ミール・アリー・シール・ナヴァーイー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ミール・アリー・シール・ナヴァーイー

ミール・アリー・シール・ナヴァーイー( مير علی شير نوايی Mīr ʿAlī Shīr Navā'ī ? - 1501年)は、ティムール朝ヘラート政権のスルターン・フサイン・バイカラに仕えた政治家、文人、詩人。特にチャガタイ語文芸の確立者としても知られる。「ナヴァーイー」( نوايی Navā'ī)は雅号である。

スルタン・フサイン・バイカラの乳兄弟で子供時代からの友人であった。出自はテュルク系のモンゴル軍人出身という説と、ウイグル人系の書記の家柄であったとの説がある。少年時代にフサインとどちらかが成功したらもう一方は成功したほうを助けるという約束を結んでおり、フサインは君主になると彼を招聘して国璽尚書(御前会議を構成する要職)に任命した。1472年には最高会議の構成員にまで取り立てられるほど信任された。だが1487年にフサインと不仲になって宮廷から追放されてアスタラーバード(ゴルガーン)の総督に任命された。事実上の左遷だったが、1年3ヵ月後にはフサインと仲直りしてヘラートに戻ることを許された。だが程なくして表舞台からの隠退を決意。その後は影ながらフサインを助けた。1501年にヘラートに帰還するフサインを迎えに出たところで急死した。

ミールは慎み深い人物で家は富裕だったが、家族を持たず金のかかる遊びや趣味も興味を示さずにフサインや高官らに贈与した。そのため1度は疑われながらも復帰して天寿を全うしたのである。またフサインの時代に王朝が再度の全盛期を迎えたのも、彼の政治手腕によるところが大きい。

一方で優れた文化人でもあり、ヘラート宮廷時代に文人や詩人、芸術家たちの保護に熱心であったことで知られている、彼の邸宅で開かれる文芸サロン(マジュリス)ではペルシア語テュルク語の詩が詠じられ、ナヴァーイー自身も優れたペルシア語やテュルク語の詩文や散文を多く残した。分けても、彼が力を注いだチャガタイ語文芸運動は、チャガタイ・アミールたちの日常語であるテュルク語を、文章語としての「チャガタイ語」として確立し、中央アジアの言語史・文学史において多大な影響・功績を残した。ナヴァーイーは『両言語に関する判決』という論文において、テュルク語・チャガタイ語を、『シャー・ナーメ』などに代表されるペルシア語の文化伝統に匹敵する、あるは凌駕出来るものとして位置づけ、その効用や美徳、優秀性を論じている。

また、ヘラート市街の郊外にイフラースィーヤという公共建築群を築くなど建設事業を盛んに行い、ティムール朝後期の文化興隆を推進する中心人物としてその一翼を担った。彼の文化興隆と文人保護のもとで歴史家ミールホーンドの『清浄園(Rawḍat al-Ṣaffā)』が成立し、さらには後年、チャガタイ語文学の愁眉である『バーブル・ナーマ』や後にバーブルに仕えたミールホーンドの外孫で『伝記の伴侶(Ḥabīb al-Siyar)』の著者ホーンダミールなども輩出する。

バーブルはのちに自身の回顧録『バーブル・ナーマ』で「あれほど芸術家を保護し、励ました人物はかつていなかった」と記録している。本人もペルシア語とトルコ語を使いこなしたが、特にそれまで活用されていなかったトルコ語を採用したことは大きく評価されており、フサインも『弁明』という著の中で「彼はその救世主のごとき息をもって、死体と化していたトルコ語に命を吹き込んだ」とある。

参考文献 [編集]

  • 小松久男・梅村坦・宇山智彦・帯谷知可・堀川徹(編)『中央ユーラシアを知る事典』平凡社、2005年
  • フランシス・ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』(創元社.2009年5月)