マリー・アウグステ・フォン・アンハルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
アンハルト公女マリー・アウグステ
マリー・アウグステと息子のカール、1917年

マリー・アウグステ・フォン・アンハルトMarie Auguste Prinzessin von Anhalt, 1898年6月10日 バレンシュテット - 1983年5月22日 エッセン)は、ドイツアンハルト公エドゥアルトの娘で、プロイセン王子ヨアヒムの妻。全名はマリー・アウグステ・アントイネッテ・フリーデリケ・アレクサンドラ・ヒルダ・ルイーゼMarie Auguste Antoinette Friederike Alexandra Hilda Luise)。

生涯[編集]

アンハルト公子エドゥアルトとその妻でザクセン=アルテンブルク公子モーリッツの娘であるルイーゼの間の次女として生まれた[1][2]。父エドゥアルトは1918年に公爵位を継いだが、その年のうちに急死した。1916年3月11日にベルリンにおいて、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の末息子であるプロイセン王子ヨアヒムと結婚した。夫妻の間には翌1917年、長男のカールが誕生した[1][3]

アウグステはドイツ革命後まもなくヨアヒムと離婚したが、ヨアヒムは1920年7月18日にポツダムで自殺した。ヨアヒムは鬱病だったと言われているが、離婚が彼の大きな精神的負担になったのは間違いなかった[4]

ヨアヒムの死後、その次兄アイテル・フリードリヒ王子が遺児カールを養育することになった[5]。しかし1921年にこの状態は違法との判決が下り、実母のマリー・アウグステにカールの全面的な養育権が認められた[6]。この裁判ではヨアヒムに仕えた大勢の召使やアイテル・フリードリヒが、マリー・アウグステは自ら家庭を捨てた女で、子供を養育する資格のある人間でないと証言したが、マリー・アウグステの嘆願が実って彼女に有利な判決が出た。

1922年、マリー・アウグステは、ヨアヒムとの結婚契約ではホーエンツォレルン家が彼女の生活を経済的に援助する約束であるとして、元義父のヴィルヘルム2世を訴えた[7]。皇帝側はホーエンツォレルン家の家内法はもはや無効であるため、皇帝にマリー・アウグステを援助する義務はないと主張した。1926年9月27日、マリー・アウグステはベルリンにおいて幼友達のヨハンネス・ミヒャエル・フォン・ロエン男爵(Johannes Michael Freiherr von Loën)と再婚したが、1935年に離婚した[1][8][9]

晩年、経済的に苦しくなったマリー・アウグステは、複数の人間と養子縁組をして、家名を与える代わりに養子たちから金を受け取った[8]。1980年、彼女はマッサージ師のハンス・ロベルト・リヒテンベルク(Hans Robert Lichtenberg)を養子にとり、リヒテンベルクはフレデリック・プリンツ・フォン・アンハルトを名乗って欧米の社交界に出入りするようになった[8](ただし、マリー・アウグステの実家アンハルト公爵家はフレデリックを一族の人間と認めていない[10])。フレデリックは1986年に女優のザ・ザ・ガボールと結婚し、その9番目の夫になった。

1983年、エッセンノルトライン=ヴェストファーレン州デュッセルドルフ行政管区)で亡くなった[1]。84歳だった。

子女[編集]

最初の夫ヨアヒムとの間に息子を1人もうけた。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d Lundy, Darryl. “The Peerage: Marie Auguste Prinzessin von Anhalt-Dessau”. 2010年9月19日閲覧。
  2. ^ “Youngest Son of Kaiser Engaged”, The New York Times (Amsterdam), (15 October 1915), http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9B0CEFD61138E633A25756C1A9669D946496D6CF&scp=2&sq=Duke+of+Anhalt+saxe-altenburg&st=p 
  3. ^ “New Grandson For Kaiser”, The New York Times (Berlin), (16 December 1916), http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9906E1DD153BE633A25755C1A9649D946796D6CF&scp=4&sq=joachim+of+prussia+anhalt&st=p 
  4. ^ “Two of ex-Kaiser's Sons Bring Suits For Divorce”, The New York Times (Paris), (8 January 1920), http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9404E5DB153EE433A2575BC0A9679C946195D6CF&scp=9&sq=prince+joachim+divorce&st=p 
  5. ^ “Get's Ex-Kaiser's Grandson”, The New York Times (Berlin), (14 October 1921), http://proquest.umi.com/pqdweb?index=5&did=113322100&SrchMode=2&sid=1&Fmt=10&VInst=PROD&VType=PQD&RQT=309&VName=HNP&TS=1265776743&clientId=437 
  6. ^ “Hohenzollern Laws Ruled Out of Court”, The New York Times (Berlin), (28 July 1921), http://proquest.umi.com/pqdweb?index=4&did=107021044&SrchMode=2&sid=1&Fmt=10&VInst=PROD&VType=PQD&RQT=309&VName=HNP&TS=1265776743&clientId=437 
  7. ^ “Widow of Young Prince Sues Kaiser For Support”, The New York Times (Berlin), (6 January 1922), http://proquest.umi.com/pqdweb?index=6&did=107042043&SrchMode=2&sid=1&Fmt=10&VInst=PROD&VType=PQD&RQT=309&VName=HNP&TS=1265776743&clientId=437 
  8. ^ a b c Eilers Koenig, Marlene. “Princess Marie Auguste”. Royal Musings. 2010年9月19日閲覧。
  9. ^ “Princess Joachim Weds”, The New York Times (Berlin), (29 September 1926), http://proquest.umi.com/pqdweb?index=8&did=98513589&SrchMode=2&sid=1&Fmt=10&VInst=PROD&VType=PQD&RQT=309&VName=HNP&TS=1265776743&clientId=437 
  10. ^ Familie heute” (German). Anhalt-Askanien. München: Julia Katharina von Anhalt. 2010年9月2日閲覧。