ムハンマド・ブハリ

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ムハンマド・ブハリ
Muhammadu Buhari

任期 1983年12月31日1995年8月27日

ナイジェリアの旗 ナイジェリア連邦共和国
ナイジェリア国営石油公社総裁
任期 1978年6月 – 1978年7月

ナイジェリアの旗 ナイジェリア連邦共和国
石油・天然資源相
任期 1976年3月 – 1978年6月
元首 オルセグン・オバサンジョ

任期 1975年8月 – 1976年3月
元首 ムルタラ・ムハンマド

出生 1942年12月17日(72歳)
Flag of British Colonial Nigeria.svg ナイジェリア、カツィナ州
政党 (軍人→)
全ナイジェリア人民党→)
進歩変革会議

ムハンマド・ブハリ1942年12月17日-)は、ナイジェリア軍人政治家カツィナ州出身のフラニ人で、イスラム教徒である。クーデターシェフ・シャガリ文民政権を打倒し、1983年12月31日から1985年8月27日までナイジェリアの指導者となったが、イブラヒム・ババンギダクーデターによって打倒された。

前半生[編集]

ブハリは1942年12月17日にカツィナ州で生まれ、長じて軍へと入隊した。ブハリは1976年オルセグン・オバサンジョ政権の下で石油・天然資源大臣に任命された。それまでは、ムルタラ・ムハンマド政権の下で新設された北東部州の州知事に任命されていた。彼はその後、1977年[1] 新設されたナイジェリア国営石油公社の総裁に任命された[2]

ブハリ政権[編集]

民主化がおこなわれ、シェフ・シャガリ政権が誕生すると、ブハリは軍に復帰し、ジョスの第3機甲師団長に任命された[3]。しかしシャガリ政権は迷走の度を深めたため、1983年12月31日にブハリを中心とするナイジェリア軍の中上位将校がクーデターを起こし、シャガリを失脚させた。ブハリは元首である軍事評議会議長に就任すると、これまでの文民政権は絶望的なまでに機能していなかったとして軍の政権奪取を正当化し、「無規律との戦い」と呼ばれる綱紀粛正の国民キャンペーンを実施した。

彼はまた、報道の自由を抑圧し、罪状なしでも3ヶ月まで反対派を拘禁できる法案を通過させた.[4]。また彼は、労働者のストライキロックアウトも禁止した。さらにナイジェリア初の秘密警察であるナイジェリアセキュリティ機構を設立した.[5] 。また彼の政権は著名なミュージシャンで政治評論家でもあるフェラ・クティに懲役10年の刑を宣告し、アムネスティに政治的な弾圧であるとして非難を浴びた[6]。クティはやがて彼の政権の後継者によって釈放された。BBCによれば、ブハリ政権は財政均衡のために輸入を抑え、そのため多くの会社が倒産や閉鎖を余儀なくされた."[7]。これにより、物価は上昇し生活水準は低下した。

緊縮政策の失敗、汚職の蔓延、さらに経済の悪化を受け、ブハリ政権は1985年8月27日にイブラヒム・ババンギダによって打倒された.[8]。ブハリは1988年までベニンシティで拘留された。

民主化後[編集]

釈放後、ブハリはサニ・アバチャ政権下で石油信託基金の総裁に就任した.[9]。民主化後、2003年にはブハリは全ナイジェリア人民党から大統領候補として選挙に出馬したが[10]、人民民主党の現職大統領オルセグン・オバサンジョに11万票差をつけられ敗北した。この結果に対し、ブハリは選挙不正がおこなわれたとして受け入れを拒否した。この後、ブハリは北部と軍の支持をバックに、保守派の有力政治家となっていった。北部諸州がシャリーアを導入して連邦政府と対立した際には、ブハリは北部を支持しオバサンジョ大統領と対立を深めた。以後、2006年2011年に選挙にも出馬したものの、いずれも次点に終わった。2006年の選挙では彼の対抗馬は同じカツィナ州出身のウマル・ヤラドゥアであり、ブハリの地盤とする北部票が蚕食される結果に終わった。得票はヤラドゥアの70%に対し、ブハリは18%にすぎなかった.[11]。ブハリはこの結果も受け入れを拒否した。選挙後、全ナイジェリア人民党はヤラドゥア政権入りを決めたが、ブハリはこれにも異を唱え、2010年3月には全ナイジェリア人民党から離党して新党である進歩変革会議を結党した。2011年4月6日の選挙においては、ブハリは有力候補とみなされていたものの、南部を地盤とした現大統領グッドラック・ジョナサンに100万票以上の差をつけられて大敗を喫し、またも次点に終わった.[12]。これにより、開票結果が発表された18日からブハリ支持者の多い北部を中心に暴動が勃発し、500人以上が死亡した[13]

脚注[編集]

  1. ^ [1][リンク切れ]
  2. ^ Troubled journey By Levi Akalazu Nwachuku, G. N. Uzoigwe
  3. ^ Matthews, Martin P. Nigeria: current issues and historical background. p. 121.
  4. ^ Falola, Toyin and Matthew M. Heaton. A History of Nigeria. p. 214.
  5. ^ Matthews, Martin P. Nigeria: current issues and historical background. p. 122.
  6. ^ Shola Adenekan (2006年2月15日). “Obituary: Dr Beko Ransome-Kuti”. The Guardian. http://www.guardian.co.uk/news/2006/feb/15/guardianobituaries.mainsection 2011年4月20日閲覧。 
  7. ^ [2][リンク切れ]
  8. ^ Muhammad Buhari (head of state of Nigeria) - Britannica Online Encyclopedia”. Britannica.com. 2011年4月20日閲覧。
  9. ^ Development: PTF - shining in the gloom” (1998年6月). 2011年11月4日閲覧。
  10. ^ “Nigeria: Facts and figures”. BBC News. (2007年4月17日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/africa/6508055.stm 
  11. ^ "Huge win for Nigeria's Yar'Adua", BBC News, April 23, 2007.
  12. ^ Festus Owete (2011年4月21日). “Congress for Progressive Change considers going to court”. Next. 2011年4月22日閲覧。
  13. ^ [3]
公職
先代:
シェフ・シャガリ
ナイジェリアの旗 ナイジェリア最高軍事評議会議長
1983 - 1985
次代:
イブラヒム・ババンギダ