ムハンマド・シャー

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ムハンマド・シャーMuhammad Shah, 1702年 - 1748年)は、ムガル帝国第12代皇帝(在位:1719年 - 1748年)。父は第7代皇帝バハードゥル・シャー1世の皇子ジャハーン・シャー。サイイド家の信任で1719年パーディシャーの位を手にしたが、宮廷内外の混乱に頭を悩ませ、1748年に死亡した。

[編集] 生涯

[編集] 宮廷の混乱

従兄弟ファッルフシヤル以来ムガル宮廷は、皇帝が外戚、特にサイイド家の信任を得て即位してはそのサイイド家によって廃位・暗殺され、同じ西暦1719年のうちに4人の皇帝が次々と交代する、いわゆる「外戚政治」という古代ローマの軍人皇帝時代の如き混乱状態に陥っていた。

ムハンマド・シャーも前の兄弟に続き、外戚サイイド家の信任を得て即位。しかしその治世は、まさに前途多難の日々であった。

[編集] 内憂外患

有力諸侯が皇帝を見捨てて地方に独立するようになりムガル帝国は急速に解体していった。1724年、宰相アサフ・ジャーは、皇帝が外戚に完全に牛耳られて無力となったムガル宮廷を見限り、デカンニザム領に自立。同年サーダト・ハーンはアウド領、次いでアーリーヴァルディ・ハーンもベンガルの所領に独立、ムガル帝国の実質的な領土は北インドデリー周辺に限られるようになった。

隣接のイランからも大敵が迫りつつあった。かつて第2代皇帝フマーユーンを匿ったサファヴィー朝は完全に後退しており、混乱に乗じて軍人出身のナーディル・シャーアフシャール朝を創始。1736年にサファヴィー家のシャーは廃位された。

1739年、ナーディル・シャーは帝都デリーに侵攻。30,000人もの住民が殺され、略奪が行われた。ペルシア軍は「孔雀の玉座」(Peacock Throne)を含む非常に多くの宝物を盗み、デリーは廃墟と化した。1748年ムハンマド・シャーは失意のうちに死亡、パーディシャーの位は子のアフマド・シャーが継いだ。


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