ランディ・ローズ

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ランディ・ローズ
Randy Rhoads
演奏中のランディ・ローズ、1980年。}
演奏中のランディ・ローズ、1980年。
基本情報
出生名 ランドール・ウィリアム・ローズ
Randall William Rhoads
出生 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州
ロサンゼルス郡 サンタモニカ
死没 1982年3月19日(満25歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 フロリダ州 リースバーグ
ジャンル ヘヴィメタル
ネオクラシカルメタル
クラシック
職業 ミュージシャン
ソングライター
担当楽器 ギター
活動期間 1970年 - 1982年
レーベル エピック・レコード
ソニー・ミュージックエンタテインメント
共同作業者 オジー・オズボーン
クワイエット・ライオット
著名使用楽器
Jackson RR Signature Model
Karl Sandoval "Polka Dot" Custom Flying V
Gibson Les Paul Custom

ランディ・ローズRandy Rhoads、本名ランドール・ウィリアム・ローズ、男性、1956年12月6日 - 1982年3月19日)は、ギタリストクワイエット・ライオット及びオジー・オズボーンのバンドのギタリストであったことで知られる。1982年、オジー・オズボーンの全米ツアー中に遊覧飛行で乗った軽飛行機の墜落事故により、25歳で生涯を終えた。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第85位、2011年の改訂版では第36位。

略歴[編集]

生い立ち[編集]

1956年12月6日、カリフォルニア州サンタモニカのセント・ジョーンズ病院で生まれる。1963年の誕生日に、祖父からギブソンのアコースティック・ギターをプレゼントされ、ギターを始める。ランディの当時の憧れは、エルヴィス・プレスリーであったという。

1965年、8歳の頃、ロックギターに目覚める。1969年から、母親の経営する音楽学校で講師をしていたスコット・シェリーからエレクトリック・ギターのレッスンを受け始める。1年過ぎた頃には、スコットから「僕が教えられることを彼は総て覚えている」と言われるほど上達していた。同時期、母親の勧めでピアノのレッスンも受けていたが、こちらはあまり長続きはしなかったが、楽譜を読むことをマスターした。

1970年頃、兄ケル・ローズと共にヴァイオレット・フォックスを結成。バンド名の「ヴァイオレット」は、母のミドルネームから拝借されているが、バンドは5か月で解散している。後のクワイエット・ライオットに参加するまでの間は、ディープ・パープルリッチー・ブラックモアをひたすらコピーし、腕を磨いたと言う。同時期、後にクワイエット・ライオットに参加するケリー・ガルニと出会ったのもこの頃であった。

1973~1975年頃、クワイエット・ライオットを結成するまでの間、幾つかのローカルバンドで活動する傍ら、母親の音楽学校でギターの講師を勤める事になる。ランディの生徒の中には、後にオジー・オズボーンバンドに加入するジョー・ホームズの姿もあった。ランディは、後に「生徒に教えることで逆に多くのことを学んだ」と、振り返っている。

クワイエット・ライオット時代[編集]

1975年、ランディを中心にクワイエット・ライオットが結成される。母ドロレスの回想によれば、オーディション参加したケヴィン・ダブロウはランディに自分の部屋でオーディションをするから部屋に来てくれと言い、オーディションを開始。ケヴィンはバンドに熱心だったようであり、ランディに「もし俺に気に入らないところがあれば言ってくれ!」と猛アピールしていたとのことである。

その後、ケヴィンの加入が決定したものの、ドラマーだけが中々決まらず、何人ものメンバーチェンジの末、ドリュー・フォーサイスの加入が決定。デビューライブには1,500人以上ものファンが押し寄せた。

1977年、デモテープを制作し、各国のレコード会社にテープを送ったものの、最終的にコンタクトが取れたには日本のCBSソニー(現ソニー・ミュージックレコーズ)のみであり、これにより、本国アメリカではデビュー出来なかったものの、日本でのデビューを飾るところまでに扱ぎつけることとなった。

1978年3月、CBSソニーより『静かなる暴動 (QUIET RIOT)』で日本デビューを飾る。しかし、秋にはジュニア・スクール時代からの友人であったケリー・ガルニが脱退、後任には後にランディと共にオジー・オズボーンバンドで活動するルディ・サーゾが加入。12月には、セカンド・アルバム『暴動に明日はない (QUIET RIOT II)』をリリースするも、このアルバムも日本のみのリリースで、全米で発売される事はなかった。

オジー・オズボーンバンド加入まで[編集]

1979年、ランディはルディから「ブラック・サバスを脱退したオジー・オズボーンが新しいギタリストを探している」と教えられる。当時のランディは朝に練習、昼から夜まで講師としての活動、週2~3日はバンドの練習、週末にはライブと多忙であり、ランディ自身も「僕はクワイエット・ライオットをやっているから興味がない」と断っていたが、オジーの友人であるダナ・ストラム(スローター)がオジーに「オジー、君はイギリスに帰る前に必ずランディのプレイを観るべきだよ」と勧めたこと、母ドロレスの「オジーは長い間、ミュージック・ビジネスにいるんだし、そう言う人に会う事も必要よ」と告げたこともあり、オジー・オズボーンバンドのオーディションを受けに行く事を決意した。

ランディは夜遅く、オジーの泊まるホテルに行き、ギターのチューニングを開始すると同時にオジーは「You got a job!」(さあ、君に決まりだ!)と大きな声で叫び、バンド加入が即決した。

オジーやマネージャーであるシャロン・アーデン(現シャロン・オズボーン)曰く、ランディの全身から放つオーラに惹かれたことで加入を決めたと振り返っている[1]

オジー・オズボーン時代[編集]

1979年9月、オジーバンドに加入に伴い、クワイエット・ライオットは自然消滅。日本デビューはしたものの、日本公演を行う事はなかった[2]。そしてランディは、活動の場をオジー・オズボーンの元へ移す。11月にはアルバム制作に取り組み、1980年3月にボブ・デイズリー(ベース)、リー・カースレイク(ドラム)らと共にロンドンのリッジ・ファーム・スタジオでレコーディングが開始される。

1980年8月、ファースト・シングルとして「Crazy Train」をリリース。9月には、アルバム『ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説 (BLIZZARD OF OZZ)』をリリースと同時に全英ツアーを開始。アルバムは発売直後、全英チャート15位を記録、ランディは新たなギターヒーローとして注目を集めることとなった。

1981年にはセカンド・アルバムの制作及びレコーディングを開始、4月にはファースト・アルバム『BLIZZARD OF OZZ』が全米でリリースされ、同時期に全米ツアーを開始。10月には、セカンド・アルバム『ダイアリー・オブ・ア・マッドマン (DIARY OF A MADMAN)』をリリース。12月にはプラチナムディスクに輝き、アメリカでも大規模なアリーナツアーを展開。全てが順風満帆に行くと思われた矢先、翌年3月フロリダ州リースバーグにて飛行機事故により操縦士、シャロンの古い友人であるメイクアップ・アーティスト、ランディを乗せた小型飛行機が墜落し、3人はオジーの目の前で即死。

若きギターヒーローが才能を開花させようとしていた矢先の出来事であった。25歳であった。 後にオジーは一度引退するが、その時にランディ宛に手紙を書いた。

ランディの死はオジーに大きなショックを与え、ブラック・サバス時代以上に酒や薬に溺れ、手が付けられない状態であったと言う。また、音楽評論家の伊藤政則の回想によれば、当時のオジーはランディの名前を出す度に大声で泣き出し、インタビューにならなかったと振り返っている[3]

プレイ・スタイル[編集]

ロック・ギターの進化の一端を担った人物とされる。クラシック・ギターの素養を持ち、同世代のイングヴェイ・マルムスティーンより早くクラシック的な雰囲気を曲中に組み込んだ。同時期の改革者としてエディ・ヴァン・ヘイレンが挙げられるが、アメリカ的な明るさを前面に出したエディのプレイに対して、ヨーロッパ的な湿っぽさを残したギターでクワイエット・ライオット時代はともかくオジー・オズボーン・バンドに最高のマッチングを見せた[4]

クワイエット・ライオット時代のランディのプレイは、後にオジー・オズボーン・バンドでみせる個性がみられず、あまり目立ったギタリストではなかった。当時のライヴ映像と言えるようなものは殆ど残っていない。

早すぎる死の直前の晩年、ランディはクラシック・ギターへの思い入れが強くなり、親族の話によると彼はクラシック・ギタリストとしての生き方への転換を本気で考えていたとされる[1]。親友であったルディ・サーゾには、オジー・オズボーン・バンドを脱退して音楽学校に入学する意思を明かしていた[1]

使用機材[編集]

Gibson Les Paul Custom[編集]

彼のメイン・ギターの一つ。クリーム・ホワイトのボディに黒のピック・ガード、パーツはゴールドでピック・アップ・カヴァーが装着されたままであった。ペグやノブ、セレクター・スイッチ・プレートなどが交換されている。本人は1964年製と言っていたが、その頃レス・ポール・モデルは生産中止になっていたので、1970年代前半のものと推測される。クワイエット・ライオット時代から愛用している一番使用期間が長いギターである。

Original Flying V type Polka Dot Finish[編集]

1979年7月に、ランディがカール・サンドヴァルなるクラフトマンにオーダーしたとされるワン・オフ・モデル。カール・サンドヴァルは、元シャーベル社のクラフトマンであったと言われている。ギブソン・フライングVを模したボディ・シェイプで、ネックはセット・ネック。ネックはダンエレクトロ製でトラスロッドが入っておらず、調整はできない。ヘッド・ストックの形状は鏃のようになっており、ギブソン社のフライングVとは明確に異なる。ピック・アップはフロントがディマジオ社のPAFモデル、リアが同スーパー・ディストーション。ペグは、シャーラー社のM6mini。トレモロ・ユニットは、シェクター社製のシンクロナイズド・タイプが搭載されている。ちなみに水玉模様、蝶ネクタイのインレイというデザインは、クワイエット・ライオット時代のランディの衣装が元になっている。レス・ポールと共に出番の多かったギターである。近年、カール・サンドヴァルの手によって限定で再生産された。ポルカドットの白黒が逆転したモデルも、後に追加された。

Jackson Randy V[編集]

ジャクソン社から現在も販売されている彼のオリジナル・シェイプ。ジャクソン社独特のコンコルド・ヘッド、Vといいつつ、フライングVとは相当に異なるボディが印象的なモデルである。

1980年に開発されたプロト・タイプ・モデルはホワイト・カラーで黒のピンストライプが入った印象的なカラーで、2ハムバッカー・2ボリュームコントロール・2トーンコントロールにゴールドのシンクロナイズド・トレモロ・ユニットを搭載した個体である。ピックアップのセレクタースイッチが6弦側のボディ側面に取り付けてあるユニークな特徴がある。

Jackson Randy V 2号機[編集]

1981年に開発された黒のランディVは、客がプロト・タイプのランディVをフライングVと間違えるため、デザインを更に鋭角的に変更して製作された(ランディ曰く、「鮫の様になった」という)。ボディシェイプ以外でのプロト・タイプ・モデルとの違いは、トレモロ・ユニットが取り外され、弦が裏通しになったことである。コントロール・ノブとスイッチの位置も異なっている。彼の死の直前僅か数ヶ月前に完成したため、ライヴでは、プロト・タイプ・モデルほど出番はなかった。役割としては、レスポール・カスタムのサブ的役割だったようである。

エピソード[編集]

  • 80年代当時、日本での音楽雑誌の影響か、ファンの間で「ランディ・ローズは生前小児麻痺だったからステージでは動かなかった」と噂されていた時期があった。この件を母ドロレスは日本のファンからの手紙で知り、大きなショックを受けたと語っており、同時にランディが生前小児麻痺であったことを否定している。

参考文献[編集]

  • オフ・ザ・レイルズ(ルディ・サーゾ著 飯村淳子訳、バーン・コーポレーション、ISBN 978-4-401-70162-9)(2007年)
  • ロッキンf 1987年4月号 「ランディ・ローズ五回忌追悼特別記事 ミセス・ドロレス・ローズインタビュー」84P~91P
  • YOUNG GUITAR 1998年8月号「特集 元祖クラシカル四天王」43P~63P
  • ランディ・ローズ (ジョエル・マクアイヴァー著 有馬さとこ訳、道出版、 ISBN 978-4-860-86060-8) (2012年)

脚注・出典[編集]

  1. ^ a b c 2002年3月30日放送 フジテレビ「NONFIX特別企画「ランディ・ローズに捧ぐ」」[1]
  2. ^ なお、ランディ在籍時のアルバムは2枚とも未CD化であるが、1993年にベスト・アルバム『RANDY RHOADS YEARS』がリリースされている。
  3. ^ アルバム『SPEAK OF THE DEVIL』伊藤政則による解説文参照。
  4. ^ 例:YOUNG GUITAR1991年12月号、1998年8月号等

外部リンク[編集]