モーリッツ・フォン・デア・プファルツ

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プファルツ=ジンメルン公モーリッツ、ヘラルト・ファン・ホントホルスト

モーリッツ・フォン・デア・プファルツ独語:Moritz von der Pfalz)またはモーリス・オブ・ザ・ライン英語:Maurice of the Rhine, 1620年12月17日 キュストリン - 1652年9月、おそらく13日から16日の間 西インド諸島沖)は、ドイツプファルツ=ジンメルン家の公子で、イングランドの軍人。

プファルツ選帝侯フリードリヒ5世とその妻でイングランド王・スコットランドジェームズ1世の娘であるエリザベス・ステュアートの間の第5子、四男としてキュストリン(現在のポーランドルブシュ県コストシン・ナド・オドロン)に生を享けた。父が1618年にボヘミアの対立王に選ばれたために、プファルツ=ジンメルン家は三十年戦争に巻き込まれて亡命生活を余儀なくされていた。一時はスウェーデン海軍に所属している。

1642年にイングランド内戦が勃発すると、すぐ上の兄のループレヒトと一緒に渡英して叔父のチャールズ1世を支持する王党派(騎士党)の忠誠篤いメンバーとなり、陸戦・海戦の別なく様々な戦いに参加した。エッジヒルの戦いマーストン・ムーアの戦いにも従軍し、マーストン・ムーアで国王軍が議会派(円頂党)の軍隊によって壊滅的被害を受けた際も、兄ループレヒトとともに奇跡的に無傷で生還した。

1649年のチャールズ1世の処刑後、王党派によって兄とともに海軍中将に任命され、小規模な艦隊を任されたが、その任務とはイングランド共和国と大陸諸国との通商を妨害することであった。この小艦隊は1651年、議会派のロバート・ブレイク提督によって壊滅させられた。その後はループレヒトと一緒に本格的に海賊として暮らすようになった。

1652年9月中旬、モーリッツの率いる海賊船は西インド諸島沖で暴風雨に見舞われ、モーリッツはそのまま消息不明となった。モーリッツの失踪には別の伝説がある。ペルーメキシコの間にあるという大量の財宝を発掘するためフランスの海港を出発したが、すぐにベルベル人海賊に襲われてアルジェに連行され、そしてそのままアフリカの奥地へと連れ去られた、というものである。

参考文献[編集]

  • Sonja Steiner-Welz: Mannheim, tausend Fragen und Antworten, Reinhard Welz Vermittler Verlag e.K, S. 29 ff.
  • Johann Samuel Ersch: Allgemeine encyclopädie der wissenschaften und künste, Band 49, J. f. Gleditsch, 1849, S. 410 f. Digitalisat
  • W. Nöldeke: Sophie, Kurfürstin von Hannover, Hahn, 1864, S. 7