ヤーコフ・ゼヴィン

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ヤーコフ・ダヴィドヴィチ・ゼヴィン
Яков Давидович Зевин
通称: パヴェル
生年: 1888年
生地: ロシア帝国の旗 ロシア帝国モギリョフ県ロシア語版クラスノポーリェベラルーシ語(タラシケヴィツァ)版
没年: 1918年9月20日
没地: ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の旗 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国クラスノヴォツク
思想: マルクス・レーニン主義
所属: メンシェヴィキ→)
ボリシェヴィキ
記念碑: 26人のコミッサール記念碑 (1968 - 2009)
母校: ロンジュモー党学校

ヤーコフ・ダヴィドヴィチ・ゼヴィンロシア語: Яков Давидович Зевин1888年6月21日(ユリウス暦6月9日) - 1918年9月20日)は、ロシア革命家であり、26人のバクー・コミッサールの一員である。党名はパヴェル (Павел)。

生涯[編集]

1888年、ロシア帝国モギリョフ県ロシア語版クラスノポーリェベラルーシ語(タラシケヴィツァ)版(現在はベラルーシ領)に生まれた。

1904年ロシア社会民主労働党に入党し、以来エカテリノスラフ(現在のドニプロペトロウシク)やバクーで革命派の地下活動に従事し、逮捕されてはヴォログダ県アルハンゲリスク県への追放を繰り返された。1911年にはフランスロンジュモーレーニンが主催していた党学校(ru)で学んだ。翌年にプラハで開かれた社会民主労働党の第6回会議にはメンシェヴィキ派の代表として出席したが、党の権力はその後完全にボリシェヴィキへと移った。

1915年にはボリシェヴィキのバクー・コミューンのメンバーとなり、1917年二月革命後はモスクワ・ソビエトの労働者代表としてボリシェヴィキに従いモスクワ地区委員会で働いた。

バクーでは1917年8月から石油企業の労組員を務め、アゼルバイジャンにおけるソビエト権力確立の闘争を主導した。翌年4月からバクー・コミューンの労働人民委員となり、社会改革分野での最も重要な政策の実行に関わった。同じくボリシェヴィキ活動家のナジェジダ・コレスニコワ (Надежда Колесникова) もこのコミューンで教育人民委員を務めていた[1]。しかしバクー・コミューンの崩壊後にゼヴィンは社会革命党に逮捕され、1918年9月20日に処刑された。

脚注[編集]

  1. ^ ア・イ・ミコヤン 1973, p. 254.

参考文献[編集]

  • Колесникова Н. Н. Яков Зевин. — Б., 1948.
  • Колесникова Н. Н. По дорогам подполья (Из воспоминаний). — Б., 1966.
  • Памяти 26 бакинских комиссаров. Документы и материалы. — Б., 1968.
  • 26 бакинских комиссаров. Библиография. — Б., 1968.
  • ア・イ・ミコヤン 『ミコヤン回想録1 バクー・コンミューン時代』 小川政邦、上田律訳、河出書房新社1973年