ミハイル・オストログラツキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ミハイル・ヴァシーリエヴィチ・オストログラツキー

ミハイル・ヴァシーリエヴィチ・オストログラツキーロシア語: Михаи́л Васи́льевич Острогра́дский)、ムィハーイロ・ヴァスィーリョヴィチ・オストロフラドシクィーウクライナ語: Миха́йло Васи́льович Острогра́дський1801年9月24日-1862年1月1日)は、ロシア帝国数学者、力学研究者、物理学者。オストログラツキーはレオンハルト・オイラーの系譜とされ、帝政ロシアにおける先進的な数学者の一人とされる。ウクライナ貴族オストロフラードシクィイ家ウクライナ語版に出自を持つ。

概要[編集]

オストログラツキーは帝政ロシアのポルタヴァ県ロシア語版・パシェーンナヤ(現ウクライナ・パシェーニウカウクライナ語版村)で生まれる。1816年から1820年に、 T・F・オシーポフスキーロシア語版(1765年-1832年)の下で学び、 ハリコフ大学ウクライナ語版を卒業した。1820年に、オシーポフスキーが宗教的な理由から免職させられたとき(1813年から学長を務めていたが、公的に理由を示されずに免職された)、彼は試験を受けることを拒否し、決して博士号を受け取ろうとはしなかった。1822年から1826年には、フランス、パリのソルボンヌ(パリ大学)コレージュ・ド・フランスにおいて、学んだ。1826年に帝政ロシアに戻り、サンクトペテルブルクに定住したが、1830年にはペテルブルク科学アカデミーロシア語版 の正会員に選出され、後年にはパリ科学アカデミー準会員ロシア語版にも選出されている。

彼は主に変分法、代数関数の積分、数論幾何確率論といった数学の分野で研究を行い、また数理物理や古典力学での分野でも研究を行っている。後者の分野で、彼の主要な業績の中には、弾性体の運動の研究や力学系の方程式の求積法の発展が含まれる。ここで、オイラーやジョゼフ=ルイ・ラグランジュシメオン・ドニ・ポアソンの研究を引き継いている。これらの分野の彼の研究は、ロシアでは、 N・D・ブラーシュマンロシア語版(1823年-1885年)や A・Yu・ダヴィードフロシア語版(1823年-1885年)に引き継がれ、特に N・E・ジュコーフスキー(1847年–1921年)の輝かしい研究によって引き継がれている。また、 V・Ya・ブニャコフスキーイヴァン・ヴィシュネグラーツキイi・a・ヴィシュネグラーツキーru版N・P・ペトローフロシア語版F・V・チジョーフロシア語版らは直接の教え子である。彼自身ウクライナ人であったこともあり、同郷の詩人タラス・シェフチェンコと親交があった。

オストログラツキーは1823年からの N・I・ロバチェフスキー非ユークリッド幾何学に関心を持たず、ペテルブルク科学アカデミーに論文が投稿された際は、掲載拒否している。

彼の有理関数に対する積分の方法はよく知られている。彼の式では、分数形の有理関数の積分を有理型の部分(代数関数)と超越関数の部分(対数関数アークタンジェントを伴う)に分け、有理型の部分は積分せずに定め、積分をオストログラスキーの形式に割りあてる。

 \int {R(x)\over P(x)} \, dx = {T(x)\over S(x)} + \int {X(x)\over Y(x)} \, dx,

ここで P (x ), S (x ), Y (x )は既知の次数p ,s ,y の多項式で、R (x )はp -1以下の既知の多項式、 T (x ) 、X (x )は次数s -1、y -1以下の未知の多項式である。

オストログラツキーは、1861年12月20日(当時のユリウス暦。今日のグレゴリオ暦では1862年1月1日)に、ポルタヴァ県・ポルタヴァで没した。遺言により、遺体は故郷の村で葬られた。

関連項目[編集]

  • 発散定理(オストログラツキー=ガウス の定理)