったが、北軍の大きな増援部隊が東からヨークパイクに到着し自軍の側面に対する脅威になっているという情報を受けてもいた[10]。イーウェルのいつもなら攻撃的な部下であるジュバル・アーリー少将もイーウェルの決断に同意した。

リーの命令はイーウェルに多くの自由裁量を与えたということで批判されてきた。マクファーソンのような歴史家達は、より攻撃的なストーンウォール・ジャクソンが生きてこのリー軍の一翼を指揮しておれば、この命令に対してどのように行動したかを考え、南軍がカルプスヒルあるいはセメタリーヒルを占領しておれば、2日目の戦いはどのように違ったものになったかを推測した。自由裁量のある命令というのは、リーの主要な部下であるジャクソンやジェイムズ・ロングストリートであれば、通常それに良く応え、その独創性を生かしてそのときの条件に反応し、望ましい結果を出したので、リーにとっては習慣的なものだった。このイーウェル隊が行動できなかったことは、それが正当化されるにしろされないにしろ、この戦闘における南軍にほとんど確実にその代償をもたらすことになった[6]。イーウェルの軍団が7月2日と3日に北軍の陣地を攻撃したとき、北軍は幾つかの丘を十分に占領し強固な防御を施す時間が有り、南軍の大きな損失に繋がった。戦後、「南部の失われた大義」を提唱する者達は、特に戦闘中にイーウェルの部下になっていたジュバル・アーリーだけでなく、アイザック・R・トリンブル少将も、戦闘に破れた責任をリーから逸らせるために、イーウェルを激しく非難した。彼等の論旨の一部は、北軍がその日早くの敗北によって完全に士気をうしなっていたということだったが、イーウェルの兵士も編成がうまく整っておらず、かれらが提案したような決断は、熱い戦闘の最中と戦場の霧の中でよりも、後知恵としてははるかに容易に作られる性質のものである[11]

7月3日、イーウェルは再度負傷したが、この時はその木製の足だけだった。イーウェルはその軍団を率いてバージニア州への秩序ある撤退を行った。彼の運は弱まり続け、11月にはバージニアのケリーズフォードで負傷した。1864年1月にも、馬が雪上で倒れて負傷した。

オーバーランド方面作戦とリッチモンド[編集]

イーウェルは1864年5月の荒野の戦いでその軍団を指揮し、その軍団を攻撃した北軍の軍団よりも勢力的に上回るという稀な機会を利用して功績を挙げた。スポットシルバニア・コートハウスの戦いでは、イーウェルの不決断、不行動の故に、リーが5月12日にミュールシューで自ら防御陣を率いなければならないと感じた。ある時点で、イーウェルはその逃亡した兵士達を理性を失くして叱り始め、その刀で兵士達の背中を叩いた。リーはその怒りまくる部下を抑え、鋭く「イーウェル将軍、自分を抑えなければだめだ。貴方が自制心を失っているときに、これらの兵士達を統率できると期待できるだろうか?貴方の興奮を抑えられなければ、辞めた方が良い」と言った。この時のイーウェルの行動は疑いも無く、リーによって戦後にその秘書官のウィリアム・アランに伝えられたことを元にしており、この日5月12日に、「イーウェルはその日の朝の不幸で完全に動顚しており、あまりに打ちのめされていたので、その有能さを失っていた」とリーは語っていた[12]

リーは、イーウェルの長引く傷がその問題の原因であると判断し、軍団指揮官から解任して、リッチモンド防衛軍の指揮官に転任させたが、これは北軍が南軍の首都に過大な圧力を掛けている状況を見れば、決して重要でない任務ではなかった。1865年セイラーズクリークの戦いでそのぼろぼろになった軍隊が包囲され捕獲されたときは、リッチモンドから撤退中だった。これはアポマトックス・コートハウスでリーが降伏する数日前だった。イーウェルは1865年7月までボストン港のウォーレン砦に戦争捕虜として囚われていた。

戦後[編集]

イーウェルは恩赦を受けた後、テネシー州スプリングヒル近くにある妻の農園で「紳士農園主」としての仕事に隠棲した。この農場経営を利益の出るものにさせ、またミシシッピ州で成功している綿花プランテーションも賃貸した。イーウェルはリジンカの子供や孫を溺愛した。コロンビア夫人アカデミー理事会の会長、コロンビアのセントピーターズ聖公会教会の陪餐会員、およびモーリー郡農業協会の会長を務めた[13]。イーウェルとその妻は2人とも3日の間に肺炎で死んだ[14]。2人はナッシュビルのオールドシティ墓地に埋葬されている。死後出版として、『軍人の養成』が1935年に出された。

脚注[編集]

  1. ^ Pfanz, p. 6.
  2. ^ a b c Eicher, p. 229.
  3. ^ a b c Fredriksen, p. 664.
  4. ^ Pfanz, p. 119.
  5. ^ Tagg, p. 251.
  6. ^ a b Fredriksen, p. 665.
  7. ^ Pfanz, p. 275.
  8. ^ McPherson, p. 654.
  9. ^ Sears, p. 227.
  10. ^ Sears, p. 228.
  11. ^ Coddington, pp. 318-19.
  12. ^ Pfanz, p. 389.
  13. ^ Pfanz, p. 489.
  14. ^ Pfanz, p. 494.

参考文献[編集]

  • Coddington, Edwin B., The Gettysburg Campaign; a study in command, Scribner's, 1968, ISBN 0-684-84569-5.
  • Eicher, John H., & Eicher, David J., Civil War High Commands, Stanford University Press, 2001, ISBN 0-8047-3641-3.
  • Frederiksen, John C., "Richard Stoddert Ewell", Encyclopedia of the American Civil War: A Political, Social, and Military History, Heidler, David S., and Heidler, Jeanne T., eds., W. W. Norton & Company, 2000, ISBN 0-393-04758-X.
  • Pfanz, Donald C., Richard S. Ewell: A Soldier's Life, University of North Carolina Press, 1998, ISBN 0-8078-2389-9.
  • Sears, Stephen W., Gettysburg, Houghton Mifflin, 2003, ISBN 0-395-86761-4.
  • Tagg, Larry, The Generals of Gettysburg, Savas Publishing, 1998, ISBN 1-882810-30-9.
  • Warner, Ezra J., Generals in Gray: Lives of the Confederate Commanders, Louisiana State University Press, 1959, ISBN 0-8071-0823-5.

外部リンク[編集]