ヨハン・ゲオルク1世 (ザクセン選帝侯)
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ヨハン・ゲオルク1世(Johann Georg I., 1585年3月5日、ドレスデン - 1656年10月8日、ドレスデン)は、ザクセン選帝侯(在位:1611年 - 1656年)。選帝侯クリスティアン1世のとその妻のブランデンブルク選帝侯女ゾフィーの間の次男でクリスティアン2世の弟。兄に子がなかったので選帝侯位を継承した。
1618年の神聖ローマ皇帝の選挙ではフェルディナント2世に投票、皇帝に選出した。宗派はプロテスタントだったが、プファルツ選帝侯兼フリードリヒ5世はカルヴァン派であり、ルター派のヨハン・ゲオルク1世は協力しなかった。しかし、1631年からスウェーデン王グスタフ2世アドルフと同盟を結び、フェルディナント2世と対立、ブライテンフェルトの戦いでスウェーデン軍が皇帝軍を撃破したが、ザクセン軍は撃破され、ヨハン・ゲオルク1世は戦場から逃亡した。
その後、1632年にグスタフ2世アドルフがリュッツェンの戦いで戦死、1635年のプラハ条約で次男アウグストのマクデブルク大司教就任を条件にフェルディナント2世と和解、ヴェストファーレン条約にも参加した。1656年に死去、長男のヨハン・ゲオルク2世が後を継いだ。
[編集] 子女
1604年にヴュルテンベルク公フリードリヒ1世の娘ジビレ・エリーザベトと結婚したが、1606年に男子を死産して間もなく死去した。翌1607年にプロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの娘マグダレーナ・ジビッレと結婚し、ヨハン・ゲオルク2世ら9子(死産を除く)を儲けた。 以降7子は成人になった。
- ゾフィー・エレオノーレ(1609年 - 1671年) - ヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世の妃
- マリア・エリーザベト(1610年 - 1684年) - シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公フレデリク3世の妃
- ヨハン・ゲオルク2世(1613年 - 1680年) - ザクセン選帝侯
- アウグスト(1614年 - 1680年) - マクデブルク大司教、ザクセン=ヴァイセンフェルス公
- クリスティアン1世(1615年 - 1691年) - ザクセン=メルゼブルク公
- マグダレーネ・シビーレ(1617年 - 1668年) - デンマーク・ノルウェー王太子クリスチャン(デンマーク・ノルウェー王クリスチャン4世の王太子)の妃、後にザクセン=アルテンブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の妃
- モーリッツ(1619年 - 1681年) - ザクセン=ツァイツ公
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