ヤン・スィロヴィ

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ヤン・スィロヴィー
Jan Syrový
生年月日 (1888-01-24) 1888年1月24日
出生地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国 トレビッチ
没年月日 (1970-10-17) 1970年10月17日(82歳没)
死没地 チェコスロバキアの旗 チェコスロバキア プラハ
サイン

在任期間 1938年9月22日 - 12月1日
大統領 エミール・ハーハ
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ヤン・スィロヴィー(Jan Syrový、1888年1月24日 - 1970年10月17日)は、チェコスロバキアの軍人、政治家。姓はシロヴィーとも表記され、名はジャンと読まれることもある。

ロシア内戦時のチェコ軍団司令官。チェコスロバキア独立後は首相、国防相を歴任した。上級大将

オーストリア=ハンガリー帝国のトレビッチ(現チェコ南部のトシェビーチ)生まれ。

略歴[編集]

技術学校で建築学を学んだ後、1906年にオーストリア=ハンガリー陸軍に一年志願兵として勤務、その後ロシアの技術専門学校に通った。第一次世界大戦勃発後の1914年9月にロシア帝国軍のチェコ義勇隊に入隊し、南西戦線に従軍、1917年7月、ズボーリゥの戦いで右目を失った。1918年3 - 5月、中尉の階級でチェコ軍団第2連隊長となる。

ロシア内戦時、クルガンズラトウストチェリャビンスクオムスクのラインのチェコスロバキア人部隊を指揮。第2、第3チェコスロバキア狙撃連隊、第6チェコスロバキア狙撃連隊の2個大隊、第3予備連隊、第3打撃中隊、第1砲兵中隊の計9千人が指揮下に入った。

1918年5月26日に蜂起し、チェリャビンスクを奪取した。1918年6月18日、ズラトウストでシベリア・グループと合流。同年12月初め、白軍のカペルとヴォイツェホフスキーに支援を約束したが、時機を逸していた。1918年8月から少将に昇進し、1920年9月の撤退までチェコ軍団司令官を務めた。同時に1918年末 - 1919年初めまで「人民軍」西部戦線司令官を兼任。極東で活動していたコルチャークの支援には消極的で、後に赤軍にコルチャークを引き渡した。

1920年9月、チェコスロバキアに帰国。1926年3 - 10月、国防相。1927年、チェコスロバキア軍参謀総長。1933年、軍監察総監。1938年9 - 12月、首相兼国防相。首相として9月30日、ミュンヘン協定の受託を行った。1938年12月、国防相としてルドルフ・ベラン内閣に入閣。

1939年3月、チェコスロバキアが解体され、チェコがナチス・ドイツ保護領とされた後も、保護領政府の国防相として留任した。

第二次世界大戦中は、ナチスから軍人や物資を遠ざける活動を支援するが、積極的な反ナチス運動には加わらず中立を維持した。 そのため、終戦後にナチスへの協力者として禁固20年を言い渡される。1960年、恩赦され釈放。

先代
ミラン・ホッジャ
チェコスロヴァキア首相
1938年 - 1938年
次代
ルドルフ・ベラン

脚注[編集]