マルク・ルッテ

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マルク・ルッテ
Mark Rutte
Mark Rutte-6.jpg
マルク・ルッテ(2012年)
生年月日 1967年2月14日(47歳)
出生地 オランダの旗 オランダデン・ハーグ
出身校 ライデン大学 (M.A.)
現職 政治家
公務員
教員 [1]
所属政党 自由民主国民党
サイン Accession Treaty 2011 Mark Rutte signature.svg

任期 2010年10月14日 -
元首 ベアトリクス

オランダの旗 オランダ王国
社会問題・雇用政務次官
任期 2002年7月22日 - 2004年6月17日
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マルク・ルッテオランダ語: Mark Rutte, 1967年2月14日 - )は、オランダの政治家。自由民主国民党 (VVD) 所属。現在、同国首相(2010年10月14日 - )。第1次バルケネンデ政権で社会問題・雇用政務次官(2002年7月22日 - 2004年6月17日)、第2次バルケネンデ政権で教育・文化・科学政務次官(2004年6月17日 - 2006年6月27日)を歴任した。2006年5月31日には党首に選出され、第二院の会派代表となるべく教育・文化・科学政務次官を辞任した。

概要[編集]

2006年の総選挙で自由民主国民党の比例名簿筆頭候補者 (lijsttrekker) となった。2010年の総選挙でも比例名簿筆頭候補者となり、この選挙では自由民主国民党が第1党となった。2010年10月8日、ルッテは組閣担当者 (Formateur)、すなわち次期首相に指名された。キリスト教民主主義系政党や労働党以外の政治家の首相就任は、1913年から1918年のピーター・コルト・ファン・デル・リンデン以来となった[2]

経歴[編集]

政界入りまで[編集]

ルッテはヒムナシウムに通い、1979年から1985年までの間、とくに芸術を専攻した。ルッテはもともと音楽学部へ進学してコンサート・ピアニストを志していたが、実際には1992年までライデン大学歴史学を学んだ。その傍らでルッテは自由民主国民党の青年団体である「自由と民主主義」の役員を務め、1988年から1991年にかけては代表を務めた。大学を卒業後は就職し、ユニリーバに勤務した。1997年までユニリーバで人事に携わり、組織再編では主導的な役割を果たした。その一方で1993年から1997年まで自由民主国民党の全国委員会の委員を務めた。1997年から2000年まではユニリーバの子会社で人事部長を務める。2000年にはコーポレート人事グループに入る。2002年からはユニリーバの別の子会社で人事担当取締役に就任する。このとき同時に、同年の総選挙に備えて自由民主国民党の候補者委員会の委員も務めた。

政歴[編集]

2002年、ルッテは第1次バルケネンデ政権で社会問題・雇用政務次官に任命され、2003年の総選挙後も同職にふたたび任命された。在職中、ルッテは地方自治体における福祉や労働安全・衛生に携わった。2003年の総選挙で立候補し、1月30日から5月27日までの短期間ながらも第二院の議員となった。

2004年6月17日、ルッテはアンネッテ・ナイスの後任として教育・科学政務次官に任命された。教育・科学政務次官就任を要請されたとき、ルッテには選択の余地がほとんどなかった。ルッテはしだいに自由民主国民党の指導部で頭角を現していき、2006年の地方選挙では選挙責任者となった。

在任中、ルッテは高等教育制度をより国際的に競争力を持たせようと力をいれ、教育市場における消費者としての学生の地位を向上しようとするなど、教育制度をより市場志向に変えようとした。

2006年党首選挙[編集]

2006年の地方選挙で自由民主国民党が敗北し、ヨジアス・ファン・アールトセンが党首を辞任したことで党内では比例名簿筆頭候補者、すなわち党首を選挙することとなり、ルッテはリタ・フェルドンクイェレケ・フェーネンダールとその座を争った。2006年5月31日、ルッテは党員の 51.5% の支持を得て当選した。このときルッテには党指導部や元防衛相フランク・ドゥ・グラフェロッテルダム市長イヴォ・オプステルテンフリースラント州知事エド・ナイペルスら有力政治家が支援した。また自らが代表を務める青年団体「自由と民主主義」もルッテを支持した。この選挙期間中にルッテは「党をみんなのものにする。エリートだけの党にしない」と約束した。ルッテの若さを前面に出した姿は、労働党元党首ワウテル・ボスの姿に重ねられた。

比例名簿筆頭候補者となると、ルッテは党の雰囲気を「特権的な少数」ではなく誰もが快適なものと感じられるように変えていきたいということを前面に打ち出した。また労働党の社会保障制度は保守的すぎるとして、次の総選挙後には連立を組まないとも述べた。このころルッテは当時連立を組んでいたキリスト教民主アピールについて、「自由民主労働党とうまくやっていける党」としていた。

2006年6月28日、ルッテは教育・科学政務次官を辞任し、自由民主国民党の議会会派代表として議員に復帰した。

2006年総選挙[編集]

2006年の総選挙で自由民主国民党はルッテをリーダーに掲げる戦略を打ち出したが、これは出だしでつまずくこととなった。このときルッテに対して、党内から選挙戦略について批判が起こったのである[3]。ルッテはリタ・フェルドンクやヘリット・ ザルムといった党の議員から、ワウテル・ボスやヤン・ペーター・バルケネンデといった次期首相候補と比べると見劣りがすると言われたのであった。11月27日に開票の結果が明らかとなり、ルッテが553,200票を得たのに対してフェルドンクは620,555票を得たことがわかった[3]。その後、フェルドンクの党に対する批判が繰り返され、2007年9月14日、ルッテはフェルドンクを議会会派から除名した。

首相時代[編集]

ルッテと選挙責任者ステフ・ブローク
2010年総選挙の勝利を祝う

2010年の総選挙でルッテはふたたび自由民主国民党の比例名簿筆頭候補者となった。自由民主国民党はこの選挙で勝利し、31議席を得て院内最大会派となった[2]。総選挙の結果を受けて4か月近くにわたって連立協議が続けられ、21議席を得たキリスト教民主アピールと少数連立政権を発足させることで合意した。この連立政権は24議席を得た自由党の閣外協力を受けることとなった。

規程では2015年5月までルッテ政権は続く予定であったが、経済政策を巡って自由党と折り合いがつかなかった。緊縮財政を巡って自由党党首のヘルト・ウィルダースが交渉の席を蹴ったため、2012年4月23日、ルッテは内閣総辞職を発表、政権は崩壊した[4]。2012年9月12日に総選挙が行われ、自由民主国民党が第1党を維持[5]。第2次ルッテ政権が発足した。

脚注[編集]

  1. ^ Rutte heeft bijbaan als docent op hbo” (オランダ語). Telegraaf (2006年10月6日). 2010年10月1日閲覧。
  2. ^ a b The Netherlands shifts to the right” (英語). nrc.nl (2010年6月10日). 2010年10月1日閲覧。
  3. ^ a b Onvrede binnen VVD over Rutte” (オランダ語). Algemeen Dagblad (2006年10月31日). 2010年10月1日閲覧。
  4. ^ “オランダで内閣総辞職、財政緊縮策めぐり政党間協議決裂”. AFPBB News. (2012年4月24日). http://www.afpbb.com/article/politics/2873720/8839242 
  5. ^ “オランダ総選挙、ルッテ首相が勝利宣言 他党との連立交渉に入る” (日本語). 産経新聞. (2012年9月13日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/120913/erp12091320240005-n1.htm 2013年2月13日閲覧。 

外部リンク[編集]

  • Mark Rutte(オランダ語) - 自由民主国民党による
  • Rutte, M.(オランダ語) - 第二院による


公職
先代:
ヤン・ペーター・バルケネンデ
オランダの旗 オランダ王国首相
第50代:2010 -
現職
オランダの旗 オランダ王国総務大臣
2010 -
先代:
アンネッテ・ナイス
オランダの旗 オランダ王国
教育・文化・科学政務次官

2004 - 2006
次代:
ブルノ・ブラインス
先代:
ハンス・ホーヘルフォルスト (en
オランダの旗 オランダ王国
社会問題・雇用政務次官

2002 - 2004
次代:
ヘンク・ファン・ホーフ
党職
先代:
ヨジアス・ファン・アールトセン (en
自由民主国民党党首
2006 -
現職
自由民主国民党第二院院内会派代表
2006 - 2010
次代:
ステフ・ブローク (en