ヤアクーブ・マンスール

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ヤアクーブ・マンスールيعقوب المنصور Ya'qūb al-Mansūr, ? - 1198年)は、ムワッヒド朝の第3代アミール(在位1184年 - 1198年)。

第2代君主アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世の子で、キリスト教徒を母とする。父の生前にはセビーリャの統治を委ねられ、アンダルスイベリア半島)に駐在していた。

父の死後、即位するとともに反乱を抑えて君主の専制的な支配力を確立、その治世にムワッヒド朝は東方へ勢力を拡大し、イフリーキヤ(現チュニジア)からトリポリ(現リビア西部)まで支配下に加えてムワッヒド朝の最大版図を実現した。

また、アンダルシアでもキリスト教徒に対する攻勢を強め、1195年には自ら大軍を率いてジブラルタル海峡を渡り、アラコルスの戦いカスティーリャ王国アルフォンソ8世を破った。1197年にも再遠征してマドリードまで進軍し、既にキリスト教徒が再征服していたトレドを脅かした。その軍事行動の結果、カスティーリャはムワッヒド朝と停戦協定を結んでレコンキスタを大きく停滞させるが、一方のマンスールはキリスト教徒を打ち破った栄光に満ちた君主として賞賛されることになった。「勝利者」を意味するヤアクーブの尊称(ラカブ)「マンスール」は、この戦いの勝利を記念してつけられたと言われている。

国内においてはセビーリャの大モスクを始め、ムワッヒド朝時代を代表する優れた建造物が建設された。一方で、マンスールはムワッヒド朝のイデオロギーであるタウヒード主義を掲げて、これに反抗的なムスリム(イスラム教徒)を禁圧した側面もあった。当時のアンダルスには哲学者イブン=ルシュドが活躍していたが、1197年に哲学を異端として禁じ、イブン=ルシュドを追放した。さらに異教徒に対しては容赦ない弾圧が加えられ、その厳しさは、北アフリカに住む全ての非ムスリムがマンスールの弾圧を避けてイベリア半島北部のキリスト教徒支配地域に避難したと言われるほどである。このようなムワッヒド朝の不寛容な姿勢は、のちにキリスト勢力のイベリア半島奪還を許す遠因となる。