ランボルギーニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アウトモービリ・ランボルギーニ
Automobili Lamborghini S.p.A.
種類 株式会社
本社所在地 イタリアの旗 イタリア
サンターガタ・ボロニェーゼ
設立 1963年5月7日 (60年前) (1963-05-07)
業種 自動車の製造.農業機械の製造
事業内容 自動車の製造,販売
代表者 ステファン・ヴィンケルマンCEO
売上高 1790億円(2018年)
主要株主 ドイツの旗 アウディ
主要子会社 ドゥカティ
イタルデザイン・ジウジアーロ
関係する人物 フェルッチオ・ランボルギーニ(創業者)
外部リンク www.lamborghini.com/jp-en ウィキデータを編集
テンプレートを表示

アウトモービリ・ランボルギーニ(Automobili Lamborghini S.p.A. イタリア語発音: [autoˈmɔːbili lamborˈɡiːni])は、イタリアの高級スポーツカーおよびSUVブランド、製造会社である。サンタアガタ・ボロニェーゼに本社を置く。フォルクスワーゲン・グループが子会社のアウディを通じて所有している。

歴史[編集]

ランボルギーニのトラクター、プレミアム1050
フェルッチオ・ランボルギーニハラマ(1970年)

創業者であるフェルッチオ・ランボルギーニは、第二次世界大戦後、イタリアにトラックが不足していることに目を付け[1]、軍が放出するトラックを民生向けに改造し販売することで富を得た。大戦中、ロドス島にて兵器メンテナンスに当たっていた彼の経験が活かされる形となった。1947年、当時から自動車好きであった彼は、これを元手に小さなチューニングショップを開いた。

1948年、彼は友人と共にミッレミリアに参戦した。車両はフィアット・トポリーノで、自作のOHVヘッドが載せられていた。しかし途中で友人が運転を誤り、レストランに突っ込んでしまう。この際、彼は友人と共に車外に投げ出され、大ケガを負った。後に彼がレース界から距離を置くようになったのは、この経験が一因であるとされている。

その後、彼はトラックに続いてトラクターの自社開発に取り組み、1949年ランボルギーニ・トラットリーチ SpAを設立した。当初はただ同然で手に入れた軍放出車両のモーリスエンジンを用いた一般的なものであったが、後に自ら開発した排気熱で軽油を気化するイン・パボリザトーレというシステムを使って高性能なトラクターを作った。これは当時高価であったガソリンをエンジンの始動と暖気に使うだけで済み、後は安価な軽油で充分に動かせたため、大ヒットに繋がった。また1960年にはランボルギーニ・ブルチアトーリ SpAを設立し、ボイラーエアコンの製造販売を手掛け、これも成功を収めた。

巨万の財を築いた彼はエキゾチックカー収集するようになる。しかし、どの車も暑すぎたり、スピードが十分でなかったり、狭すぎたりしたため、フェルッチオを満足させるものではなかった。のちにエキゾチックカーの生産に乗り出したフェルッチオは、「助手席に座るレディのメイクアップが(汗で)落ちないような快適な車を作りたい」と語ったという。やがて彼は富の象徴、フェラーリのオーナーとなるが、当時のフェラーリにはクラッチに決定的欠陥があった。所有するフェラーリの度重なるクラッチ故障に頭を痛めた彼は、自社のトラクター工場でフェラーリを修理することを思いつく。いざクラッチを分解してみると、使われていたのはなんと自社のトラクター用パーツと同型のボーグ&ベック製のクラッチ板であり、しかも全く同一のパーツにフェラーリはトラクター用の十倍の値段を付けていた。フェラーリは当時すぐに壊れたので、自分でフェラーリに負けないようなスーパーカーを作りたいと考えた。

元々、優秀なメカニックでもあった彼は、クラッチ修理と同時にフェラーリに装着されていたウェーバー製のダウンドラフト型キャブレターをサイドドラフト型の物に改め、シリンダーヘッドをオリジナルのSOHCから当時は市販のフェラーリに採用されていなかったDOHCに改造した。完成した車は公道でのテスト走行中の新型フェラーリを「カモ」にできるほど速かったという。

既存のエキゾチックカーに少なからず不満を抱いていた彼は、これがきっかけで自動車ビジネスに乗り出す決意をしたといわれる。前述のフェラーリのパーツに見られるような高額な価格設定に触れ、「この商売は儲かる」と踏んでもいた。フェルッチオはこのとき、有望なビジネスモデルとして高級車業界を見ており、スポーツカーへの愛情とその財力を背景にアウトモービリの創設を決意した。

Lamborghini 350 GTV
Lamborghini 350 GTV リア

この1963年トリノショーに出品された350GTVは非常に目を引く独創性にあふれたフランコ・スカリオーネのデザインによるボディラインを持ち、性能面や上質なインテリア等で一定の評価を得たが、居住性やGTとしての使い勝手で酷評を受ける。 この評を受けてすぐにフェルッチオは根本的な改修を指示、翌年カロッツェリア・トゥーリングにより手直しを受けたボディを纏った市販車としての第一号350GTをロールアウト。ここに市販車メーカーとしてのアウトモービリ・ランボルギーニの歴史は幕を上げた。

ランボルギーニ・350GT

当初こそ、伝統のあるマセラティやフェラーリを引き合いに出されてはトラクターメーカーとしての出自を揶揄されたが、翌年に後継の400GTがロールアウトされる頃になると独創的なスタイルと快適性の高次での両立がエグゼクティブの間で話題となり、350GTは130台以上、400GTでは250台以上、当時の超高級GTとしては非常に良好なセールスを記録している。この後1966年のランボルギーニ・ミウラ、1971年のランボルギーニ・カウンタック(クンタッシ)と有名な車を次々と送り出し、世界的スーパースポーツのブランドとなった。

ミウラ

トラクターの他にヘリコプターも作ったが、認可が下りず、結果的に、プロトタイプの2台しか現存していない。

ロゴ

イタリア・モデナにあるトニーノ・ランボルギーニ・ムゼオにフェルッチオが関わったランボルギーニ製品が展示されている。

年表[編集]

車種一覧[編集]

エンブレムの闘牛にちなんで、闘牛に関連した車名が多い。

ウラッコ
カウンタック LP500S
ディアブロ(前期型)
ガヤルド(前期型)

現行車種(発売順)[編集]

外観 車名 排気量 エンジン 駆動方式 座席数 備考
ウラカン 5.2L V型10気筒DOHC RWD4WD 2
ウルス 4.0L V型8気筒ツインターボ 4WD 4・5
レヴエルト 6.5L V型12気筒ハイブリッド 4WD 2

現行車種ベースの限定モデル[編集]

ムルシエラゴ LP640

過去の主な車種[編集]

ウルス(前期型)
アヴェンタドールS

コンセプトカー[編集]

コンセプトバイク[編集]

  • デザイン90

歴代の主な車種のスペック[編集]

性能
モデル名 全長 全幅 全高 ホイールベース トレッド W/T比 重量 気筒数、配置 排気量 最高出力 最大トルク 乗車定員 生産台数
350GT 4,500 mm 1,630 mm 1,220 mm 2,500 mm (前)mm/(後)mm 1,450 kg FR縦置きV12 3,497 cc 270 馬力/,00 rpm 0 kgm/,000 rpm 2+1名 131台説他
ミウラSV 4,360 mm 1,780 mm 1,050 mm 2,504 mm (前)1412mm/(後)1514mm 1.71 1,245 kg MR横置きV12 3,900 cc 385 馬力/7,850 rpm 40.7 kgm/5,750 rpm 2名
カウンタックLP400 4,140 mm 1,890 mm 1,070 mm 2,450 mm (前)1500mm/(後)1520mm 1.62 1,065 kg MR縦置きV12 3,929 cc 375 馬力/8,000 rpm 36.8 kgm/5,500 rpm 2名 150台
シルエット 4,320 mm 1,880 mm 1,120 mm 2,450 mm (前)1448mm/(後)1467mm 1.68 1,240 kg MR横置きV8 2,996 cc 269 馬力/,000 rpm . kgm/,500 rpm 2名
カウンタックアニバーサリー 4,200 mm 2,000 mm 1,070 mm 2,500 mm (前)1536mm/(後)1606mm 1.59 1,680 kg MR縦置きV12 5,167 cc 455 馬力/7,000 rpm 51.0 kgm/5,200 rpm 2名 657台
ディアブロVT 4,460 mm 2,040 mm 1,105 mm 2,650 mm (前)1540mm/(後)1640mm 1.67 1,625 kg MR縦置きV12 5,707 cc 492 馬力/7,000 rpm .0 kgm/,00 rpm 2名
ムルシエラゴ6.2 4,580 mm 2,045 mm 1,135 mm 2,665 mm (前)1640mm/(後)1700mm 1.60 1,650 kg MR縦置きV12 6,200 cc 588 馬力/7,500 rpm .0 kgm/,00 rpm 2名
ガヤルド 4,300 mm 1,900 mm 1,165 mm 2,560 mm (前)1622mm/(後)1592mm 1.59 1,430 kg MR縦置きV10 5,000 cc 500 馬力/7,500 rpm .0 kgm/4,500 rpm 2名
アヴェンタドールLP700-4 4,780 mm 2,030 mm 1,136 mm 2,700 mm (前)1720mm/(後)1700mm 1.58 1,575 kg MR縦置きV12 6,500 cc 700 馬力/8,250 rpm 70.3 kgm/5,500 rpm 2名
ウラカンLP610-4 4,459 mm 1,924 mm 1,165 mm 2,620 mm (前)1670mm/(後)1620mm 1.59 1,422 kg MR縦置きV10 5,200 cc 610 馬力/8,250 rpm 57.1 kgm/6,500 rpm 2名
カウンタックLPI800-4 4,870 mm 2,099 mm 1,139 mm 2,700 mm (前)1784mm/(後)1709mm 1.55 1,595 kg MR縦置きV12 6,498 cc 814 馬力/8,500 rpm 73.4 kgm/6,750 rpm 2名 112台
チーター 6,700

mm

2500

mm

1,960

mm

4,250 mm (前)2000mm/(後)195mm 1.67 1,200

tn

MR縦置き

W16

7000

cc

1600 馬力/8000

rpm

73.4 kgm/6,750 rpm

販売[編集]

2006年の総納車台数は2,087台、2007年では2,580台、2015年の年間世界販売台数が3,245台だった。

日本での販売

1999年のアウディグループ入りに伴い、2001年、アウディ・ジャパンの事業部として「ランボルギーニ・ジャパン」(Automobili Lamborghini Japan東京都世田谷区)が設立された。実質的な輸入業務はアウディ・ジャパンの親会社である「フォルクスワーゲングループジャパン」(VGJ)が行い、VGJの埠頭(愛知県豊橋市)から陸揚げされ、VGJの整備工場で整備、出荷されている。

アウディグループ入り以前の日本でのビジネスはを中心にした小規模ディーラーが中心になっていたが、ランボルギーニ・ジャパンの設立以降は本格的に正規ディーラー網を全国的に整備し、サービス品質の向上や全世界統一CIの導入などにより日本でのブランド再構築を進めた。結果、それまで2ケタ台だった販売台数が右肩上がりで3ケタ台での上昇を続け、2020年には631台(統計資料、JAIA日本自動車輸入組合)を記録した。2019年からはメーカー認定中古車制度を発足。2020年には六本木にショールーム「ランボルギーニ ザ・ラウンジ東京」を開店した。2022年1月1日付けでアウディ・ジャパンがVGJに吸収合併されたことで日本での輸入元はVGJとなったが、販売体制はそのまま継続される。

2007年3月には、ランボルギーニ大阪を経営する光岡自動車の顧客情報がインターネット上に公開されてしまう事件が起きた。

日本での正規ディーラー網(2023年現在)

ちなみに、ランボルギーニトラクターも日本国内で販売されており、かつてフェラーリの輸入元であったコーンズの関連会社である株式会社コーンズエージーが販売を行っている。

モータースポーツ[編集]

かつては創業者のフェルッチオが「レースには出ない」ことを社是としていた。これは「当時のフェラーリがレースを本業として市販車はそのための資金稼ぎと位置づけ、ユーザーをないがしろにしていたことに対し反発したため」「フェルッチオの息子が反対を押し切る形でレースに夢中になっており、刺激しないため」「フェルッチオ自身がレース中の事故により大ケガを負った経験によるもの」など様々な説があったが、会社から正式なアナウンスは出ていない。

ダカール・ラリー[編集]

1988年にLM002が参戦。本来は1987年からワークス参戦の予定であったが、スポンサーのトラブルにより見送られた。代わりにスイスのプライベーターが運用し、総合10位でのフィニッシュとなった。

F1[編集]

ランボルギーニ3512エンジン

クライスラー傘下に入った後の1989年、ラルースチームへのエンジン供給の形で、F1グランプリ参戦を開始した。

1990年に、メキシコで結成されたチーム「グラスF1」向けにF1マシンを含めて製作を行っていた。エントリーが認められたものの、グラスF1設立を提言したメキシコ人の富豪が資金を持ち逃げしたこともあり、資金が底をつき参戦困難となった。これによる参戦キャンセルによる違約金支払を回避するために、ランボルギーニが実質的なワークス・チーム、モデナに再編成して参戦した。しかし、マウロ・フォルギエリが設計したマシンは時代遅れもはなはだしいもので、目立った成績をあげることはなく、同年に撤退した。エンジンのレイアウトはV12で、独特な高音の排気音であり、それについては同じV12エンジンを搭載したフェラーリへの評価を上回るものだった。

1993年にはエンジンを再設計し大幅にパワーアップ(親会社のクライスラー名義)、翌年のエンジン供給を考慮して、コスワースHBエンジンの非力さに苦しみ、ルノーエンジンに匹敵するパワーのあるエンジンを求めていたマクラーレンがテストを実施したものの[注 2]、マクラーレンはプジョーとの提携を選び、この結果ランボルギーニはF1を去ることとなった。テストでステアリングを握ったのはミカ・ハッキネンで、同時に彼がランボルギーニエンジン搭載車の最後のドライバーとなっている。

なお鈴木亜久里日本グランプリで日本人としてはじめて3位入賞を飾ったローラ・LC90もランボルギーニ製ユニットを搭載していた。

供給したチーム

SUPER GT[編集]

JLOC(Japan Lamborghini Owner's Club)より、全日本GT選手権の初期から参戦している。当初は漫画家の池沢さとしがドライバーを務めた。参戦時のマシンはカウンタックだったが、1995年2004年にディアブロ、2004年からはムルシエラゴ、2007年からガヤルド、2016年からウラカンにて参戦している。これにランボルギーニも全面的に協力しており、このレースのためにディアブロ以降のマシンをワンオフ作成している。2005年からはGT300クラスにエントリーし2006年第1戦にて初優勝した。ランボルギーニがFIAの国際格式レースで優勝したのはこれが初めてのことだった。

スクアドラ・コルセ[編集]

ランボルギーニのレース部門である。各国のサーキットを転戦するワンメイクレース「ブランパン・スーパ-・トロフェオ」シリーズは、2009年にヨーロッパで始まり、2012年にはアジアで、翌年から北米でも開催されている。

WEC/IMSA[編集]

2024年よりFIA 世界耐久選手権(WEC)のハイパーカークラス、並びにウェザーテック・スポーツカー選手権のGTPクラスに参戦する予定で、そのための車としてLMDhマシンのランボルギーニ・SC63リジェ・オートモーティブと共に開発している。

ポロ・ストリコ[編集]

2015年4月にサンタアガタ·ボロニェーゼのランボルギーニの社内部門レストレーション・センターが“ランボルギーニ・ポロ・ストリコ(Polo Storico Lamborghini)” の名称で同社の歴史的モデルに関するレストアや鑑定を行う部門としてリニューアルされた。1963年から2001年までに生産された350GT、400GT、イスレロ、エスパーダ、ミウラ、カウンタックからディアブロまで、すべてのランボルギーニの修復と車両認定書発行機関を含む、会社の歴史的アーカイブの管理、車両復元センターを有し、歴史的なランボルギーニモデルの純正スペアパーツを提供する。

レストア、作製された車両(一部)

  • 最初のプロジェクト ミウラ50周年2016で発表

1971年式ミウラSV、#4846 オリジナルのVerde Metallizata(メタリックグリーン)外装/タン色革内装。Miura SV1号車

  • 2018年2月7日~11日 パリ サロンレトロモービルで発表 

1967年式ミウラP400、#3264 ヴェルデスキャンダル(黄緑色)外装。

1976年式カウンタックLP400、#1120204 オリジナルの黄色外装/タバコ色革内装。

  • 2018年6月発表 

1968年式ミウラ(イオタ)SVR、#3781 (赤色)/黒革内装。

  • 2019年2月6日~10日 パリ サロンレトロモービルで発表 

1967年式ミウラSV、#3673 ロッソコルサ(赤色)、裾部の金帯外装/黒革内装。オーナーはジャン・トッド

  • 2019年

1972年式カウンタックLP400プロト、#1120001 Verde Medio(緑色)外装/タン色革内装。

  • 2020年2月5日 パリ サロンレトロモービルで発表 

1973年式ミウラ(イオタ)SVJ#4860 メタリックシルバー外装/黒革内装。Miura SVJ4号車。

  • 2021年10月1~3日 イタリアロンバルディア州のホテル「ヴィラデステ」での「コンコルソデレガンツァ」(Concorso d'Eleganza Villa d'Este)で発表

2021年式新規復刻作製カウンタックLP500プロト、C*120002PS、Giallo Fly Speciale(黄色)外装/黒革内装。

アーキヴィオ・ストリコ・ランボルギーニ[編集]

ポロ・ストリコのアーカイブ専門部署。歴代モデルについて使用されたパーツやその技術に至るまで、全てをデジタルでアーカイブし、これまでのランボルギーニ歴代モデルに関する文書や設計図、ボディ・カラー、レザー、画像、ランボルギーニがこれまでに作成した刊行物[3]などが収められている。

アド・ペルソナム[編集]

2006年に開始され、2013年から規模を拡張。同社のモデルを個別にカスタマイズしたいという顧客に対応するスタジオである。 ランボルギーニ製造施設内に設置された同スタジオでは、新車購入時にカラーリングやインテリアトリムなどを思い通りに仕上げたいという顧客の要望に応えるため、エキスパートスタッフが個別対応する。

ランボルギーニ・デイ[編集]

2016年から開始されたアウトモビリ・ランボルギーニ主催の全国のランボルギーニオーナー向けのイベント。

  • 2016年9月16日 新宿区霞ヶ丘町1丁目「聖徳記念絵画館」「フェルッチョ・ランボルギーニ生誕100周年」「ランボルギーニ・ミウラ50周年」
  • 2017年10月20日 港区芝公園3丁目「東京プリンスホテル」「最初のランボルギーニ400GTが輸入されて50周年」
  • 2018年11月21日 神奈川県横浜市鶴見区末広町1丁目 「横浜スーパーファクトリー」「Lamborghini Day Japan 2018」
  • 2019年11月22日 大阪府大阪市港区海岸通2丁目 「ジーライオンミュージアム」「Lamborghini Day Japan 2019」

関連人物[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 本社は愛媛県宇和島市。かつては東京都江戸川区で正規ディーラー「ランボルギーニ江戸川」を運営していた。
  2. ^ ハッキネンのテスト走行中、ルノーエンジンに対抗するため余りにも無理矢理パワーを上げ過ぎたエンジンは、ハッキネン曰く「大爆発」と言われるほどの激しいエンジンブローを起こし大破した。

出典[編集]

  1. ^ トニーノ・ランボルギーニ 著、大矢アキオ 訳「「農民のトラクター」がない」『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』光人社、2004年、46-47頁。 
  2. ^ ランボルギーニ、F1新代表就任のドメニカリ後任を発表。ヴィンケルマン氏がブガッティ社長と兼任へ”. autosport web (2020年11月25日). 2020年12月7日閲覧。
  3. ^ ランボルギーニ・ポロ・ストリコが始動”. https://www.autocar.jp (2016年4月21日). 2021年9月26日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


ランボルギーニ S.p.A. ロードカータイムライン 1963-
タイプ 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3
MR(含ミッドシップ4駆) V12 ミウラ カウンタック ディアブロ ムルシエラゴ アヴェンタドール レヴエルト
イオタ レヴェントン ヴェネーノ チェンテナリオ エッセンツァ シアン カウンタック
V8/V10 シルエット ジャルパ ガヤルド ウラカン
2+2 ウラッコ
FR GT 350GT
2+2 400GT イスレロ ハラマ
エスパーダ
クロスカントリー4WD
SUV
LM002 ウルス
オーナー
親会社
フェルッチオ・ランボルギーニ ロセッティ、
レイマー
イタリア政府管理下 ミムラン クライスラー メガテック Vパワー アウディ
試作レーシングカー: ランボルギーニ・イオタ(1969)、ランボルギーニ・ハラマRS(1973)、ランボルギーニ・ウラッコ・ラリー(1973)
コンセプトカー: ランボルギーニ・エストーケ(2008)、ランボルギーニ・エゴイスタ(2013)、ランボルギーニ・アステリオン(2014)、ランボルギーニ・テルツォ ミッレニオ(2017)
人物: フェルッチオ・ランボルギーニジャンパオロ・ダラーラマルチェロ・ガンディーニパオロ・スタンツァーニ
公式WEBサイト: Automobili Lamborghini Holding Spa