リシュリュー (戦艦)

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竣工当時のリシュリュー。まだ前部測距儀が三段である。
艦歴
発注: ブレスト海軍造船所
起工: 1935年10月22日
進水: 1939年1月17日
就役: 1940年4月1日[1]
退役: 1967年
その後: スクラップとして廃棄
除籍: 1968年
性能諸元
排水量: 基準 35,000トン、
満載 47,548トン
全長: 247.90 m、
水線長:242.0 m
全幅: 33 m
吃水: 9.70 m
機関: インドル・スラ式重油専焼水管缶6基+
パーソンズ式ギヤード・タービン4基4軸推進
最大出力: 150,000hp 
最大速: 30ノット (56 km/h)
航続距離: 14ノット/8,500 海里(15,740 km)
兵員: 士官70名、兵員1,550名
兵装: 38cm(45口径)4連装砲塔2基、
15.2cm(52口径)3連装砲塔3基、
10cm(45口径)連装高角砲6基、
37mm(60口径)連装機関砲4基、
13.2mm連装機銃16基
艦載機: 飛行艇3機、カタパルト2基

リシュリュー(Richelieu)は、フランス海軍戦艦リシュリュー級の1番艦。艦名は17世紀の政治家であるリシュリュー枢機卿に因む。

設計[編集]

ダンケルク級に引き続いて本級4隻は、増大するイタリア海軍の脅威に対抗する目的で建造された。本級はその速度、装甲、兵装と、全面的に最先端技術が投じられ、同時代の40.6cm砲戦艦と比肩しうる実力があり、38cm砲を装備したリシュリュー級はフランス海軍史上最も強力な戦艦であった。主砲は四連装砲塔に収められ、艦前方に2基装備された点が特異であった。

ワシントン海軍軍縮条約の下では、四連装砲塔2基という配置は、同じ火力を持つ連装砲塔を4基配置するよりも重量軽減の点で長所となった。欠点としては、砲塔が1基破壊されると火力が半減してしまう点にあった。(実際には砲塔内に隔壁が存在するため砲塔に着弾しても残りの二門で戦闘が継続出来る。)一方で、敵に対して最小限の角度で主砲の一斉射撃が行えるという利点もあった。

艦歴[編集]

リシュリューは1935年10月22日にブレスト工廠で起工し[2]、1939年1月17日に進水した[1]。公試は1940年1月に始められた。ドイツ軍がフランスに侵攻すると、艤装途中のリシュリューもフランスからの脱出を命じられた。リシュリューはマルツィン艦長の指揮下、1940年6月19日にブレストからダカールへ向けてを出航した[3]。リシュシューはカサブランカ沖までは駆逐艦フーグー (Fougueux) にフロンデュール (Frondeur) に護衛され、そこからは駆逐艦フルーレによって護衛されて6月23日にダカールに到着した[3]。リシュリューは6月25日に一度カサブランカに向けて出港するが、6月28日にダカールに戻った。[4]

ダカールでの戦闘[編集]

ヴィシー政権が樹立され、フランス艦隊が枢軸側に編入されることを恐れたイギリス海軍は、1940年7月3日にアルジェリアメルセルケビールに停泊するフランス艦隊に攻撃を行った(メルセルケビール海戦)。そして7月7日にはダカールにもイギリス艦が現れて最後通牒を突きつけ、フランス側が応じないと攻撃を決定した。7月8日、リシュリューは航空母艦ハーミーズ (HMS Hermes, 95) から発艦したソードフィッシュ隊による雷撃を受け、発射された6本の魚雷の内1本が命中した[5]。それによって右舷のスクリューが破損、艦尾部の浸水によりリシュリューは着底した。しかしながら数日後に排水し浮揚され、応急修理が成された。この被害は、港湾部のような場所での魚雷炸裂のエネルギーは外洋では海底や四方に飛散して被害が接触箇所のみになるのとは異なり、港湾部特有の岸壁や水深の浅い海底部に衝撃波が乱反射して船体下部の広範囲に被害を与えるためにリシュリューの艦尾は被害を与えられた。なお、同様の現象は「タラント空襲」「真珠湾攻撃」でも起こっている。

同年9月24日のダカール沖海戦でリシュリューは連合国軍艦隊と交戦した。リシュリューは艦尾の損傷こそあれど、主砲8門は依然として健在でありバーラム (HMS Barham, 04) と砲戦を行った。この戦いによりバーラムはリシュリューの主砲弾1発を喫水線部に受け中破、更に副砲弾2発を受けた。一方リシュリューはバーラムの15.2cm砲2発の直撃を受けた。リシュリューはこの戦闘中に2番砲塔内部で装填中の38cm主砲弾が薬室内で爆発し、2番主砲塔の砲4門中2門が使用不能となった。これは誤った装薬量が使用されたためであった。戦闘はフランス駆逐艦ル・アルディ (Le Hardi) が煙幕を張ったため、主力艦を損傷したイギリス艦隊は喪失を恐れ一時後退した。

戦闘終了後、リシュリューは応急修理が行われ、作業は1941年4月24日に終了した。リシュリューは3基のタービンで14ノット(26 km/h)の速力で航行できるようになる。戦闘後も主砲は依然として6門が使用可能であったが、弾薬不足のため3門しか使用できなかった。

連合軍国で[編集]

ニューヨークに到着したリシュリュー

アフリカのフランス陸海軍は1942年11月に連合国軍に参加した。前述の戦闘で損傷したリシュリューはニューヨーク海軍工廠で完工工事及び改修を受けるため1943年1月30日にダカールを出航した。改修は1943年10月10日に完了した。改修内容は、当初装着されていたオチキス37mm機関砲および13.2mm機銃に替えて、アメリカ式の対空兵装の装備(40mmボフォース対空機関砲四連装14基、20mmエリコン機銃単装48基)が行われた。また、リシュリューの主砲弾を製造するため、特別の工場ラインが建造された。リシュリューは10月14日にメルセルケビールに向けて出航し、続いてスカパ・フローに向かい、11月20日に到着した。

インド洋で行動するリシュリュー。副砲用測距儀1基を撤去し、レーダーアンテナを装備している。

リシュリューは1943年11月から1944年3月イギリス本国艦隊に所属した。1944年2月10日から12日にはポストホーン作戦に参加した[6]。これは空母フューリアス搭載機によるノルウェー北部でのドイツ船舶攻撃であった[6]。2月後半にももう一度同様の作戦(ベイリーフ作戦)に参加したが、この時は駆逐艦の衝突事故のため延期となり、最終的に作戦は中止となった[7][8]

1944年3月、リシュリューはイギリス海軍東洋艦隊に配属された。リシュリューはスエズ運河経由でインド洋へ向かい、4月10日にトリンコマリーに到着した[9]。リシュリューは4月はコックピット作戦サバン空襲)、5月はトランサム作戦スラバヤ空襲)、6月はペダル作戦ポートブレア空襲)に参加した[10]。7月、リシュリューはクリムズン作戦に参加し25日に他の戦艦などと共にサバン砲撃を行った[11]

9月、リシュリューは整備のためインド洋を離れた[12]。リシュリューは10月10日にカサブランカへ到着し、整備などを受けた後リシュリューは1945年3月20日にトリンコマリーに戻った[13]。インド洋に戻ったリシュリューは4月から5月にかけてサンフィッシュ作戦ビショップ作戦に参加した。サンフィッシュ作戦では4月11日にサバンを砲撃し[14]、ビショップ作戦では4月29日から5月2日にかけてカーニコバル島やポートブレアを砲撃した[15]。続いて日本海軍の重巡洋艦羽黒の迎撃作戦(デュークダム作戦)に参加したが、リシュリューは羽黒撃沈には関与しなかった[16]。羽黒は5月16日のペナン沖海戦で駆逐艦部隊によって撃沈された。

リシュリューは7月18日から8月10日までダーバンに滞在し、その間にドック入りして修理を受けた[17]。そして、リシュリューは日本の降伏後にトリンコマリーに帰還した[17]。9月にリシュリューはイギリス軍のマレー半島再占領を支援した。この任務期間中の9月9日にリシュリューは磁気機雷に接触し損傷したが軽微であった[17]

その後リシュリューは東京湾に入港し、日本の降伏調印式に臨席した[要検証 ]

戦後[編集]

1945年9月後半、リシュリューは第一次インドシナ戦争においてフランス領インドシナへの兵員輸送船を護衛し、沿岸目標への砲撃を行った。12月29日にリシュリューはフランスへ向けて出航し、1946年2月11日にトゥーロンに到着した。

1946年にはイギリスとポルトガルへの訪問を行い、1947年4月および6月には大統領アフリカ植民地訪問に使用された。その後1948年10月16日まで本国に留まり、予備役艦として修理および砲術訓練が行われた。

1956年5月25日からリシュリューはブレストにおいて設備船として使用され、1958年に予備役となる。リシュリューは1968年1月16日に Q432 と改名された。その後1968年9月にジェノヴァCantieri Navali Santa Maria によって解体された。現在、ブレスト港にはリシュリューの主砲1門が展示されている。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b French Battleships 1922-1956, p.123
  2. ^ French Battleships 1922-1956, p.122
  3. ^ a b French Battleships 1922-1956, p.125
  4. ^ French Battleships 1922-1956, pp.125-126
  5. ^ French Battleships 1922-1956, p.127
  6. ^ a b French Battleships 1922-1956, p.190
  7. ^ French Battleships 1922-1956, p.191
  8. ^ Jurgen Rohwer, Chronology of the War at Sea 1939-1945, Naval institute press, 2005, ISBN 1-59114-119-2, p.307
  9. ^ French Battleships 1922-1956, p.192
  10. ^ French Battleships 1922-1956, pp.192-194
  11. ^ French Battleships 1922-1956, p.194
  12. ^ French Battleships 1922-1956, p.195
  13. ^ French Battleships 1922-1956, pp.195-196
  14. ^ French Battleships 1922-1956, p.197
  15. ^ French Battleships 1922-1956, p.198
  16. ^ French Battleships 1922-1956, p.199
  17. ^ a b c French Battleships 1922-1956, p.200

参考文献[編集]

  • 「世界の艦船増刊第22集 近代戦艦史」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第38集 フランス戦艦史」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第38集 第2次大戦時のイギリス戦艦」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第22集 近代戦艦史 2008年10月号(海人社)
  • 「世界の艦船 列強最後の戦艦を比較する 2006年2月号」(海人社)
  • John Jordan, Pobert Dumas, French Battleships 1922-1956, Seaforth Publishing, 2009, ISBN 978-1-84832-034-5

外部リンク[編集]