マルクス・アントニウス・クレティクス

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マルクス・アントニウス・クレティクスラテン語: Marcus Antonius Creticus紀元前115年頃 - 紀元前72年または紀元前71年頃)とは、紀元前1世紀の共和政ローマの政治家・軍人である。執政官(紀元前99年)、ケンソル紀元前97年を歴任しオラトル(Orator、雄弁家)とも称された同名の父マルクス・アントニウス・オラトルを持つ名門の出であった。紀元前63年マルクス・トゥッリウス・キケロと同僚の執政官となったガイウス・アントニウス・ヒュブリダは兄に当る。生年ははっきりしないが、プラエトル(法務官=就任資格が40歳以上)への就任年から逆算した前115年頃とされる。

略歴[編集]

父アントニウス・オラトルはルキウス・コルネリウス・スッラを支持するオプティマテスに属していたため、紀元前87年ガイウス・マリウスらがローマを占領・支配下へ置いた際に殺害された。なお、当記事のアントニウスのその間の動向ははっきりしないが、父の死去から13年後の紀元前74年プラエトルに選出された。

翌年(紀元前73年)にポントスミトリダテス6世が資金援助も行っていた地中海一帯を荒らす海賊の掃討を任されたが、後にグナエウス・ポンペイウスへ与えられた「ガビニア法」(当項を参照)と同程度の強大な権限がアントニウスにも与えられた(ガイウス・サッルスティウス・クリスプス「Historiae」3、ウェッレイウス・パテルクルス ii. 31、マルクス・キケロ「ウェッレス弾劾演説」iii. 91)

クレタ島(赤色部分)

しかし、アントニウスは海賊の征討に全く失敗したに留まらず、海賊から保護すべき属州から財貨を収奪する有様であった。アントニウスは海賊と手を結んだクレタ人との海戦に臨んだが、自らが率いるローマ艦隊の多くが撃沈され、完敗を喫した。アントニウスはクレタ人と講和条約を結んだが、シケリアのディオドロス(xl. 1) は「自らの恥を糊塗したに過ぎない」と評した。

この敗北によりローマ市民からアントニウスはクレティクス(本来は「クレタ征服者」の意味)と嘲りを込めて称された。アントニウスは海戦からすぐ後の紀元前72年(または紀元前71年)頃に死去した。

プルタルコスはアントニウスについて、善良で気風が良い人物であったと評している(プルタルコス英雄伝」アントニウス 1)

アントニウスはガイウス・ユリウス・カエサルの従姉に当るユリア・アントニアとの間に後の三頭官マルクスを含む3人の息子(マルクス以外は、ガイウスおよびルキウス)を得た。

参考文献[編集]