ヤーン・アンヴェルト

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ヤーン・アンヴェルト
Jaan Anvelt
Ян Янович Анвельт
1925年のアンヴェルト
生年 (1884-04-18) 1884年4月18日
生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国リフリャント県ロシア語版フェリン郡ロシア語版オールグ
没年 (1937-12-11) 1937年12月11日(53歳没)
没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワレフォルトヴォ刑務所英語版
思想 マルクス・レーニン主義
活動 エストニア労働コミューンの指導
1924年エストニアクーデター計画エストニア語版の指導
所属 ボリシェヴィキ
エストニア共産党
受賞 レーニン勲章(1933年)[1]
母校 サンクトペテルブルク大学法学部英語版卒業
ペトログラード第2砲兵士官学校卒業
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ヤーン・アンヴェルトエストニア語: Jaan Anvelt1884年4月18日 - 1937年12月11日)、ロシア語ヤーン・ヤーノヴィチ・アンヴェリト (Ян Янович Анвельт) は、エストニア人のボリシェヴィキ。作家としても活動し、エーサーレ・アードゥ (Eessaare Aadu, Ээссааре Ааду) を始めとした数多くの筆名で多くの作品を著している[2]

生涯[編集]

前半生[編集]

1884年4月18日にロシア帝国リフリャント県ロシア語版オールグ (et) の農家に生まれ[3]コルガ=ヤーニ英語版ユール英語版ピリストヴェレ英語版の教区学校やユーリエフ教職学校 (et) で1902年まで学んだ[1]

1903年から1905年まではサンクトペテルブルクで事務員として、1905年から1907年まではトイラ英語版で教師として働いたが[4]、同時にロシア第一革命にも積極的に参加[2]。1907年にサンクトペテルブルク大学法学部英語版に入学するとともに同年にボリシェヴィキ党員となった[4]1911年には政治活動への参加を理由に放校されるも、翌1912年に外部学生としてサンクトペテルブルク大学を卒業した[1]。1912年から1917年まではユーリエフで弁護士助手として働く傍ら、1914年までヨハネス・キャスペルト、ヴィレム・ブク (ru) とともにボリシェヴィキ系新聞『キール』(et) を創刊・編集した[1]

革命期[編集]

二月革命が発生するとナルヴァ臨時革命委員会やナルヴァ・ソビエトの指導者、ボリシェヴィキ・レーヴェリ委、全エストリャントエストニア語版[3]、北バルト委およびエストリャント・ソビエト執行委エストニア語版のメンバーを歴任[4]。同年の全ロシア・ソビエト大会英語版にも代表として出席した[1]。7月に逮捕されるも、十月革命からは再びエストリャント・ソビエト執行委議長・軍事革命委英語版 (et) メンバー、北西州軍事委員[4]や北部州 (ru) 民族問題人民委員 (et) を務めた[5](この頃、ペトログラード第2砲兵士官学校卒業[1])。翌1918年11月にボリシェヴィキによるエストニア労働コミューンが形成された際にはその人民委員会議議長および軍事人民委員を務めた[3]

コミューンの崩壊後はボリシェヴィキ・エストリャント国外局メンバー[5]赤軍第7軍エストニア語版フルンゼ第2白ロシア師団軍事委員[2]やペトログラード防衛同盟員、ペトログラード防衛地区指令、全ロシア中央執行委ロシア語版メンバーなどを1919年から1921年まで務め[1]1920年にはエストニア共産党中央委エストニア語版のメンバーに選出されている[4]

後半生[編集]

その後は非ボリシェヴィキの支配するエストニアにおいて1921年から地下活動に従事したが、1924年1月に指導した共産クーデターエストニア語版も失敗すると翌1925年ソビエト連邦へ逃れた[3]1926年から1928年まではモスクワジュコーフスキー空軍アカデミーロシア語版に務め、同年から1935年までは民間航空総局 (ru) 次長および局長であった[3]。1935年から1937年まではコミンテルン国際管理委メンバーおよび責任書記を務め、第6回ロシア語版第7回ロシア語版のコミンテルン大会にも出席[4]。ボリシェヴィキ党大会にも第14回ロシア語版から第16回ロシア語版まで出席した[4]

しかし、コミンテルン在職中であった1937年12月6日に逮捕され、5日後の同月11日、NKVDアレクサンドル・ランクファンクロシア語版による拷問によって[2]レフォルトヴォ刑務所英語版で死去した[6]。その後もアンヴェルトは人民の敵ロシア語版として糾弾されたが、1956年名誉回復ロシア語版がなされた[2]

アンヴェルトの記念碑・レリーフはタリンユフヴィ、トイラなどに設置されていたが、いずれも除去されている[1]。アンヴェルトの名を冠した通りもナルヴァとタリンに存在したが、それらも「パウリ・ケレス通り」(et)、「ヴィレム・レイマン (de) 通り」(et) および「キヴィシラ通り」(et) へと改称されている[2]。また、アンヴェルトの名はタリン教育学院ナルヴァ支部やポルツァマーエストニア語版の通りにも付けられていた[2]

家族[編集]

ヤーンは1909年から翌1910年まで、革命家同志のアルマ・オストラ (et) に身分証を取得させるため、彼女と偽装結婚していた[7]。その後、1912年にはE・ヴァシリエヴァと再婚した[2]。さらに1925年には、亡命先のソ連で別の同志アリセ・レーヴァルト (et) と結婚[8]。息子の小ヤーン (et) と娘のキムを儲けた[2]。孫のアンドレスエストニア語版社会民主党エストニア語版所属の政治家として内相 (et) などを務めている[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h Anvelt, Jaan”. Eesti Entsüklopeedia. 2016年9月1日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j Хантсом А. (2016年12月11日). “Главный Эстляндский коммунар”. RODINA.EE. http://rodina.ee/istoriya/tag/%D0%AF%D0%BD%20%D0%90%D0%BD%D0%B2%D0%B5%D0%BB%D1%8C%D1%82 2019年6月7日閲覧。 
  3. ^ a b c d e Анвельт // А — Ангоб. — М. : Советская энциклопедия, 1969. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 1).
  4. ^ a b c d e f g АНВЕЛЬТ // ААЛТОНЕН — АЯНЫ. — М. : Советская энциклопедия, 1961. — (Советская историческая энциклопедия : [в 16 т.] / гл. ред. Е. М. Жуков ; 1961—1976, т. 1).
  5. ^ a b Залесский К. А. (2002). Империя Сталина: Биографический энциклопедический словарь. М.: Вече. ISBN 5-7838-0716-8
  6. ^ “Документы прошлого”. Радио Свобода. (2002年1月18日). http://archive.svoboda.org/programs/hd/2002/hd.011802.asp 2016年9月1日閲覧。 
  7. ^ Reinart, Heili (2016年11月15日). “Alma Ostra – esimene naine Eesti Vabariigi kõrgetes ametites tülitses nooruses Postimehega”. sõbranna.ee. https://sobranna.postimees.ee/3911009/alma-ostra-esimene-naine-eesti-vabariigi-korgetes-ametites-tulitses-nooruses-postimehega 2019年6月7日閲覧。 
  8. ^ Velsker, Liis (2018年5月22日). “Ajaloolane: Anvelti vanaema võttis Nõukogude Liidu kodakondsuse”. Postimeesエストニア語版. https://www.postimees.ee/4492457/ajaloolane-anvelti-vanaema-vottis-noukogude-liidu-kodakondsuse 2019年6月7日閲覧。