ラリー・モンテカルロ

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ラリー・モンテカルロRallye Automobile Monte Carlo)は、モナコ公国を中心に行われるラリーイベントの一つ。[1]

1963年大会のエントリープレート(サーブ96 エリック・カールソン車)

目次

[編集] 概要

昼間のチュリニ峠(2008年)
ブロー峠

初開催されたのはインディ500初開催年と並び同年となる1911年で、現在行われている国際モータースポーツイベントの中でも最も古い部類に入る。また格式も高く、いわゆる世界三大レースにも匹敵すると言われている。

スタート地点はモナコモンテカルロであるが、実際の競技はほとんどモナコの北、フランス国内のアルプス山脈周辺の舗装路で行われるターマックラリーである。しかし所々に雪などが残っており、路面状況はアイス、時にはスノーの箇所があり、タイヤ選択が非常に難しいことで知られる。パルクフェルメの位置はGPコース上、トンネル後のヌーベルシケインからのヨットハーバー側に毎年設けられる。

SSにはレースゲームなどでも再現されたチュリニ峠(Col de Turini)やシステロン(Col de Castillon)、ブロー峠(Col de Braus)などが有名であり、1964年に廃止された最終日恒例のGPコース上タイムトライアルについては2007年からGPコースの一部を使用したスーパーSSへと刷新された。 また、ナイトステージ用に、1960年代中盤より各マシンもフォグランプ(ドライビングランプ)をステー等を使って後付搭載する様になり、1970年代ともなると一部スポーツカーを扱うチーム[2]ではライトポッドとして一体型となり、メンテナンスにおいて取り外ししやすい装備形状への合理化と変化がみられる。また、路面の積雪や凍結状況をペースノート上に的確に反映させる「アイスノートクルー」がまだ普及する途上であった1970年代前後には、観客が雪塊をコース上に投げ入れ、乾燥路面を得意とするスポット参戦の準レースドライバー達が足をすくわれ、結果に影響を及ぼす場面も時折見受けられた。

世界ラリー選手権(WRC)の発足以後は、通常1月下旬頃にWRCの開幕戦として行わることが多かった。しかし2009年よりWRCの開催にローテーション制(2年ごとに12戦ずつ、計24戦をWRCとして開催する)が導入されたため、2009年はWRCから外れインターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ(IRC)の一戦として開催された。2010年は当初WRCに復帰するものと見られていたが、主催者側では「タイムテーブルなど、イベント主催者の裁量の自由度が高い」ことを理由に、2010年もIRCの一戦として開催することを決定している[3]。しかし2012年には再びWRCのイベントとして復活した[4]

コンサントラシオン」(正式名称:「パルクール・デ・コンサントラシオン」)は、ヨーロッパ各都市からの約1000kmを48時間で走りきりモナコに参集するという「コンセントレーション・ラン」を意味する前座ステージであった。初期には競技の主体であったが、各ラリーの画一化を図る国際自動車連盟(FIA)の意向、主催のACM(モナコ自動車クラブ:「Automobile Club de Monaco」)が各都市で車検を行う事への負担、および1980年代以降のラリーがSS主体で争われる競技へ変質したことから、ラリーのプロモーションという面しか持たなくなり、WRCとしては1995年を最後に廃止された[5]。コンサントラシオンは、その後1997年よりヒストリックカーカテゴリ[6]として分離し受け継がれている。詳細は後途の#カテゴリ参照。

[編集] 歴史

[編集] 起源〜黎明期

第1回1911年の優勝者、ヘンリー・ロジャーの駆るテュルカ・メリー25Hp

まだ自動車が「馬なし馬車」のサイクルカー移行期に程近い20世紀をまたいで冒険旅行を主とした富裕層中心に普及していき、パリを中心に自動車競技も盛んになっていく頃。開催当初のモナコの情勢的に観光事業を財源とすべく冬季に行う自動車競技の一環として当時のアルベール皇子1世の全面的な賛同を基に現ACMの前身であるSAVM(モナコモータースポーツ&自動車クラブ)が主体となりラリーとして戦前、戦後を跨いで執り行われている。

また、「rally」と言う競技形態の起源はモンテカルロが初めてであり、この言葉には元々「再び集まる」と言う意味合いがある。モナコにはラリーすべてを開催できる充分な土地がない事を視野に入れ主催者は、ヨーロッパ主要都市のいずれかから参加者をスタートさせ、モナコにゴールさせる形とする。

第1回大会のエントリーは23台。1020km離れたパリフランス)、1700km離れたベルリン(当時:ドイツ帝国)、1319km離れたウィーンオーストリア)、1272km離れたブローニュ=シュル=メールフランス)、1340km離れたブリュッセルベルギー)、670km離れたジュネーヴスイス[7]から各車1月21日にスタートし、5日間にわたり一路モナコを目指す。

参加車両は屋根なしよりは屋根付き、乗員が多い方が優遇措置が取られるレギュレーションであったが為、スポーティ車より乗用車が、極端例ではバスが優勝する可能性すらあり、ラリー終了後、きめ細やかな審査が行なわれ、結果は翌日の表彰式まで発表されなかった。

走破距離に違いがあるものの、距離とスピードに大した意味はなく[8]、日々の平均時速が最低10km/h、最高で24km/hと決められ、定められた中継点を通過していれば良く、大きなトラブルにさえ見舞われなければ休養も食事も睡眠も摂れる、速さ優先のレースとは異なる自動車を用いた社交イベントと言う趣が強く、その名残として近年の競技終了翌日の盛大なパーティとして伝統が受け継がれている。

第2回大会は参加87台と急増する一大イベントとなるが、第一次世界大戦勃発でラリーは12年に渡り中断される。

[編集] モータースポーツイベントとしての成長

1934年出場車フォードV8

大戦が明け、1924年3月にラリー・モンテカルロが再開される。競技形態は第1回大会と変わらず、欧州各国よりスタートしたのは30台となる。[9]

翌、1925年には従来通り1月開催に戻され、スタート地点も各地に散らばっていく。もっとも遠方からのエントラントは北アフリカチュニスからモンテカルロまでの走行距離はおよそ2400マイル(約3900km)にも及ぶおおらかな大冒険イベントとしての種が大きかった。レギュレーションにスタート地点ごとに、モンテカルロまでの距離に応じてのボーナスポイントが与えられはじめると完走率も高くなる。[10]

1927年からは参加車両に変わった車[11]が観られるようになると、マシンの大小、マシンポテンシャルに関わらずドライバー、コ・ドライバーの力量が試される競技へと変わっていく。

1930年代より自動車技術の進歩によってフットワークあるラリー向けのコーチビルダーマシンが続々と名を連ねるようになっていく。優勝エントラントとしてはドナルド・ミッチェル・ヒーリーが既製品メドウズ社製エンジンに積み替えたインビクタ・Sタイプ(Invicta)を駆り1931年優勝、32年には2位に入っている。更には35年に開発に携わったトライアンフ・ドロマイトで出場するなどモータースポーツに対する話題性に一躍買っていた。

また、仏車オチキスとフォード・V8(Ford Model B (1932))勢にも勢いがあり、1932年から34年まで3連勝を成し遂げている。そして1939年に第二次世界大戦が勃発。10年間中断する事となる。

[編集] 復興変化の中の復活

戦前を取り巻く環境下では「選ばれし者とクルマ達による冒険」の趣が全面的にあったが、1949年に10年のブランクを経て復活を遂げると各メーカーが販売戦略の一環としてラリー・モンテカルロにエントリーする巨大イベントのひとつとして変貌を遂げていく。

その変化はエントリー数に見て取れる様になり、1949年のエントラントは204台にものぼり、低コストで大きな宣伝効果を狙う新興メーカーも戦後台頭してくるキッカケとしてのイベントとなっていった。ブリストル等の変わり種も多かったが英国フォードはワークスチームを編成して参加し始める。また、1951年よりバックヤードビルダーをはじめとする英国車の参加が多くなっていくと、他のカテゴリで名声を挙げているスターリング・モスルイ・シロンなど有力ドライバー達の活躍により大会ステータスが年々向上していく。また1954年には、こうした選手達による減点ゼロ頻発を防ごうとスピード重視に規則改定し、GPコースでのスピードテストが加えられる。1955年ともなるとサンビーム・タルボ90(Sunbeam-Talbot 90)がワークスとプライベーターで計19台参加し、プライベーターチームがワークスチームを食うと言う番狂わせを演じている。

50年代後半より良い意味でアマチュアリティのあった時代は終息して行く様にも伺えられた。各メーカーが量産車とは名ばかりのコンベンショナルなラリー専用マシン[12]を作り上げる様になると、競技速度は向上したが最早アマチュアドライバーが自分の車にわずかな改良を施してフロック等で好成績を得られると言うレベルではない、プロフェッショナルなメーカーワークスチームが一般道を舞台にしのぎを削るイベントへ変化して行く。

[編集] ワークスチームの台頭

1963年に投入されたミニ・クーパー

メーカーワークスチームの戦いの場として変化を遂げたモンテカルロ。コンパクト小排気量FF車であるサーブ・96を駆るスタードライバー、エリック・カールソンは並居るサルーンカー[13]をよそに1962年、63年と連覇を成し遂げる。このカールソンの活躍のほうが大きいのもあるが、当時ACMが設定していた排気量や車重、サイズに関わらず総合優勝を争えるようにしたハンディキャップ制度により小型FF車でも勝利できるチャンスが巡ってきた。北欧系ドライバー主流である左足ブレーキングによるFF車の特性を加味してのタックイン現象の利用によりモンテカルロのトリッキーな路面状況を次々と攻略されていく事になる。

サーブ以外にBMCミニMkⅠ1960年に投入。1962年1963年とミニ・クーパーへと進化させるとラウノ・アルトーネンらが上位に食い込む活躍を見せて来る。この頃BMCワークスのマネージャーに後に英国フォードで手腕を発揮する事になるスチュワート・ターナーが本格的なラリーシステムの骨格となる「ペースノート」、「レッキ」、「サービス計画」など、近代的なラリーオペレーション化として持ち込み、モンテカルロでは後に常識となる「アイスノートクルー」をはじめて起用。ハンデを考慮し、車の仕様を小変更後の複数クラスへの分散エントリー[14]や共倒れのリスクを避けるためのコンサントラシオンのスタート地点を分けるなど一歩先を進むオペレーションが行われていくことになる。

クーパーSへ進化すると1964年にパディ・ホプカークがミニで初めての勝利を獲得。ヘルシンキでBMCディーラーを営むティモ・マキネン1965年、アルトーネンも1967年に勝つ。1966年1、2フィニッシュするが、主催であるACMがヘッドライトの規定違反として「失格」とし、スキャンダルとなった[15]。更にこの世代前後、FF車とRR車が約20年近く上位を独占する様になってくると「モンテではプロペラシャフト付きのクルマは勝てない」とさえジンクスとして言われるようになるが、80年台初頭までの時流の風物詩となっていった[16]

[編集] スポーツカー時代到来

1962年からの4年間に及ぶミニの活躍の潮時はやってくる。最終日恒例であったGPコースタイムトライアルが1964年を最後に廃止されるも、1965年にはSS距離が初めて200kmを超すコース取りとなる。1966年には簡略化されていたFIA競技車両規則がJ項と言う形で整理。それに応える形でACMも「ハンディキャップ制」を廃止とし、純粋なSSタイムでランキングを決めていくルールへと変更されていく。

この流れに台頭してきたのがポルシェ・911アルピーヌ・A110である。1968年はドライバーにスポーツカー選手権などで名を馳せる面々である911Tにビック・エルフォード、アルピーヌにジェラール・ラルースらの活躍が目立つ。ドライコンディション上ではミニ・クーパーでも歯が立たず、チュリニ峠では観客の投げ込む雪塊でラルースはクラッシュ。結果アルピーヌ勢は全滅、ポルシェが1-2を飾りBMCミニが3~5位となるとBMCワークスはこの年限りでモンテから撤退する。

1969年にはSSの距離が408kmにまで伸びるとポルシェはビヨン・ワルデガルドと移籍したラルースの911Sが1968年~70年とサーブ、BMCでも成せなかった3年連続1-2を大会史上37年ぶりに果たすようになると、71年はレース活動に集中。販売戦略として914/6を投入すると2年連続3位であるアルピーヌにチャンスが訪れる。155馬力にまで進化させたA110を6台体制、オベ・アンダーソンをスポット起用すると1-2-3を成し遂げる。

1972年に911が戻ってくるが事実上、アルピーヌ対1968年に痛手をこうむった[17]サンドロ・ムナーリ率いるランチア・フルヴィアHFの体制となりアルピーヌ勢は全滅するまで上位を独占していた。WRC開幕戦として組み込まれることになった73年はアルピーヌが1.8Lに進化。1-2-3、5位へと完勝。ポルシェワークスもラリー活動を縮小した事もあり、暫く誰もがこの流れが続くかに思えた。

1973年秋頃からの第四次中東戦争含むオイルショックにより74年、多くのモータースポーツイベントが開催を見合されるも、ラリー・モンテカルロもそれに同調し開催をキャンセルする。

1年間のブランクを終えた1975年、コンサントラシオンを終えたラリーカーの勢力図はまた大きく変化して行く。

[編集] 日本のエントラントによる挑戦

[編集] ワークス参戦 

日本のワークスメーカーで最初にモンテカルロに挑んだのは日産自動車であった。ダットサンチームの名の下、1965年より1967年まで日産・ブルーバード、1968年、1969年は日産・フェアレディ、そして1971年から1973年に240Zを投入。

68年は若手のハンヌ・ミッコラがフェアレディ2000で9位入賞、71年は優勝経験のあるラウノ・アルトーネンを招き240Zで5位、後のオペル(GM・ユーロハンドラー)チーム監督として手腕を発揮する事になるトニー・フォールも10位と健闘する。続く72年アルトーネンは3位と好成績を挙げる活躍で日本でのラリー・モンテカルロの認知度は後のサザンクロス・ラリーサファリラリー同様、一気に高まる事となる。

1979年、80年にはWRC常連勢(トヨタ・セリカ等)の他にもホンダ・シビック RS等のスモールハッチ車もスポットとして見受けられた。

[編集] プライベーターによる活躍

70年台、この日産の活躍に刺激を受けた日本人ドライバーが次々とラリー・モンテカルロにプライベーターとしてスポット参戦する。

初出場はWRC組が混走となる1973年、トヨタ自工の山口義則によるトヨタ・セリカを皮切りに、1976年には柑本寿一が森川修と組んで日産サニーで出場。1977年には柑本寿一は日産・サニー1200で32位完走を収め、その後計5度出場していた。同年、中川一が日産サニークーペで森川修と組み完走。森川は90年代後半まで折に触れ出場し、1997年には日下部保雄と組んで英ローバーのワークス・ミニクーパーで当時のアルバート王子杯(Challenge Prince Albert de Monaco[18])で出場している。

日本人による最多出場は1980年から1991年にかけて歴代日産・パルサーで出場し続けた石川英正の11回となる。

[編集] 1973年以降の優勝者

年度 シリーズ ドライバー マシン
1973年 WRC ジャン=クロード・アンドリュー アルピーヌ・ルノーA110 1800
1975年 サンドロ・ムナーリ ランチア・ストラトス HF
1976年 サンドロ・ムナーリ ランチア・ストラトス HF
1977年 サンドロ・ムナーリ ランチア・ストラトス HF
1978年 ジャン=ピエール・ニコラ ポルシェ・911
1979年 ベルナール・ダルニッシュ ランチア・ストラトス HF
1980年 ワルター・ロール フィアット・131・アバルト
1981年 ジャン・ラニョッティ ルノー・5 ターボ
1982年 ワルター・ロール オペル・アスコナ 400
1983年 ワルター・ロール ランチア・ラリー037
1984年 ワルター・ロール アウディ・クワトロ A2
1985年 アリ・バタネン プジョー・205ターボ16
1986年 ヘンリ・トイボネン ランチア・デルタS4
1987年 ミキ・ビアシオン ランチア・デルタHF 4WD
1988年 ブルーノ・サビー ランチア・デルタHF 4WD
1989年 ミキ・ビアシオン ランチア・デルタ インテグラーレ
1990年 ディディエ・オリオール ランチア・デルタ HF インテグラーレ 16V
1991年 カルロス・サインツ トヨタ・セリカ GT-FOUR
1992年 ディディエ・オリオール ランチア・デルタ HF インテグラーレ エボルツィオーネ
1993年 ディディエ・オリオール トヨタ・セリカ GT-FOUR
1994年 フランソワ・デルクール フォード・エスコート RS コスワース
1995年 カルロス・サインツ スバル・インプレッサ WRX
1996年    パトリック・ベルナルディーニ フォード・エスコート RS コスワース
1997年 WRC ピエロ・リアッティ スバル・インプレッサ WRC
1998年 カルロス・サインツ トヨタ・カローラWRC
1999年 トミ・マキネン 三菱・ランサーエボリューションVI
2000年 トミ・マキネン 三菱・ランサーエボリューションVI
2001年 トミ・マキネン 三菱・ランサーエボリューションVI
2002年 トミ・マキネン スバル・インプレッサ WRC
2003年 セバスティアン・ローブ シトロエン・クサラ WRC
2004年 セバスチャン・ローブ シトロエン・クサラ WRC
2005年 セバスチャン・ローブ シトロエン・クサラ WRC
2006年 マーカス・グロンホルム フォード・フォーカスWRC
2007年 セバスチャン・ローブ シトロエン・C4 WRC
2008年 セバスチャン・ローブ シトロエン・C4 WRC
2009年 IRC セバスチャン・オジェ プジョー・207 S2000
2010年 ミッコ・ヒルボネン フォード・フィエスタ S2000
2011年 ブライアン・ブフィエ プジョー・207 S2000
2012年 WRC セバスチャン・ローブ シトロエン・DS3 WRC

1974年オイルショックの影響で開催をキャンセル。

[編集] ラリー・モンテカルロ・ヒストリック

現在、ゆかりのあった「パルクール・デ・コンサントラシオン」は「ラリー・モンテカルロ・ヒストリック」と言う形で受け継がれており、1997年より1955年から1980年までのモンテカルロ・ラリーに当時参戦記録のあった車両がエントリー可能で、毎年世界中のエンスージアストの手によりレストアされ集う、現代版ミッレミリア同等の競技としてカテゴライズされている。

[編集] 参戦資格

以下、100周年である2011年大会のレギュレーション上では、FIAのヒストリックラリーカテゴリ[19]に準じ、1955年の第25回大会から1980年の第48回大会までACMが把握しているラリー・モンテカルロ出場記録に記録が残っている車種でなければエントリーできない[20]且つ、2005年例ではFIA発行の「ヒストリックカー」証明書の所持も必要となり、条件をパスしていたとしてもドライバー・コドライバーの戦歴を考慮した上で選考漏れする例があり、参戦は誰しもができるわけではない[21]

[編集] 競技形式

競技の形式的には近代版ミッレミリア等とは異なり、コンマ1秒を争うレギュラリティラン形式が用いられ、他の単距離上のパレード的なデモンストレーションランと言えるヒストリックカー競技とは一線を画している。その最大の魅力としては昔ながらの一週間で計3000km超とする走破距離にあり、2011年ルールでのスタート地点の選択肢はスコットランドグラスゴーポーランドワルシャワモロッコマラケシュスペインバルセロナフランスランス[22]にパルクフェルメが設定され、現地で車検を終えた順に出走当日まで保管後、出走と言う流れとなる。

[編集] 競技詳細

スタート地点により走破日数が異なるコンサントラシオンを無事完走すると、第2ステージである「エタップ・クラスマン」から「エタップ・コミュン」1、2と1日づつのスケジュールとなり、コミュン2到着直後はチュリニ峠のSSが含まれるナイトステージである「エタップ・ファイナル」へとコマが進められる。ヒストリックでのGr.4カーでグラスゴーからのスタートの場合、全行程7日間。全走行距離はゆうに3500kmを超える。

それまでのWRCラリーラウンド上ではエタップ・クラスマンよりコマ地図が各エントラントに配布されるが、ヒストリックの場合は全ステージとも原則としてレギュラリティ・テスト区間であるZR区間[23]以外配布されない。

ZR区間では区間指示速度が与えられ、その区間実走時間との差分減点となり、指示速度は50km/hに近い速度からなり、SSではスタート/フィニッシュ間でタイム計測が行われる。2011年のZR区間は14か所にのぼり、最長区間距離は66kmに及ぶ箇所もある。

いずれも、現地交通法規より低い指示速度を与えられている建前上、競技中は区間封鎖はされないため、不意の対向車が現れたりするところは昔ながらのルールさながらである。

コ・ドライバーのZR区間での役割としては常に指示速度どおりに進んでいるかを機械式トリップメーターと計算機で計算しながらの進行となり、いわゆる近年のラリーコンピューターの類は使用は許されていない。[24]

[編集] エントラント

往年の世界ラリー選手権経験ラリードライバーレーシングドライバーからのエントラントも多く、ジャン・ラニョッティブルーノ・サビーラウノ・アルトーネンエリック・コマスブルーノ・ティリーらも参戦しているため、上位層は非常にレベルの高い走りとサポートが要求される。

[編集] 日本のエントラントによる参戦

2011年には森川修が日本人エントラントのコ・ドライバーとして日産・240Zで出走。無事完走している。

同年、現東京大学特任教授の草加浩平率いる東京大学関東工業自動車大学校の学生たちは授業の一環として世界初となる学生チームによるラリー・モンテカルロ・ヒストリック参戦を果たした。同授業は東京大学の掲げる国際化教育とタフな東大生[25]を育成する場として、計画・運営・資金調達・規則翻訳・レストア・整備・改造まで全てを学生が担当した。日本での活動に加え、現地に於ける競技車の整備・修復・サポートまで一貫して学生が行うという今までに類をみない画期的な授業として日本のみならず世界各国でも注目を集めた。 学生チームはトヨタ・スプリンタートレノ(TE27)を競技車両としてレストア・整備を行った。 現オリジナルボックス代表である国政久郎と草加浩平特任教授のタルガ・タスマニアにおけるクラス優勝経験のあるコンビがグラスゴーより出走した。競技車両のTE27に大きなトラブルはなく、現地でサービスを行った学生達もワークスさながらのサービスワークをこなし無事完走を果たした。学生チームは、日本人として史上最高位を獲得し、大会参加者からも賞賛を受ける結果となった。

世界最高知名度の伝統的ラリーに教育の一環として学生チームが出場するということは現地ヨーロッパでも注目を集め、東京大学関東工業自動車大学校チームはテレビニュースや新聞、雑誌などに多数取材を受け、世界各国で放映・掲載された。

上記の様に、ホンダ・シビック RS(EB1) 等のモータリゼーション期に投入された車で当時の参戦メンバーの手により2000年代中頃から参戦するエントラント[26]も多数見受けられる。

[編集] 脚注

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  1. ^ 全体的に三栄書房「ラリー&クラシックス Vol.4 ラリーモンテカルロ 100年の記憶」より抜粋、参考。
  2. ^ ランチア・ストラトスでは4連ライトポッド、フィアット・124・アバルトスパイダーダットサン・280Zなどではボンネット埋め込み形状のものが試されている。
  3. ^ IRCの開幕戦は2010年もモンテカルロ - as-web.jp・2009年7月23日
  4. ^ モンテカルロがWRC復活。2012年WRCカレンダー発表 - as-web.jp・2011年6月4日
  5. ^ 1996年と1997年にも行われたが、この年はWRCのタイトルが掛けられていない
  6. ^ [ACM RALLYE MONTE-CARLO HISTORIQUE]2011年5月11日参照。
  7. ^ 内訳はパリから11台、ベルリンから3台、ウィーンから2台、ブローニュ=シュル=メールから1台、ブリュッセルから4台、ジュネーヴから2台のエントリーとなった。
  8. ^ 勿論、これに対し第1回大会で6位の結果に不服として抗議を提出したフォン・エスマルフは賞典授与、パレードを拒否。結果主催者は「失格」とした。
  9. ^ この時の優勝車のスペックは2.0L直列4気筒エンジンの仏車ビニュナン。
  10. ^ 参加42台に対して完走32台。優勝はルノー・40CV、女性ドライバー、マルティンがランチア・ラムダを駆り2位に入っている。
  11. ^ 上位はアミルカー1100、セルティック・ビニャーニ。他にもドイツ製シュタイア等がエントリーしていた。
  12. ^ いわゆるワークスマシン
  13. ^ メルセデスベンツ・220SEシトロエン・DSなど。
  14. ^ BMC・ADO16に代表されるバッジエンジニアリング車であるライレー・エルフ及びケストレル、ウーズレー・ホーネットバンデン・プラ・プリンセス、MG・1100など、年々ミニ母体のエンジン仕様の違いによってもエントリー分散化していく。
  15. ^ それ以前にもACMが「アンチ・ミニ」の態度を示しているようにも見えた事からこの様な事態へと繋がった。この繰上りで優勝となったのはヘンリの父であるパウリ・トイヴォネン。
  16. ^ 80年代初頭までのワルター・ロールによるフィアット・アバルト131オペル・アスコナ400などFR車がランキングトップに台頭してくるとそのジンクスも薄れていった。
  17. ^ 1968年、アテネ-モナコでのコンサントラシオン中、コ・ドライバーであるルチアーノ・ロンバルディの運転するフルヴィアは一般車と衝突、ロンバルディは死亡。助手席で仮眠を取っていたムナーリは重傷を負う事故となり、翌日ベッドの上でこの悲運を知る事になる。以後、ムナーリ自身このラリーに特別な並々ならぬ感情を抱き、成長していくことになる。
  18. ^ [1er Challenge Prince Albert de Monaco-rallybase.nl]
  19. ^ FIA ヒストリックレギュラリティーラリーの事。
  20. ^ 但し、当時実際参戦した履歴のある同一シリアルN.O.のマシンでなくても同型、同年式の市販車を競技規則に則した範囲の改造及びリビルドを施した上での参戦も可能。
  21. ^ [Web CG 往年の名車がモナコを走る!「ラリー・モンテカルロ・ヒストリック」]2011年5月12日参照。
  22. ^ 但し、距離面で有利となるスタート地点であるランスバルセロナは年式が古いクラスと小排気量車クラスのみエントリーが許されている。
  23. ^ WRCでのSSにあたる。
  24. ^ それでも中には車体前輪に車速センサを取り付け、カーナビを堂々とつけるエントラントも見受けられるが、古き良きラリーを楽しむエントラントは社交辞令として勿論装着はしていない。
  25. ^ 東京大学 タフな東大生
  26. ^ Club Honda Classic Le même équipage et 30 ans séparent ces photos au départ du rallye de Monte Carlo(仏)2011年5月14日参照

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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