ライアン・プレイフェア
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ライアン・プレイフェア(Lyon Playfair, 1st Baron Playfair, GCB, PC, FRS、1818年5月1日 – 1898年5月29日)はスコットランドの化学者、国会議員である。
インド、ベンガル地方の Chunarで、病院の監督者の息子として生まれた。セント・アンドルーズ大学で学び、グラスゴーのアンダーソニアン研究所、エディンバラ大学で学んだ。インドへ赴いた後、1837年の終わりに、ロンドン大学のトーマス・グレアムの実験室の助手となり、1839年にギーセン大学のユストゥス・フォン・リービッヒのもとで働いた。
イギリスに戻った後、繊維工場の工場長を務めた後、1843年にマンチェスター王立研究所の化学の教授になり、ロバート・アンガス・スミスと働いた。2年後、イギリス地質調査所で働き、その後新たに創立された王立鉱山学校の教授となった。1848年に王立協会の会員に選ばれ、1851年のロンドン万国博覧会の委員会のメンバーを務めた。
バス勲章を受勲し、Gentleman Usherに任じられ、1853年に科学局の事務局長を務め、1855年に万国博覧会の委員となり、2年後にイギリス化学学会の会長となった。1858年にエディンバラ大学の教授となった。
1868年に自由党から国会議員となり、自由党政権で要職を務めた。1885年に英国科学振興協会の会長を任じられ、1889年に枢密院教育委員会の副委員長なども務めた。
友人のチャールズ・ホイートストンが考案した、プレイフェア暗号に名前が残されている。