ムハンマド・タパル
ムハンマド・タパル( محمد تپر Muḥammad Tapar、 غياث الدنيا والدين أبو شجاع محمد بن ملكشاه بن الپ ارسلان Ghiyāth al-Dunyā wa al-Dīn Abū Shujā` Muḥammad b. Malik Shāh b. Alp Arslān:? - 1118年)は、セルジューク朝の第7代スルターン(在位:1105年 - 1118年)。アッバース朝カリフから授けられた尊号は、السلطان غياث الدنيا والدين أبو شجاع محمد قسيم امير المؤمنين al-Sulṭān Ghiyāth al-Dunyā wa al-Dīn Muḥammad Qasīm Amīr al-Mu'minīn。
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生涯 [編集]
異母兄との争い [編集]
第3代スルターンのマリク・シャーの四男。生母はトルコ系女性で側室。異母兄に第5代スルタンのバルキヤールク。異母弟にマフムード1世。同母弟にアフマド・サンジャルがいる。1092年に父が死去してセルジューク朝で内紛が起こると、1100年からバルキヤールクとスルタン位をめぐって5度の合戦で衝突した。このとき同母弟のサンジャルと連合しており、1104年1月にバルキヤールクと和約してアゼルバイジャンやアルメニア、イラク北部の支配権を得た。
1104年末にバルキヤールクが死去し、1105年にその息子のマリク・シャー2世が死去すると、その跡を継いでスルタンとなった。
弟との共同統治 [編集]
ムハンマドはイラン西部とイラクを中心としたセルジューク領の西部を、弟のサンジャルがホラーサーンを中心とするイラン東部を統治した。
当時ニザール派の暗殺教団によりイスラム要人の暗殺事件がシリアやイラクで続発していた[1]。このためムハンマドは領内におけるニザール派の弾圧を強化し、1107年にはイラン中央部にあったニザール派の拠点であるシャー・ディズを長期の攻防の末に陥落させて大ダーイ(宣教者)のアフマド・アッターシュを捕縛してイスファハーン市内を引き回したあと、残虐な方法で見せしめとして処刑した[2]。
1118年に死去。死後、セルジューク朝の大スルタン位は同母弟のアフマド・サンジャルが継ぎ、イラクの支配権(イラク・セルジューク朝)は長男のマフムード2世が継いだ。
脚注 [編集]
参考文献 [編集]
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