ハワード・フィリップス・ラヴクラフト
| H・P・ラヴクラフト H. P. Lovecraft |
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ラヴクラフトの肖像画とその被造物達
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| ペンネーム | HPL |
| 誕生 | ハワード・フィリップス・ラヴクラフト Howard Phillips Lovecraft 1890年8月20日 ロードアイランド州プロビデンス |
| 死没 | 1937年3月15日(満46歳没) ロードアイランド州プロビデンス |
| 職業 | 小説家、SF作家、短編作家、詩人 |
| 国籍 | |
| 活動期間 | 1920年前後 - 1937年 |
| ジャンル | SF、ホラー、ファンタジー、コズミック・ホラー、ウィアード・フィクション |
| 文学活動 | コズミシズム |
| 代表作 | 「インスマウスの影」 「クトゥルフの呼び声」など |
| 処女作 | 『デイゴン』(1919年) |
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影響を受けたもの
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影響を与えたもの
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ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(英: Howard Phillips Lovecraft、1890年8月20日 - 1937年3月15日)は、アメリカ合衆国の小説家、詩人。
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[編集] 概要
「宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)」などと呼ばれるSF的なホラー小説で有名である。「H・P・ラブクラフト」と表記されることも多い。また文通仲間の間では「HPL」と呼ばれていた。ラヴクラフトの死後、彼の小説世界は、年少の友人の作家オーガスト・ダーレスによりダーレス独自の善悪二元論的解釈とともに体系化され、クトゥルフ神話として発表された。そのため、ラヴクラフトはクトゥルフ神話の創始者とも言われる。ただし、ラヴクラフトの宇宙的恐怖を主体とする小説世界を原神話やラヴクラフト神話と呼び、クトゥルフ神話と区別することもある。
生前はパルプ作家としてそれなりの人気はあったものの、文学的に高い評価は受けておらず、出版された作品も極めて少なかった。しかし死後、ダーレスの創立した出版社「アーカム・ハウス」(Arkham House)から彼の作品群が出版されたことをきっかけに再評価される。エドガー・アラン・ポーと並んで現在も世界中の怪奇幻想小説界に多大な影響を与え続ける存在であり、スティーヴン・キングや菊地秀行など人気作家にも愛読者は多く、アメリカ怪奇・幻想文学の巨匠の一人として数えられる。
[編集] 経歴
ロードアイランド州プロビデンス生まれ。早熟で本好きな少年だったラヴクラフトはゴシック・ロマンスを好んでいた祖父のフィップル・フィリップスの影響を受け、物語や古い書物に幼い頃から触れていた。6歳頃から自分で物語を書くようになり、16歳の時には新聞に記事を投稿するようになり、主に天文学の記事を書いていた。しかし病弱で神経症を患っていたため学校に行けないことが多く、ついには希望していたブラウン大学への進学を断念し、18歳の時には小説の執筆をやめてしまった。この頃のラヴクラフトの生活は隠者のような暮らしぶりだったという。体調がよくなってきたのは30歳頃である。1914年4月にアマチュア文芸家の交流組織に参加し、文芸家との交流を再開した。その3年後、再び小説の執筆を開始し、同人誌に作品を載せるようになった。また1915年には文章添削の仕事を始めていたが、ラヴクラフトが大幅に手を加えた結果、元の原稿とはかなり違う作品になったこともままあった。これは彼の主要な収入源となっていたが、この頃は無料奉仕が多かった。ヘイゼル・ヒールドやゼリア・ビショップ(Zealia Bishop)など、ラヴクラフトの添削によってクトゥルフ神話作品を執筆することになった作家が少なからずいる。前述のダーレスの他、ロバート・ブロック、クラーク・アシュトン・スミス、ロバート・E・ハワードらとは膨大な量の書簡を交換している。長年高い評価を得られず、生活は貧しいものだった。旅行が好きで経済的に余裕があって健康だった時にはケベックやニューオーリンズまで長距離バスを利用して旅行したこともあったが、その目的も古い時代の細かい事情を調査するためだったという[1]。貧困のお陰で長い間希望していた古い家に住むという願いがかなったのも事実である。1922年になってようやく自身の作品が売れるようになったが、文才に自信が無かったため文章添削の仕事を続け腕を磨き続けた。45歳を過ぎてギリシア語をマスターしたが、1936年にロバート・ハワードが自殺したことに衝撃を受け、また同年腸癌との診断を受け、その後の栄養失調も重なり、翌年1937年に病死した。生前に出版された単行本は1936年にウィリアム・L・クロフォードが出版した、短編『インスマウスの影』の一作だけであった。 彼の没後1939年、手紙友達で同業作家であるオーガスト・ダーレス、ドナルド・ウォンドレイが発起人となり、彼の作品を出版するという目的でアーカム・ハウス出版社が設立された。
[編集] 人物と創作の背景
食べ物の好みに関しては海産物が特に嫌いなようで、その嫌悪感は説明の出来ないほど激しいものであった。このことが彼の作品に登場する邪神たちの造形に強く影響を及ぼしたことは想像に難くない。好きなものはチーズ、チョコレート、アイスクリーム。これはラヴクラフトの母が彼の好むものだけを与えたことによるものである。煙草は吸わず、アルコール飲料も飲まなかったという。作品はホラーや幻想的作品を主としていたが、迷信や神話の類は一切信用せず無神論者を自認していた。エドガー・アラン・ポー、ダンセイニ卿、ウォルター・デ・ラ・メア、バルザック、フローベール、モーパッサン、ゾラ、プルーストといった作家が気に入っており、小説におけるリアリズムを好んでいた。一方でヴィクトリア時代の文学は嫌いであった。幼い頃にヴァイオリンを無理矢理習わせられていたために音楽に関する好みは貧弱であった。絵画に関しては風景画を好んでおり、叔母の書いた風景画を階段の壁にかけていた。それらは修復したものもあるようだが、大半は物置にしまわれていて傷んでしまっていた。ちなみにラブクラフト自身は絵を描けなかった。建築に関しては機能的な現代的建築を嫌っており、ゴシック建築が好きだったと言われている。あらゆる種類のゲームやスポーツに関心がなく、古い家を眺めたり夏の日に古風で風景画のように美しい土地を歩き回る事が好きだった。
彼の生きた時代は西洋白人文明の優越性が自明のものとされ、それを人種論や優生学から肯定する学説が受け入れられており、彼の発言や作品の中にも現代視点で見れば人種差別的な考えがしばしば指摘される。ただし、ラヴクラフトはそれぞれの民族は性向や習癖が異なっていると述べ、ヒトラーの人種的優越感による政策やユダヤ人弾圧を批判しており、ムッソリーニには敬服しているがヒトラーは劣悪なコピーだと批判している。(しかしながら、ヒトラーの「我が闘争」を読んだ当初はひどく感銘し、友人に対しこの本は最高の書であると絶賛している。[2])さらに自身の土壌であるアングロサクソン文明よりも中華文明がより優れていると考えており、書簡の中で日本の俳句を評価している。しかし多くの人種の平等を唱えながらネグロイドとオーストラロイドだけは生物学的に劣っているとして、この二者に対して明確な線引きが必要だと主張している[3]。晩年はさらに社会主義的傾向を強め、ソビエト連邦を礼賛している。
初期の作品はアイルランド出身の幻想作家ダンセイニ卿やエドガー・アラン・ポーの作品に大きく影響を受けているが、後期は、宇宙的恐怖を主体としたより暗い階調の作品になっていく。作品は彼自身の見た悪夢に直接の影響を受けており、中には『ナイアルラトホテップ』など、夢にほとんど忠実に書かれた作品もある。このことが潜在意識にある恐怖を描き出し、多くの人を惹きつけている。現在も世界中で彼の創造した邪神や宇宙的恐怖をモチーフにした小説、ゲーム、映画等がつくられ続けている。
ラヴクラフトが没した際、生地プロビデンスのスワンポイント墓地にあるフィリップス一族の墓碑にラヴクラフトの名前が記載されたものの、彼自身の墓碑は作られなかったため、1977年にこれを不満とするファンが資金を集めてラヴクラフトの墓石を購入した。墓碑には生没年月日と彼の書簡から引用した一文「われはプロビデンスなり("I am Providence"、神意(Providence)と終生愛したプロビデンスをかけた洒落)」が刻印されている。また、しばしばラヴクラフトの墓を訪れたファンが『クトゥルフの呼び声』(初出は『無名都市』)から引用された以下の四行連句を墓碑に書き込んで行く。
"That is not dead which can eternal lie,
- And with strange aeons even death may die."
『其は永久に横たわる死者にあらねど、
- 測り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの』 (大瀧啓裕訳)
- ただし、この詩の一行目にある"which can eternal lie"はThatを先行詞にしている関係代名詞節であり、"lie"と"die"の脚韻を踏むために後置されているだけである。that which = whatであるから、「永遠に横たわること能うものは死するに非ず、」が文法的に正確な訳である。従って二行目も「そして奇怪なる永劫のうちには死すらも死なん」などとなる。
[編集] 略歴
| 文学 |
|---|
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| ポータル |
| 各国の文学 記事総覧 出版社・文芸雑誌 文学賞 |
| 作家 |
| 詩人・小説家 その他作家 |
- 1890年8月20日、誕生。父はウィンフィールド・スコット。母はプロビデンスの旧家出身のサラ・スーザン(旧姓フィリップス)。
- グリム童話やジュール・ヴェルヌ、アラビアン・ナイトやギリシャ神話を愛読し、夜ごと悪夢に悩まされる子供であった。
- 1898年7月19日、父、不全麻痺により死去。このころエドガー・アラン・ポーの作品と出会う。
- 1906年、『サイエンティフィック・アメリカン』誌などに天文学関係の投書やコラムを寄稿するようになる。
- 1908年、神経症のためハイスクールを退学。
- 1915年、文章添削の仕事を始める。
- 1916年、文通グループ『Kleocomolo』を結成。
- 1917年、徴兵検査で不合格となる。これは彼に生涯付きまとうコンプレックスの一因になった。
- 1918年、『Kleocomolo』を解散し、新たな文通グループ「Gallomo」を結成。
- 1919年、母が神経障害で入院。
- 1921年5月22日、母、死去。
- 1923年、創刊されたばかりの怪奇小説専門のパルプ雑誌『ウィアード・テールズ』10月号に短編『デイゴン』が採用される。
- 1924年3月3日、文通で知り合った実業家ソニア・ハフト・グリーンと結婚し、ニューヨークのブルックリン地区に移住。しかし翌年別居。
- 1929年、ソニアと離婚し、プロビデンスに帰還。
- 1937年3月15日、腸癌のため死去。46歳没。
[編集] 代表作
詳細は「ラヴクラフト作品一覧」を参照
- 一連のクトゥルフ神話作品
- 『エーリッヒ・ツァンの音楽』
- 『クトゥルフの呼び声』
- 『宇宙からの色』
- 『インスマウスの影』
- 『ダンウィッチの怪』
- 『狂気の山脈にて』
- 『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』
- 他、多数
- 『アウトサイダー』
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- ^ ラヴクラフト全集1の訳者あとがき(オーガスト・ダーレスの文章の要約)
- ^ 定本ラヴクラフト全集
- ^ 『履歴書』(1934年2月13日付F・リー・ボールドウィン宛書簡の一部)『ラヴクラフト全集 3』- H・P・ラヴクラフト、大瀧啓裕訳、東京創元社〈創元推理文庫〉、ISBN 448852303X。
