メイナード・ションバーグ (第3代ションバーグ公爵)

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第3代ションバーグ公メイナード

第3代ションバーグ公メイナード・ションバーグMeinhardt Schomberg, 3rd Duke of Schomberg, KG PC, 1641年6月30日1719年7月5日)は、イギリスの貴族・軍人。初代ションバーグ公爵フレデリック・ションバーグの長男で2代公爵チャールズ・ションバーグの兄。

生涯[編集]

初代ションバーグ公爵フレデリック・ションバーグと1人目の妻ヨハン・エリザベート(1664年3月21日没、ハインリヒ・ディートリヒ・フォン・シェーンベルク・アウフ・ヴェーゼルの娘)の息子として、1641年6月30日にケルン選帝侯領ケルンで生まれた[1]

1663年から1668年まで陸軍中佐として父と共にポルトガル王政復古戦争を戦い、1668年1月11日に父がフランスに帰化するとションバーグも同じくラ・ロシェルに定住して帰化した[1][2][3]仏蘭戦争中の1677年から1678年までフランソワ・ド・クレキの部下として参戦、1677年10月7日のコッハースベルクの戦い、1677年11月のフライブルク攻囲戦英語版、1678年7月7日のラインフェルデンの戦いドイツ語版で戦功を挙げた[4]。戦中に少将に昇進している[4]。1685年にフォンテーヌブローの勅令が発令され、ナントの勅令が廃止されると、フランスから出国して、1686年にハンガリー軍に入って大トルコ戦争を戦った[4]。その後はベルリンにいた父に従いブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの下へ移り、1689年3月ごろに名誉革命後のイングランド王国へ移住した[4]。同年8月にイングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世からアイルランドにいる父への指示を託され、それを届けた後は休暇を届け出てベルリンに戻り、翌年初にイングランドに戻って4月19日に騎兵連隊隊長に任命された[4]

1690年6月にウィリアム3世とともにアイルランドへ出兵[4]ウィリアマイト戦争)、アイルランドで滞在していた父と合流して南下、ボイン川の戦いジェームズ2世初代ティアコネル伯爵ジャコバイトと交戦した。戦闘では左翼を守備していた父が敵に討ち取られたが、右翼を率いて戦場を右に迂回して敵を引き付けたおかげで勝利に貢献、父の爵位のうちメルトラ伯位を継承(ションバーグ公位は弟のチャールズが継承)、1691年リンスター公爵に叙爵、イギリス軍総司令官に任じられた(同年に解任)[5]。1693年10月16日に兄チャールズがマルサリーアの戦いで戦死するとションバーグ公爵位も相続、11月7日に貴族院議員に就任した[1]。1695年5月11日に枢密顧問官に任命され、1703年8月12日にガーター勲章を受勲した[1]。8月11日にスペイン継承戦争スペイン遠征軍司令官に任命され1704年3月にリスボンに到着[1]、5月にエルヴァスに陣地を設け、続いてエストレモスに移ったが、強硬な態度に終始したため部下や同僚との争いが絶えず、ついにポルトガル宮廷とションバーグ公爵自身の要請により7月11日に初代ゴールウェイ伯爵に交代[4]、1705年6月にイングランドに戻った[1]

貴族院ではホイッグ党に属し、1701年6月の初代サマーズ男爵弾劾裁判で無罪票を投じ、1703年の便宜的国教徒禁止法案に賛成、1710年にヘンリー・サシェヴェラル英語版の弾劾に賛成、1714年の教会分裂阻止法英語版に反対した[1]。1717年にアクスブリッジ付近(現在のヒリンドン区)にヒリンドン・ハウスを建造した[4]

1719年7月5日にヒリンドンで死去、8月4日にウェストミンスター寺院に埋葬された[1]。息子のチャールズに先立たれたため女性継承ができるメルトラ伯爵以外の爵位は全て廃絶したが、娘フレデリカを通して子孫はチャールズ2世の子孫であるレノックス家及びスペンサー家と姻戚関係を結び、ダイアナ元妃及びチャールズ王太子との間に生まれたウィリアム王子ヘンリー王子に繋がっていった[6]

子女[編集]

1667年8月3日にバルバラ・ルイーサ・リッツィ(Barbara Luisa Rizzi、ジョヴァンニ・ジロラモ・リッツィの娘)と結婚した[1]。1668年11月24日のバルバラによる、バッキンガム公爵への請願の手紙によると、彼女は夫から年金を代償とする離縁を要求され、それを断ると妊娠して7か月経過していたにもかかわらず捨てられたという[1]

1683年1月4日にプファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒの庶出の娘カロリーネ・エリーザベト(1659年11月19日 – 1696年6月28日)と結婚[1]、4人の子を儲けた。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1949). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Rickerton to Sisonby) (英語). Vol. 11 (2nd ed.). London: The St Catherine Press. pp. 527–529.
  2. ^ Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1949). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Rickerton to Sisonby) (英語). Vol. 11 (2nd ed.). London: The St Catherine Press. pp. 523–525.
  3. ^ Childs, John (6 January 2011) [23 September 2004]. "Schomberg, Meinhard, duke of Leinster and third duke of Schomberg". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/24825 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  4. ^ a b c d e f g h Dunlop, Robert (1897). "Schomberg, Meinhard" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 50. London: Smith, Elder & Co. pp. 434–436.
  5. ^ 友清 2004, pp. 143–146, 158.
  6. ^ 森 1987, pp. 274–275.

参考文献[編集]

関連図書[編集]

外部リンク[編集]

イングランドの爵位
先代
チャールズ・ションバーグ
ションバーグ公爵
1693年 – 1719年
廃絶
アイルランドの爵位
爵位創設 リンスター公爵
1691年 – 1719年
廃絶
ポルトガルの爵位
先代
フレデリック・ションバーグ
メルトラ伯爵英語版
1690年 – 1719年
次代
フレデリカ・ダーシー英語版