マリオ・ランツァ
| Mario Lanza マリオ・ランツァ |
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「ニューオリンズの美女」(1950年) |
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| 本名 | アルフレード・アーノルド・ココッツア |
|---|---|
| 別名 | Freddie |
| 生年月日 | 1921年1月31日 |
| 没年月日 | 1959年10月7日(満38歳没) |
| 出生地 | |
| 国籍 | アメリカ合衆国 |
| 民族 | イタリア系アメリカ人 |
| 職業 | 歌手、俳優 |
| ジャンル | オペラ,映画 |
| 活動期間 | 1942年 - 1959年 |
| 活動内容 | 映画、歌手 |
| 主な作品 | |
| 映画 『歌劇王カルーソ』 |
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マリオ・ランツァ(Mario Lanza、本名:アルフレード・アーノルド・ココッツァ(Alfredo Arnold Cocozza)、1921年1月31日 - 1959年10月7日)は、アメリカ合衆国の歌手、映画俳優。力強い独特なテノールの歌唱でコンサート、ラジオ番組への出演等を通じ、時代の寵児となった。特に20世紀前半を代表する世界的な名歌手エンリコ・カルーソーの生涯をドラマチックに描いた伝記映画『歌劇王カルーソ』はランツァの人気を決定的なものとし、その後本格的なオペラ歌手への転身を図ったが、身体と精神を患い夭折。38歳没。
日本では『歌劇王カルーソ』以外の映画が正式に公開されることが無く、またLPレコードの時代にも国内盤があまりリリースされず、長い間正しく評価される機会が無かった。
3大テノール(パヴァロッティ・ドミンゴ・カレーラス)等がランツァの功績を讃え、度々その旨をメディアに向け発言し、ランツァに対しての再評価がなされている。
目次 |
略史 [編集]
- 1921年1月31日:ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれる。
- 1927年:セントメリー・マグダレーネディ・パッツィスクール 入学
- 1932年:ヴェア・ジュニアハイスクール 入学
- 1935年:サザンハイスクール 入学
- 1936年:フィラデルフィアのバリトン歌手スカルドゥッツィオから指導を受ける
- 1938年:イレーネ・ウィリアムスに師事
- 1940年:フィラデルフィアフォーラムのハフ監督がクーセヴィッキーに紹介
- 1942年:クーセヴィッキーの主宰するバークシャー音楽院へ奨学、正式に舞台デビュー
- 1943年:兵役召集
- 1944年:コロンビア・アーティスト・マネジメントとレッドシールレーベルの歌手として契約
- 1945年:ベティ・ヒックスと入籍
- 1947年:MGMのオーディションに合格し俳優としての専属契約を締結
- 1948年:ニューオーリンズ・オペラでプッチーニ『蝶々夫人』にピンカートン役で出演
- 1949年:映画『真夜中のキス』で初主演
- 1957年:イタリアへ居を構える
- 1959年10月7日:逝去
生涯 [編集]
オペラ歌手を目指して ~マリオ・ランツァの誕生~ [編集]
イタリア系移民を両親に、ペンシルベニア州フィラデルフィアのイタリア人街の一角、クリスティアンストリート336番地に生まれる。尚、1921年には20世紀前半を代表するテノール歌手、エンリコ・カルーソーが亡くなった年でもあり、このことからランツァを『カルーソーの生まれ変わり』とするキャッチコピーがある。兄弟は居ない。
祖父を初めとする親戚9世帯が同居していたが、1930年に、祖父の支援の下近くのマーシーストリート2040番地へ移り住み、住環境は改善された。
ハイスクールの時に既に体重が90㎏を超えており、また学業よりもスポーツと音楽に傾倒していたと担任の教師が語っている。1932年5月5日にフィラデルフィアのオーロラ協会が主宰したカルロ・ニコシア作のオペレッタ『愛の夢:(原題Amore-vita)』に出演している記録がある。[1]
その後師事したイレーネ・ウィリアムスはアルフレードの才能を見抜き、時のフィラデルフィアフォーラムの音楽監督だったウィリアム・ハフに紹介し、1942年に同地を訪れた21歳のときユダヤ系ロシア人指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーに出会う。
クーセヴィッキーは直ちにアルフレードの才能を見出し、マサチューセッツ州タングルウッドのバークシャー音楽センターへ奨学生としてランツァを送りこむ。この時にはクーセヴィッキーの助手を務めていたバーンスタインやボリス・ゴルドフスキー等との研磨を重ね、1942年8月7日、同地でのオットー・ニコライ作曲『ウィンザーの陽気な女房達』フェントン役で本格的な舞台デビューを飾った。また、翌日にはプッチーニ『ラ・ボエーム』ロドルフォ役にも出演した。(第3幕のみ)
高名な評論家ノエル・ストラウスはニューヨーク・タイムズ紙上でアーノルドを讃え、「基礎訓練の強化と正しく導かれるように研鑽することが必要」としながらも基本的には好感を示すコメントを残し、アルフレードは一気に注目を浴びることになった。
マネジメント契約の話も進みつつあったこの頃、アルフレードはステージネームを定着させることを決める。父と母の旧姓を取り入れ、アル・ココッツアやフレッド・ランツァ等を考えたが、最終的に母からの「私の想いを繋げてほしい」との申し出を受け、母の名前を男性称で読みマリオに、そして苗字を母方の旧姓ランツァに決め、ここにマリオ・ランツァが誕生した。この後に交わされたコロンビア・アーティスト社を初めとするエージェントとの契約も全てマリオ・ランツァをアーティスト名としている。
折からの第二次世界大戦でランツァは召集され、陸軍航空部隊の宣伝部隊員[1]として前線向けラジオ放送で様々の歌唱を聴かせた。
終戦に前後して除隊したランツァは指揮者レナート・チェリーニらに師事してオペラのレパートリー習得に努めた。また1945年10月にはCBSラジオと契約、音楽番組"Great Moments in Music"に出演[2]して、はじめて全米の聴取者にその声を聴かせた。この全国放送のおかげなどもあって、ランツァは名テノール、ジーリやラウリ=ヴォルピを教えたこともある高名な声楽教師エンリコ・ロザーティの知遇を得、彼のもとで1年超にわたってさらなる訓練を積むことができた。生まれついての素材の良さだけで歌唱を続けてきたランツァは、ロザーティの指導で素晴らしいテノーレ・リリコ・スピントに変身した。
コンサート、そして映画のスターに [編集]
コロムビア・レコード社はバス・バリトンのジョージ・ロンドン、ソプラノのフランシス・イーンドとランツァの3若手歌手を「ベルカント・トリオ」と命名、1947年7月からほぼ1年間にわたって、アメリカ合衆国をはじめとする北米各地で86回のコンサートを打ったのである。美声・美貌のテノール、マリオ・ランツァは、このトリオの中でも花形であった。
アメリカ娯楽産業の頂点、映画業界ももちろんこの新進テノールを見逃さなかった。1947年に巨大映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー社は7年間の独占映画出演契約をランツァと取り交わすのである。彼の主演映画作品『真夜中のキス (That Midnight Kiss )』(1949年)および『ニューオリンズの美女 (The Toast of New Orleans )』は大ヒットし、映画からのシングル盤もミリオン・セラーとなった。1951年にはエンリコ・カルーソーの伝記映画『歌劇王カルーソ(The Great Caruso )』に主演、カルーソーに扮して多くのオペラ・アリアを歌いかつ演じた。
遠のくオペラ・デビュー [編集]
こうして興行的には瞬く間に頂点を極めた感のあったランツァだったが、皮肉なことに彼が本来目指していたはずのオペラ歌手としての本格デビューはどんどん遠のいていった。ランツァの希望によりMGMの拘束期間は年間6か月を超えないこととされ、彼は残り半年をオペラの勉強に充てる腹積もりだったが、ハリウッド・スターにつきものの社交でその貴重な日時は雲散霧消した。それでも1948年にはニューオーリンズ・オペラでプッチーニ『蝶々夫人』ピンカートン役を演じ、新聞評によればかなりの高評価を得ていたが、同劇場での翌年の契約にあった、ヴェルディ『ラ・トラヴィアータ』アルフレード役は、結局のところ1年のうちに役を習得することができず、自らキャンセルしている。
一方、これまでこのフィラデルフィア出身のイタリア移民の子のオペラ挑戦に好意的な眼差しを送っていた「シリアスな」音楽評論家たちは、次第にランツァに対する敵意を示すようになる。「オペラ舞台に殆ど立っていない青二才俳優が、こともあろうに史上最高のテノール、カルーソーを演じるとは」といった論調が次第に支配的になり、また彼らの鋭い耳とペンはランツァの歌唱上の瑕疵に容赦なく襲いかかった。タイム誌1951年のある号は匿名記者の筆で、ランツァの歌唱スタイル上の欠陥、このままではその美声も失うのではないかとの懸念(これは不幸にも的中することになる)のみならず、彼がオペラ歌手として要求される知性に欠けるのではないかという点までをも皮肉な筆致で綴っている。
ランツァをフランク・シナトラらと同列に見做し、熱烈に愛するファンは多かった。しかしオペラ愛好家たちは、30歳にしてスターダムにのしあがったランツァに暖かくはなかった。「実は彼は声量がまったくないので、オペラの舞台には立てないらしい」、「映画撮影時には何度も録音をし直して、テープを継ぎはぎだらけにしてやっと完成するらしい」このような噂[3]がまことしやかに囁かれた。
それでもランツァの一般への絶大な人気を当て込んでか、有名オペラ・ハウスからの出演の打診は少なくはなかった。メトロポリタン歌劇場、サンフランシスコ・オペラなど全米の歌劇場はもちろんのこと、1950年にはミラノ・スカラ座の音楽監督である名指揮者ヴィクトル・デ・サバタまでもがロサンジェルスにあるランツァの自宅を訪問、1950年-51年シーズンのウンベルト・ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』タイトル・ロールでの出演を打診してきたという。
挫折のはじまり [編集]
しかしランツァはそれらオファーの全てを断り続ける。その真意は不明である。単にハリウッド・スターとしての成功に傷が付くかも知れないリスクを冒したくなかったのかも知れないし、いま準備不足のまま大劇場にデビューし失敗すれば、彼のオペラ歌手としての夢は永遠に絶たれるだろうと知っての賢明な選択だったかもしれない。賢明ではなかったのは、この頃から彼がアルコールに逃避の途を求めるようになったことである。彼のマネージャーが投資に失敗しランツァの個人家計が破産寸前に追い込まれる、税務当局から25万ドルにも及ぶ過年度追徴課税を課されるなどご難は続き、1954年からほぼ2年間、ランツァはほとんど活動停止状態だった。
ランツァが復活を果たしたのは1956年のワーナー・ブラザーズ映画『セレナーデ (Serenade )』である。2年間のブランク、飲酒などの不摂生のためか声質に翳りが生じ、その歌唱は以前より不安定である、との評もあり、また興行収入的には振るわなかった。しかし、ここで映画が以前のようなヒットとならなかったことでランツァはひとつの決心をすることができた。オペラ歌手としての再出発である。1957年5月、マリオ・ランツァは妻子と共にイタリアのローマへと向かった。
ローマへ、そして早すぎた死 [編集]
到着早々彼は映画『ローマの7つの丘 (The Seven Hills of Rome )』の撮影、同年末にロンドンそして翌年にはヨーロッパ大陸ツアーを行った。これらはすべて興行的にはかなりの成功であったが、一方でランツァの健康上の懸念も明らかになってきた。この頃にはフィルム映りからも彼が肥満傾向であるのは明らかであったし、静脈炎、高血圧、痛風などさまざまの不調が彼を苛んだ。しかし彼は医者の警告を無視してコンサート・ツアーを継続したし、その食生活上の不摂生も改まることはなかった[4]。
1958年、欧州リサイタルツアーを行い、ベルギー・オランダ・フランスを訪れたが概ね成功裏に終了、1958年4月13日にドイツのキールで行われた演奏は事実上、公の場における最後のリサイタルとなった。
彼は本格的なオペラの勉強をすすめ、ローマ歌劇場1960年-61年シーズンにレオンカヴァッロ『道化師』カニオ役でデビューするスケジュールも公式に発表された。しかし上記の症状に加え腎不全、動脈硬化症などが彼を襲う。1959年4月には軽度の心臓発作で入院、療養中の8月には二度の肺炎を併発した。
同年10月7日、肺塞栓症のためローマの病院で亡くなったが、アルコールと薬物への過度な依存と当時流行していたトワイライトスリープという薄暮睡眠型のダイエットを強行していたこと等が影響していたと思われる。38歳であった。
ランツァの墓はアメリカ、カリフォルニア州のカルバーシティーにあるホーリー・クロス墓地にある。
家族 [編集]
両親 [編集]
父のアントニオ・ココッツアは1893年にイタリア共和国モリーゼ州イゼルニア県フィリニャーノ で生まれ12歳の時にアメリカへ移民としてやって来た。彼の最初の就職先はビクタートーキングマシン社。愛国者でオペラをこよなく愛していた。母のマリア・ランツァは1903年生まれ、やはりイタリア系移民で南部のアブルッツォ州ペスカーラ県Tトッカ・ダ・カサウル出身、6歳の時に母と共に渡米した。
二人は1920年に結婚、しかしアントニオは第一次世界大戦では米兵として出陣、欧州のマース・アルゴンヌ戦線で負傷し、帰国後には退役軍人としての給付金を受け取る生活が続いており、裕福とは言えなかったが、自宅で好きなオペラのレコードを聴くことを心の拠所としていた。このことは、ランツァの幼少時に大きく影響を与えている。
そんな家庭環境の下、母は当初は安定した生活を望み、一度はランツァをプレップスクールにまで送り弁護士としての途を進むことを諭すが、マリア本人も歌手を夢見た時代があり、最終的に息子を法曹の途へ押しやることはなかった。
二人はランツァ夫妻の死後、残された四人の子供達を全員引き取って育て上げた。
アントニオは1970年に、マリアは1975年に、カリフォルニアで息を引き取った。
妻 [編集]
ランツァは1945年に戦友の妹、ベティ・ヒックス(本名:エリザベス・ジャネット・ヒックス)と入籍したが、ランツァがイタリアで客死した後失意のうちにアメリカへ帰国。翌1960年に薬物とアルコール依存症で亡くなった。
子供たち [編集]
遺された四人の子供達も、皮肉なことにその三人は比較的に若いうちに亡くなった。
長女のコリーン・ランツァ・ディヴィス(長女)は歌手としての途を歩み、1971年にヴェネズエラ大統領ロドリゲスの甥と結婚するが間もなく離婚。その後は、舞台脚本家としても活動し、1977年に再婚したが1997年に交通事故で死去した。ディモンとマルクの二人は不動産を売却し飲食業への事業展開を試みたが思うような成功は収められなかった。
| 氏名 | 生年 | 没年 | 死因 | 没年齢 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 長女 | コリーン・ランツァ・ディヴィス Colleen Lanza Davis |
1948/12/9 カリフォルニア・ロスアンジェルス |
1997/8/4 カリフォルニア・ロスアンジェルス |
交通事故 | 48 |
| 次女 | エリサ・ランツァ Elisa Lanza-bregman |
1950/12/3 カリフォルニア・ロスアンジェルス |
健在 | ||
| 長男 | デイモン・アンソニー・ランツァ Damon Anthony Lanza |
1952/12/12 カリフォルニア・ロスアンジェルス |
2008/8/16 カリフォルニア・ロスアンジェルス |
心臓発作 | 55 |
| 次男 | マルク・ランツァ Marc Lanza |
1954/5/19 カリフォルニア・ロスアンジェルス |
1991/6/27 カリフォルニア・ロスアンジェルス |
心臓発作 | 37 |
映像作品 [編集]
ランツァは存命中に9本の映画に出演、その内7本は主演、またテレビ創成期のバラエティ番組にもゲスト出演していた。
映画 [編集]
兵役中に出演した『サモトラケのニケ』(原題:Winged Victory)は20世紀フォックス社とアメリカ空軍との制作による戦中のいわゆる国策映画で、コーラス団員の一員としてエキストラ扱いされており、出演者としてクレジットされていない。
1947年からの7年間に渡るメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)との契約期間はいわゆるMGMの全盛期でもあり、その資金力とネットワークを駆使したMGMの配給戦略はランツァ本人を国際的に宣伝するために大いに役立った。しかし前述の通り、『皇太子の初恋』における現場スタッフとの確執後にユニバーサルで制作された『セレナーデ』は興行的にも成功とは言えず、その後も活動の居をイタリアに移したがその栄光を取り戻すには至らなかった。
なお、MGMが、創立50周年を記念して1974年に製作した、ミュージカル作品のアンソロジーとも言える『ザッツ・エンターテインメント』part Iでは、『ニューオリンズの美女』のワンシーンからキャスリン・グレイソンと「ビーマイラブ」をデュエットするシーンと創立25周年の祝賀パーティに参席したランツァの映像を視ることができる。
| 制作年 | 題名 | 原題 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1944年 | サモトラケのニケ | Winged Victory | ノークレジット |
| 1949年 | 真夜中の口づけ | That Midnight Kiss | |
| 1950年 | ニューオリンズの美女 | The Toast of New Orleans | |
| 1951年 | 歌劇王カルーソ | The Great Caruso | |
| 1954年 | 皇太子の初恋 | The Student Prince | 歌唱吹替のみを担当[5] |
| 1956年 | セレナーデ | Serenade | |
| 1958年 | ローマの七つの丘 | Arrivederci Roma/Seven Hills of Rome | |
| 1959年 | 初恋 | For the First Time | ローマ・ベルリン・ザルツブルクにある実際の歌劇場でのロケを敢行 |
テレビ [編集]
エド・サリヴァンショー等に出演した断片的な記録がアメリカのベル・カントソサエティ社から一枚のDVDにまとめられ発売されている。本人出演の部分は基本的に白黒映像。同DVDには関係者のインタビュー映像も収録されている。
また、1983年にはアメリカのPBSが『アメリカンカルーソー物語(原題:Mario Lanza: The American Caruso)』と題して68分のドキュメンタリーを制作、ナレーションをプラシド・ドミンゴが務めている。
その他にもイギリスのBBCで2005年に放送された60分のドキュメンタリー『神に召された歌声(原題:Mario Lanza: Singing to the Gods)』もある。
録音 [編集]
スタジオ録音と放送用音源としての記録をあわせると1949年から亡くなるまで、426曲の録音が残されており、正規盤の他に放送音源を中心としてかなりの海賊盤が存在している。ランツァはコカ・コーラショー等のラジオ番組にも頻繁に出演していた。下記はRCAレーベルで発売された主なCDアルバム。
国内盤 [編集]
- ランツァ/学生王子のセレナード&フニクリ・フニクラ~マリオ・ランツァ名唱集 :BMG JAPAN
RCA100周年記念企画、RCAレッド・シール・ヴィンテージ・コレクションとして発売された。
【収録曲】
- フニクリ・フニクラ(トゥルコ~デンツァ)
- 君に告げよ(フスコ~ヴァルヴォ)
- マリア・マリ(ルッソ~ディ・カプア)
- 夜の声(ラルディーニ~デ・クルティス)
- 私のために歌っておくれ(ボヴィオ~デ・クルティス)
- 恋に落ちた兵士(カリファーノ~カニオ)
- お母さんよどうしたのかしら(ガバルド~カンバルデルラ)
- はるかなるサンタ・ルチア(マリオ)
- 輝く窓辺(作曲者不詳)
- 君を求めて(ボヴィオ~デ・クルティス)
- 五月の夜(ピサノ~チオフィ)
- 情熱(ボヴィオ~タリアフェリ~ヴァレンテ)
- 歌劇「道化師」~衣装をつけろ(レオンカヴァルロ)
- 歌劇「トスカ」~星も光りぬ(ヴェルディ)
- 歌劇「リゴレット」~女心の歌(ヴェルディ)
- 歌劇「ジョコンダ」~空と海(ポンキエルリ)
- ミュージカル「学生王子」~セレナード(ロンバーグ)
[演奏] マリオ・ランツァ(テノール) 1.‐12. 管弦楽団&合唱団 13.‐16. RCAビクター管弦楽団/指揮:コンスタンティン・カリニコス 17. 管弦楽団/指揮:コンスタンティン・カリニコス [編曲] 1.、4.、5‐8.、12:エンニオ・モリコーネ、2.、3.、9.‐11.:カルロ・サヴィーナ
[録音:1.‐12.=1958年11月~12月、イタリア/13.‐15.=1950年5月15日、16.=1950年5月29日/17.=1954年]
- MARIO! LANZA AT HIS BEST/THE VAGABOND KING/フニクリ・フニクラ~マリオ・ランツァ・ベスト :BMG JAPAN
HybridCD盤で発売されたアルバム。RCAからLP時代に発売されていた[LIVING STEREO]シリーズのイメージを復刻した。
【収録曲】
- フニクリ・フニクラ (デンツァ)
- 君に告げよ (ファルボ)
- マリア・マリ (カプア)
- 夜の声 (クルティス)
- 私のために歌っておくれ (クルティス)
- 恋に落ちた兵士 (カニオ)
- お母さんよどうしたのかしら (ガンバルデルラ)
- はるかなるサンタ・ルチア (マリオ)
- 輝く窓辺 (コットラウ)
- 君を求めて (クルティス)
- 五月の夜 (チオッフィ)
- 情熱 (ヴァレンテ)
- ミュージカル「放浪の王者」から『乾杯の歌』 (ラスキン)
- ミュージカル「放浪の王者」から『いつの日か』(ラスキン)
- ミュージカル「放浪の王者」から『ラブミー・トゥナイト』(ラスキン)
- ミュージカル「放浪の王者」から『一輪の薔薇』(ラスキン)
- ミュージカル「放浪の王者」から『トゥモロー』(ラスキン)
- ミュージカル「放浪の王者」から『ラブ・フォー・セール』(ラスキン)
- ミュージカル「放浪の王者」から『狩』(ラスキン)
- ミュージカル「放浪の王者」から『ノクターン』(ラスキン)
- ミュージカル「放浪の王者」から『オーケストラによる間奏曲とノクターン』(ラスキン)
- ミュージカル「放浪の王者」から『ユゲットのワルツ』(ラスキン)
- ミュージカル「放浪の王者」から『ヴァガボンドの歌』(ラスキン)
- ミュージカル「放浪の王者」から『フィナーレ』(ラスキン)
[演奏] マリオ・ランツァ(テノール) 1.-12.:フランコ・フェラーラ指揮管弦楽団・合唱団[合唱指揮:フランコ・ポテンツァ]
13:コンスタンティン・カリニコス指揮管弦楽団・合唱団(合唱指揮:ラルフ・ハンター)
[編曲] 1、4-8、12、13(2)(5)(6)(8)(11)(12):エンニオ・モリコーネ
2、3、9-11、13(10):カルロ・サヴィーナ
[録音:1958年11月~12月(1-12)、1959年7月(13)、イタリア]
海外盤 [編集]
下表の正規盤以外に、1951年6月10日、同10月15日、そして1952年3月7日のラジオ公開録音が完全に残されており、 様々なレーベルから発売されている。
- Be My Love BMG/RCA VICTOR
- Blockbusters from the Movies BMG/RCA VICTOR
- Christmas Hymns and Carols RCA Camden
- Christmas with Mario Lanza BMG/RCA VICTOR
- Don't Forget Me BMG/RCA VICTOR
- Double Feature Vol 1: For The First Time BMG/RCA VICTOR
- Great Caruso/Caruso Favorites BMG/RCA VICTOR
- Greatest Hits BMG/RCA VICTOR
- Lanza Sings Christmas Carols BMG/RCA VICTOR
- Legendary Tenor BMG/RCA VICTOR
- Live From London BMG/RCA VICTOR
- Mario! Lanza at His Best BMG/RCA VICTOR
- Mario Lanza Sings Caruso BMG/RCA VICTOR
- Mario Lanza Sings Christmas Carols BMG/RCA VICTOR
- The Mario Lanza Collection [Boxed Set] BMG/RCA VICTOR
- Student Prince/Desert Song BMG/RCA VICTOR
- The Student Prince BMG/RCA VICTOR
- You'll Never Walk Alone BMG/RCA VICTOR
脚注 [編集]
- ^ 彼は左目の視力が弱かったため第一線に加われなかったとある。
- ^ この番組はフル・オーケストラの伴奏で、オペラの名場面抜粋などを演奏するというもの。なおランツァの契約前に同番組に出演していたテノールは、トスカニーニお気に入りの歌手として有名なジャン・ピアースである。
- ^ このような噂は今日でも根強いものがあるが、少なくとも声量と声質に関しては同時代のイタリア系アメリカ人ソプラノ、リチア・アルバネーゼはこうした伝説を否定、その美しくかつ豊かな声は(彼女の知っているテノール中)カルーソーの次、ジュゼッペ・ディ・ステファーノの上に位置するとしている。もっとも彼女も「(ランツァに)欠けていたのは良きコーチだった」と述懐している。
- ^ 体重減によって美声が失われるのではないか、との素朴な恐怖もあったようだ。
- ^ 製作中に起きたカーティス・バーンハート監督との確執によって降板したとされている
関連項目 [編集]
- 「乙女の祈り (映画)」Heavenly Creatures - オペラに、そしてなによりマリオ・ランツァに憧れる2人の多感な少女が殺人を犯すまでを描いた1994年のピーター・ジャクソン監督作品映画。1954年にニュージーランドで起きた実話に基づく。
参考文献 [編集]
外部リンク [編集]
- Lanza Legend - Official Mario Lanza website
- Mario Lanza - インターネット・ムービー・データベース(英語)