モンブラントンネル

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モンブラントンネル:Mont Blanc Tunnel、:Tunnel du Mont-Blanc、:Traforo del Monte Bianco)は、モンブランを隔てて、イタリアアオスタフランスシャモニーを結ぶ全長11.8kmの道路トンネルである。アルペンにあるトンネルの中でも重要な輸送路の1つであり、北アルプス向けの約1/3に相当する輸送量を誇る。

概要[編集]

モンブラントンネルは、1959年から1965年までの6年間にわたり建設されたトンネルである。1946年に計画が浮上し、1953年に両国議会により建設が決定、1959年に着工し、従業員350人、岩盤を破壊するために約711tの爆薬が使用され、ヴォールトの構成の為に6万トンのセメント、300tの鉄が使われ、1965年7月19日に開通した。フランスがイタリア側に元々モンブランルートを通過するには、グラン・サン・ベルナール峠かピッコロ・サン・ベルナール峠を通過する必要があり、かなりの大回りとなっていたが、このトンネルの開通により、交通の便が格段に向上した。

このトンネルは、全長11.6km、幅8.6m、高さ4.35mの2車線対面通行のトンネルである。2車線対面通行の理由は、需要が高まるに連れて拡張計画も浮上したものの、付近の住民の反対に遭い頓挫したからである。その後、300m毎に監視カメラ(40台)を設置したり、換気孔や、最大45人を収容できる耐火気密シェルター18箇所の建設などの近代化も行われている。 最高速度は70km/hで、最低速度は50km/hである(かつては100km/hであったが、後述の火災事故により見直し)。

トンネル火災事故[編集]

1999年3月24日小麦粉マーガリンを積んでフランス側からイタリア側へ向かっていたベルギーの貨物トラック(ボルボ製)が燃料漏れにより爆発、フランス側が煙を感知していたにも関わらず、直ちに封鎖しなかった事から、10台の普通車両と18台のトラックがトンネル内に侵入、結果、死者39名、負傷者27名と言う大惨事となってしまった。

主な原因として、トンネルの中間地点を境にしてフランス側とイタリア側の管理会社が管理していた為、換気系統が別々となっていた事、火災対策が不十分と指摘されたにも拘らずフランス政府が無視した事が挙げられる。この火災で、当初シャモニー側から消防車2台が火災現場へ向かったが、既に火災で配線は焼け熔けており、暗闇の状態となっていた事と、車が車線を塞いでいた事から到着が遅れてしまい、煙に巻き込まれる事となってしまった(この15名の消防士は救助されるが、そのうちの司令官1名が死亡している)。その後、フランス、イタリアのほか、スイスから合計で約100名の消防士が動員されたものの、換気装置が有毒ガスを排気しきれずに熱と煙が立ち込める事となり、消防士が現場に到着できたのは火災から約3日後の3月26日、完全に鎮火したのは、火災発生から約56時間後のことであった。

なお、死者の多くは避難時にシェルターへ向かう途中に死亡しており、爆発車両の積荷がマーガリンと小麦粉であった事から、事故現場は約1000度もの高温の状態に達していたが故に、遺体も炭化したものが多かった。

この事故に巻き込まれ生還したのは12名であるが、この12名はイタリア側から派遣された警備員によって救助されている(彼はBMW K75に乗り、被災者に酸素マスクを装着させた状態で後部に乗せて救出していた)。この警備員は亡くなっており、事故後、イタリア側によって同国側入口にモニュメントが建立されている。

この火災事故により、トンネル内の壁は焼け焦げ、コンクリートが砂状になったり、鉄が熔解するなどの深刻なダメージを蒙り、閉鎖を余儀なくされた。その後、壁の補修や、換気システムと温度計の追加、退避トンネルの建設などが行われ、約3年後の2002年3月9日に再開通した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]