ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿

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ローマのカピトリヌスにあったユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿(復元模型)

ユピテル・オプティムス・マクシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿(―しんでん、羅語Aedes Iovis Jupiter Optimus Maximus ,Juno ,Minerva)は、カピトリヌス丘陵(現カピトリーノ)にあった古代ローマの神殿。現在は基礎部分が一部のみ残っている。

至高神ユピテルユーノー、そしてミネルウァを奉り、共和制ローマ、およびローマ帝国において、国家第一の格式を誇る神殿として尊重された。ローマでは、この神殿の奉献年を以て、執政官名によって年を表す年代表が導入されたと信じられた。

歴史[編集]

神殿の平面図
前面に深い軒とユピテル、ユーノー、ミネルウァを奉る3つの祭室を持つことがわかる

ユピテル神殿の創建については、その多くが後の時代のローマの伝統によって脚色され、確かなことは分からない。発掘された陶片などから、この神殿が建設されるよりも前から、カピトリヌスには小規模な神殿が存在していたことが分かっている。ティトゥス・リウィウスによれば、カピトリヌスの丘に神殿を建設する計画は、ルキウス・タルクィニウス・プリスクスの時代に構想され、サビニ人との戦争の後に基礎工事が行われた[1]。しかし、本格的な工事は、ルキウス・タルクィニウス・スペルブスによって行われ、ユピテル神の座所とするために、当時すでに存在していた小祠は、鳥占いによってテルミヌス神[2]のもの以外は撤去された。神殿の建築にはエトルリア各地から職人が呼び寄せられ、テラコッタ装飾はウェイイの彫刻家ウゥルカによって作成されたとされる。周囲から発掘された陶片により、紀元前6世紀末から、芸術活動はウェイイに極めて強い影響を受けるようになったことが知られており[3]、ウェイイの職人がこの神殿の建築において重要な役割を担ったことは、考古学的にも裏付けられる。神殿の建築は、市民もその労役に服したため、彼の治世に神殿はそのほとんどが完成することになったが[4]、スペルブスの追放後、神殿は執政官マルクス・ホラティウス・プルウィッルスによって奉献された。ローマでは、その日付は紀元前509年(あるいは紀元前507年9月13日と信じられている。

共和制末期の紀元前83年7月6日、神殿は民衆派と閥族派の抗争の最中に全焼した。争乱の後に独裁官としてローマの実権を握ったルキウス・コルネリウス・スッラは、直ちに神殿の再建を指示し、その際、工事が停止していたアテナイのオリンピエイオンから輸送された石材を、神殿の柱として使用したことが知られている[5]。しかし、この神殿もウェスパシアヌスの武装蜂起に際し(69年)、ウィテリウス帝によって、ウェスパシアヌスの兄であるフラウィウス・サビヌスとともに焼き払われた[6]。ウェスパシアヌスは皇位に就くと神殿の再建を指示したが、これも80年の市街火災によって再び炎上した[7]。その後、ドミティアヌス帝によって神殿は再度構築され、その後400年間以上、完全な状態で保持され続けたと考えられる。しかし、5世紀以降の神殿の記録はなく、ガイセリックの侵略時、あるいはゴート戦争時に神殿は焼失し、そのまま放棄されたようである。

構造[編集]

美術館内にある基礎構造

1919年に発見された下部構造から、神殿の基壇(ポディウム)の大きさは62m×53mであることが分かっている。神殿の構成は円柱の直径を基本単位としており、円柱径1に対し、正面寸法21、奥行寸法24、中央内陣5、両側の内陣4、内陣の奥行12などとなっている[8]。軒は深く、中央にユピテル、その両側にユーノー、ミネルウァのための専用の内陣が存在する。その構成はエトルリア建築に由来するが、同時代のものとしては、エトルリア全域を含めた中部イタリアにおいて、知られている限り最も大きい。

最初の神殿には、彩色と多くのテラコッタ装飾が施され、その頂きにはウェイイの職人ウゥルカによるとされる、クアドリガを駆るユピテル神像があった。この神像は、後の火災などによって失われたが、そのモティーフは再建されても維持され続けた。ドミティアヌスが再建した神殿は、青銅製の屋根瓦に金箔を施し、これだけで少なくとも12,000タラントンの黄金を使用したと伝えられている。扉にも金箔が施され、神像は象牙と黄金で造られた。屋根の上にはマルス神とウェヌス神、そして両端にはクアドリガを操る神の像が配置されていた。ペディメントには、玉座のユピテルをユーノーとミネルウァが囲み、その脚下に、翼を広げる鷲の像が配置され、これらをクアドリガで太陽と月を運ぶ神が囲んでいた。

脚注[編集]

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  1. ^ リーウィウス『ローマ建国史(上)』p101-p102。
  2. ^ 境界の神。この神がその場所から動くことを拒否したことは吉兆とされ、祠は神殿内に組み込まれた。
  3. ^ イシュタード『ローマ都市の建築』p101-p102。
  4. ^ リーウィウス『ローマ建国史(上)』p136-p138。
  5. ^ F.Sear『Roman Architecture』p12。
  6. ^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』p259。
  7. ^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』p278。
  8. ^ イシュタード『ローマ都市の起源』p102。

関連項目[編集]

  • ローマ建築
  • スポリア・オピーマ - 敵の将軍を一騎討ちで倒したローマの将軍が得た古代ローマ最高の軍事的勲章で、敵の将軍の鎧を樫の木に取り付けたもの。主神ユーピテル、特にユーピテル・フェレトリウスという神格に対して、カピトリヌスの丘の神殿に奉献された。