メアリー・アン・コットン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
メアリー・アン・コットン 1870年ころ 同時代の写真のスキャン

メアリー・アン・コットン(Mary Ann Cotton、1832年10月31日 - 1873年3月24日)は、自分の子らを殺害した嫌疑で有罪判決を受けたイングランドの女性である。出生時の名前は、メアリー・アン・ロブソン(Mary Ann Robson)。 彼女は、おもにヒ素をもることによって、21人を殺害したとされている。 こんにちロンドンに住んでいる、彼女の最も若い親戚の1人は、カーラ(Carla)である。

前半生[編集]

メアリー・アン・ロブソンは、1832年10月31日に、 ロー・ムーアズリー(Low Moorsley)(いまは、シティ・オブ・サンダーランドのホートン=ル=スプリング(Houghton-le-Spring)のいちぶ)に生まれ、そして11月11日に、ウェスト・レーントン(West Rainton)、セント・メアリーズ(St Mary's)で洗礼を受けた。

メアリー・アンが8歳であったとき、一家はムートン(Murton)のカウンティー・ダラム村(County Durham village)に引っ越した。彼女はあたらしい学校で友達を作るのに苦労した。引っ越しから間もないあるとき、父親がムートン炭鉱(Murton Colliery)で縦坑で150フィート(約45.7メートル)転落して死亡した。

1843年、メアリー・アンの未亡人にされた母マーガレット(Margaret)(旧姓ロンズデール(Lonsdale))は、ジョージ・スコット(George Stott)と結婚したが、メアリー・アンは彼とうまくゆかなかった。 16歳で、彼女は、サウス・ヘットン(South Hetton)という近くの村のエドワード・ポッター(Edward Potter)の家の子守になった。 そこで3年間をすごしたのち、彼女は、母の家にもどり、婦人服の裁縫師として訓練を受けた。

1人目の夫:ウィリアム・モーブレー(William Mowbray)[編集]

1852年、20歳で、メアリー・アンは、ニューカッスル・アポン・タインの炭鉱労働者ウィリアム・モーブレーと届け出結婚をした。 ふたりはまもなくデヴォン、プリマス(Plymouth)にうつった。 夫婦は5人の子供をもうけたが、うち4人は胃の熱病(gastric fever)で死亡した。[1] ウィリアムとメアリー・アンは、ノース・イースト・イングランド(North East England)にもどり、そこでさらに3人の子をもうけ、そして亡くした。 ウィリアムは、サウス・ヘットン炭鉱(South Hetton Colliery)の職長に、そしてそれから汽船の火夫になった。 彼は、1865年1月に腸の障害で死亡した。 ウィリアムは、ブリティッシュ・アンド・プルデンシャル・インシュランス(British and Prudential Insurance)によって生命保険がかけられていて、そしてメアリー・アンは、彼の死亡で35ポンドの支払いを受けたが、これは当時の肉体労働者のほぼ半年分の賃金に相当する。

2人目の夫:ジョージ・ウォード(George Ward)[編集]

モーブレーの死後まもなく、メアリー・アンはシーハム港(Seaham Harbour)に移り、そこで彼女はジョセフ・ナトラス(Joseph Nattrass)と関係をむすんだ。 しかしながら、彼は、別の女性と婚約していて、そして彼女はナトラスの結婚ののちシーハムを立ち去った。 この期間に、彼女の3歳6ヶ月の娘が死亡し、彼女が産んでいた9子のうち1子を彼女にのこした。 彼女は、サンダーランド(Sunderland)にもどり、そしてサンダーランド病院(Sunderland Infirmary)、接触伝染性熱病回復施設(House of Recovery for the Cure of Contagious Fever)、人道協会(Dispensary and Humane Society)に就職した。 彼女は、残っている子イザベラ(Isabella)を、自分の母の家に住むように遣った。

病院の患者のひとりが、技師ジョージ・ウォードであった。 ふたりは、1865年8月28日にモンクウィアマス(Monkwearmouth)で結婚した。 彼は、不健康でありつづけた。 彼は、1866年10月に死亡したが、これは、麻痺と腸の問題を特徴とする長患いののちのことであった。 医師は、ウォードは重病であったが、それにもかかわらず彼は、この男の死亡がそれほど突然であることに不意を突かれたと証言した。 メアリー・アンは、再び夫の死亡で保険金をうけとった。

3人目の夫:ジェームズ・ロビンソン(James Robinson)[編集]

ジェームズ・ロビンソンは、サンダーランド(Sunderland)、パリオン(Pallion)の造船工であって、妻ハンナ(Hannah)がさいきん死亡していた。 彼は、1866年11月にメアリー・アンを家政婦としてやとった。 1ヶ月後、ジェームズの赤子が胃の熱病で死亡したとき、彼は家政婦になぐさめをもとめ、そして彼女は妊娠した。 そのときカウンティー・ダラム、シーハム港にすんでいるメアリー・アンの母が病気になったので、彼女はただちに彼女のもとに行った。 彼女の母親は、よくなりはじめたけれども、彼女もまた、胃痛をうったえはじめた。 彼女は、1867年春に54歳で死亡したが、これは、メアリー・アンの到着の9日後であった。

ウィリアム・モーブレーとの結婚でもうけた、メアリー・アンの娘イザベルは、ロビンソン一家に連れ戻され、まもなくひどい胃痛をおこし、そして死亡した。 ロビンソンの子らのうち別の2人もまた同様であった。 子ども3人ぜんいんが、1867年4月の最後の2週間に埋葬された。

ロビンソンは、1867年8月11日に、ビショップウィアマス(Bishopwearmouth)、セント・マイケルズ(St Michael's)でメアリー・アンと結婚した。 ふたりの子メアリー・イザベラ(Mary Isabella)がその11月にうまれたが、しかし彼女は胃痛をわずらうようになり、そして1868年11月に死亡した。

もういっぽうでは、ロビンソンは、彼が生命保険にはいることへの妻の執着をうたがうようになった。 彼は、彼女が彼のかげで60ポンドの借金に急増させ、そして彼女が銀行にいれたとされていた50ポンド超を窃盗していたことを発見した。 そして、彼女が自分の子らに家の貴重品を質入れさせていたことがわかると、ロビンソンはメアリー・アンを追い出した。

4人目の「夫」("Husband"):フレデリック・コットン(Frederick Cotton)[編集]

メアリー・アンは自暴自棄になり、路上生活を送っていた。 そのとき彼女の友人マーガレット・コットン(Margaret Cotton)は、彼女を自分の兄弟フレデリック(Frederick)に紹介したが、彼は、ノーサンバーランド、ウォルボトル(Walbottle)に住んでいる坑夫で最近、男やもめになって、そして4子のうち2子を亡くしていた。 マーガレットは、残っている子ら、フレデリック・ジュニアおよびチャールズの代理母をつとめた。 しかし1870年3月後半にマーガレットは、未確認な胃の病気で死亡し、そしてメアリー・アンが、悲しんでいるフレデリック・シニア(Frederick Sr)をなぐさめるにまかせた。 まもなく彼女の10ヶ月目の妊娠は、進行中であった。

フレデリックとメアリー・アンは、1870年9月17日にニューカッスル・アポン・タイン(Newcastle Upon Tyne)のセント・アンドリューズ(St Andrew's)で重婚し、そしてふたりの息子ロバートは、1871年前半にうまれた。 その語まもなく、メアリー・アンは、元の恋人ジョセフ・ナトラスが、30マイル(約48.2キロメートル)離れた、ウエスト・オークランドのカウンティー・ダラム村に住んでおり離婚していたこと聞き知った。 彼女は、ロマンスにふたたび火を点け、そしてあらたな一家に彼の近くに移るように説得した。 フレデリックは、その年の12月に、「胃の熱病」("gastric fever")で、前任者らのあとにつづいて墓にはいった。 彼と彼の息子らの生命保険は、かけられていた。

恋人2人[編集]

フレデリックの死ののち、ナトラスはまもなくメアリー・アンの下宿人になった。 彼女は、天然痘から回復中の消費税官吏(excise officer)であるジョン・クイック=マニング(John Quick-Manning)の子守として職を得た。 まもなく彼女は、彼によって12人目の子を妊娠した。 おそらくは消費税官吏の名前はほんとうはリチャード・クイック・マン(Richard Quick Mann)であったであろう。 ウエスト・オークランド・ビール醸造所(The West Auckland Brewery) あるいは国立公文書館(The National Archives)の記録には、ジョン・クイック=マニングの痕跡は無いようである。 国勢調査の記録、出生、死亡および婚姻の記録もまた、彼の痕跡をしめしていない。 リチャード・クイック・マンは、ビール醸造所専門の税関消費税官吏であって、記録に見いだされており、これが、メアリー・アン・コットンの恋人とされる人物のほんとうの名であるかもしれない。

フレデリック・ジュニアは、1872年3月に、そして幼児ロバートは、そのごまもなく、死亡した。 そのときナトラスは、胃の熱病にかかっていて、そして死亡した - メアリー・アンに有利に遺言状を修正した直後であった。

メアリー・アンがチャールズにかけていた生命保険の保険証書は、それでもやはり受け取りをまっていた。

チャールズ・エドワード・コットンの死亡と死因審問(inquest)[編集]

メアリー・アンの破滅は、彼女が、教会区官吏トマス・ライリー(Thomas Riley)に、天然痘にかかっている女性の看護をてつだうようにたのまれたときであった。 彼女は、さいごの生き残っている男児チャールズ・エドワードがじゃまであると不平を言い、そしてライリーに、彼が労役場にゆだねられることが可能かどうか訊ねた。 ライリーは、ウエスト・オークランドの検視官助手(assistant coroner)もつとめていたが、彼女が彼につきそわねばならないであろうと言った。 彼女はライリーに、男児は病弱だと言い、そして付け加えた:「わたしはながいあいだ苦労するつもりはありません。 彼も、コットン家ののこりの全員とおなじようになりますから。」

5日後、メアリー・アンは、ライリーに、男児は死んでしまったと語った。 ライリーは村の警察に行き、そして医師を説得して死亡証明書を書くのを、状況を捜査できるまで延期させた。

チャールズの死後のメアリー・アンのさいしょの立ち寄り先は、医師のもとではなく、保険事務所であった。 そこで、彼女は、死亡証明書が発行されるまでは金銭は支払われないとわかった。 死因審問がおこなわれ、そして陪審は自然的原因という評決をくだした。 メアリー・アンは、彼の病気を緩和するためにクズウコンを使用したと主張し、そしてライリーが彼女をうったえたのは彼女が彼のくどきをこばんだからだと言った。

それから地元諸新聞は、ニュースだねをつかみ、そしてメアリー・アンが北イングランドのあちこちを移り、夫3人、恋人1人、友人1人、母親、多くの子を亡くし、その全員が、胃の熱病で死亡したことを見いだした。

逮捕[編集]

うわさは、嫌疑と法廷の質問になった。 チャールズを診察した医師はサンプルを保管しており、そのサンプルからヒ素の陽性反応が出た。 彼は警察に行き、そして警察はメアリー・アンを逮捕し、そしてチャールズの遺体の発掘を命じた。 彼女は殺人の嫌疑でうったえられたが、ただし、公判は、彼女の最後の子の1873年1月10日のダラム・ゴール(Durham Gaol)での分娩まで延期され、子に彼女はマーガレット・クイック=マニング・コットン(Margaret Edith Quick-Manning Cotton)となづけた。

公判と死刑執行[編集]

メアリー・アン・コットンの公判は、1873年3月5日にはじまった。 延期は、検察官の選択の問題によってひきおこされた。 ミスタ・アスピンウォール(Mr. Aspinwall)という人物就くことになっていたが、法務長官サー・ジョン・デューク・コールリッジ(Sir John Duke Coleridge)は、友人で子分のチャールズ・ラッセル(Charles Russell)を選んだ。 ラッセルの、アスピンウォールをこえての任命は、下院における質問につながった。 しかしながら、これは認められ、そしてラッセルは、刑事訴追を指揮した。 コットン事件は、彼がキャリアにおいて関わり合う、アデレード・バートレット(Adelaide Bartlett)やフローレンス・メーブリック(Florence Maybrick)の事件をふくむ、いくつかの有名な毒殺事件の最初となることになる。

事件の弁護は、ミスタ・トマス・キャンベル・フォスター(Mr. Thomas Campbell Foster)によって指揮されたが、彼は、公判のあいだ、チャールズは、コットン家のグリーンの壁紙の染料として使用されるヒ素を吸入したことで死亡したと主張した。 陪審は、90分間、ひきさがり、それからメアリー・アンに有罪の評決をくだした。

『タイムズ』通信員は3月20日に報告した: 「有罪評決ののち、卑しむべき女性は、強い感情をしめしたが、 しかしこれは数時間でいつもの冷たい、遠慮がちな態度にとってかわられ、そして 彼女は国王の慈悲深さが自分のほうに広がるであろうという強い確信をいだいて 彼女は自分が有罪評決をくだされた犯罪の無実をつよく主張している。」 いくつかの請願が、内務大臣にだされたが、通ることはなかった。 メアリー・アン・コットンは、1873年3月23日に、ウィリアム・カルクラフト(William Calcraft)によってダラム・カウンティー・ゴール(Durham County Gaol)で絞首刑に処せられた。

ナーサリーライム[編集]

メアリー・アン・コットンには、同名の彼女自身のナーサリーライムがあり、1873年3月24日の絞首刑執行ののち歌われた。[2]
– Mary Ann Cotton, she's dead and she's rotten, lying in bed with her eyes wide open
– Sing, sing. What song should I sing? Mary Ann Cotton is tied up with string
– Where? Where? She's up in the air, and they're selling puddings for a penny pair

参照資料[編集]

  1. ^ North East History[リンク切れ]
  2. ^ Flanders (2011) p.394
  • Warwickshire, English poet Siân Lavinia Hülme artist name 'The Raveness' features the nursery rhyme in her 'Of rope and arsenic' poem written during her teenage years (2004) from her best selling debut album 'Of blood and absinthe (2012)'.
  • Appleton, Arthur: Mary Ann Cotton: Her Story and Trial (London: Michael Joseph, 1973). ISBN 0-7181-1184-2
  • The Times, contemporary reports, 1872-3
  • Flanders, Judith (2011) The Invention of Murder (London: Harper Ress) ISBN 978-0-00-724888-9
  • Connolly, Martin: "Mary Ann Cotton – The North Eastern Borgia?" (West Auckland, Oakleaf Publishing 2012) ISBN 9780957465107