ミハイル・ザドルノフ

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ミハイル・ザドルノフ
Михаил Михайлович Задорнов
生年月日 (1963-05-04) 1963年5月4日(60歳)
出生地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ
出身校 プレハーノフ記念モスクワ国民経済大学
前職 経済学者、エコノミスト
現職 下院議員
所属政党ヤブロコ→)
ロシア共和党

内閣 ヴィクトル・チェルノムイルジン内閣、セルゲイ・キリエンコ内閣、エフゲニー・プリマコフ内閣
在任期間 1997年11月20日 - 1999年5月25日
 大統領 ボリス・エリツィン
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ミハイル・ミハイロヴィチ・ザドルノフロシア語: Михаи́л Миха́йлович Задо́рнов、ラテン文字表記の例:Mikhail Mikhailovh Zadornov1963年5月4日 - )は、ソビエト連邦およびロシアエコノミスト政治家1997年から1999年までロシア連邦財務大臣大蔵大臣)。ロシア連邦議会下院国家会議代議員。モスクワ出身。

生い立ち[編集]

地理学者の家庭に生まれ、少年時代をカムチャツカ地方で過ごす。こうしたことも機縁となり、後に1995年同地区から下院選挙に立候補している。1980年モスクワ第875高校を卒業。成績優等で金メダルを受賞している。1984年プレハーノフ記念モスクワ国民経済大学を卒業する。

エコノミスト[編集]

1985年から1986年兵役を経て、1988年ソ連科学アカデミー付属経済学研究所勤務。1989年「工業企業における固定資本刷新の投資効率」という論文を発表する。同年ソ連最高会議計画予算委員会専門員。1990年グリゴリー・ヤヴリンスキーを長とするロシア共和国閣僚会議国家経済改革委員会に参加し、500日計画策定に参加した。1991年ヤヴリンスキーの下、経済政策調査センター(エピトツェントル)執行役員・上級研究員に就任。ザドルノフは、エピトツェントルの経済改革プロジェクト(1991年「可能性への同意」ハーバード大学1992年「ニジニ・ノブゴロド」)に参加している。

政治家[編集]

こうした経緯もあり、1993年関係の深かったヤヴリンスキーが結成したヤブロコに参加する。1994年ヤブロコから下院国家会議議員に当選する。下院では予算・税・金融委員会委員長を勤めた。1996年再選。第2期国家会議でも予算委員長。1997年11月から1999年5月、ヴィクトル・チェルノムイルジン内閣、セルゲイ・キリエンコ内閣、エフゲニー・プリマコフ内閣で蔵相。蔵相就任はヤブロコの了解を得ていなかったため、党を除名された。

1999年5月25日第一副首相(マクロ経済、財政担当)に任命されたが、後任の蔵相にミハイル・カシヤノフ大蔵第一次官が任命されたことに抗議して、5月28日、第一副首相を辞任した。ザドルノフの辞任(解任)については、エリツィン政権でエリツィン大統領の家族を中心とする側近グループ(セミヤー)の一員として隠然たる勢力を誇るボリス・ベレゾフスキーがザドルノフを嫌い、エリツィンを動かしたともいわれる[1]。第一副首相辞任後は9月まで、IMF大統領特別代表。10月から12月まで、ロシア貯蓄銀行(ズベルバンク)大統領特別顧問。

2000年下院選挙にヤブロコから立候補し三選。第三議会では予算副委員長、予算審議委員。2004年下院議員に四選する。しかし、ヤブロコは惨敗し、当選後は会派を構成することができず、無所属・独立系となる。下院では予算・税委員会に所属。

2005年4月からロシア共和党に所属。

脚注[編集]

  1. ^ 『ロシア同時代史』、木村明生著、朝日新聞社発行、237頁

外部リンク[編集]


公職
先代
アナトリー・チュバイス
ロシアの旗 ロシア連邦財務相
第9代:1997 - 1999
次代
ミハイル・カシヤノフ