マニー・パッキャオ
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| 基本情報 | |
|---|---|
| 本名 | エマヌエル・ダピドゥラン・パッキャオ |
| 通称 | Pacman(パックマン) Fighting Pride of the Philippines Mexican Killer(メキシカン・キラー) The Destroyer People's Champion |
| 階級 | ライトフライ級 - ウェルター級 |
| 国籍 | |
| 誕生日 | 1978年12月17日(30歳) |
| 出身地 | ジェネラルサントス市 |
| スタイル | サウスポー |
| プロボクシング戦績 | |
| 総試合数 | 54 |
| 勝ち | 49 |
| KO勝ち | 37 |
| 敗け | 3 |
| 引き分け | 2 |
マニー・パッキャオ(Manny Pacquiao、パッキアオ、パキャオとも表記される、男性、1978年12月17日 - )は、フィリピンブキドノン州(現南コタバト州)ジェネラルサントス市出身のプロボクサー。身長168cm、リーチ170cm。本名はエマヌエル・ダピドゥラン・パッキャオ(Emmanuel Dapidran Pacquiao)。
目次 |
[編集] 概要
現IBO・リングマガジン世界ライトウェルター級チャンピオン。「Pacman(パックマン)」の愛称で知られ、サウスポースタイルからの左ストレートを主武器に数々の豪快なKO勝ちや名勝負、番狂わせの勝利を連発し、アジア人初のメジャー王座4階級制覇王者となった。また、「事実上の7階級制覇王者」と評価されている(後述)。2008年12月6日のオスカー・デ・ラ・ホーヤ戦のフィリピンでのテレビ視聴率は98%を記録し、アジア人史上最高額となる1試合2,000万ドル以上のファイトマネーを獲得した。多くのボクシング専門誌・サイトのパウンド・フォー・パウンドランキングで1位となっている。ミンダナオ島ではフィリピン国軍とイスラーム反政府組織による戦争が行われているが、パッキャオの試合が行われる度に「皆でパッキャオを応援するべきだ」という理由で双方が戦闘を見合わせて、テレビの前でパッキャオを応援している事が話題になっている[1][2]。
[編集] 来歴・人物
一日一食の日もあるほど貧しい野菜農家に生まれ、少年時代は路上で煙草のバラ売りをしていた。家計を助けるために12歳からボクシングを始めて、アマチュアではフィリピンのナショナルチーム入りを果たすなどして、16歳1か月でプロデビューした。サウスポースタイルからステップインをして放つ左ストレートが最強の必殺技。また、ハードパンチャーでありながら手数の多さを兼ね備えている。スーパーフェザー級時代まではパワーと勢いを活かした猛烈なラッシュで勝ち続けていたが、ライト級以上の階級に上げてからは右リードジャブ、右フック、巧みなフットワークにも磨きがかかり、さらなる進化を遂げている。
2001年6月23日に王座挑戦者候補だった選手二人が故障で出場を辞退した際、トレーナーのフレディ・ローチに挑戦者に抜擢され、KO勝ちでIBF世界ジュニアフェザー級王座を奪取し、2階級制覇を達成したことが、一試合で2,000万ドル以上を稼ぐボクサーへの大きな一歩となった。また、フィリピン人ボクサーが米国で活躍する契機となり、軽量級のアジア人ボクサーへの注目と評価を高めることにも貢献した。アジア人として初めてHBOのPPV放送でメインイベントを務めた。
アメリカで名前が売れ始めたばかりだったホルヘ・エリセール・フリオ戦ではマイケル・バッファーに「The Destroyer(破壊者)」というニックネームでコールされた。しかし、その後、コンピュータゲームのパックマンにひっかけて「Pacman(パックマン)」というニックネームが定着した。これは、パッキャオの名前にひっかけている事と、ゲームのキャラクターさながらに大物ボクサー相手に次々と番狂わせの勝利を連発している事から付けられた。さらにパッキャオ本人がこのゲームのファンであり、The Destroyerというニックネームを気に入っていたトップランク社やバッファーを説得してパックマンとコールしてもらうように自ら要望した。また、メキシコの名ボクサー達を次々と倒して名を挙げた事から「Mexican Killer(メキシカン・キラー)」とも呼ばれる。本人は「今まで倒してきた多くの強豪がたまたまメキシコ人だっただけで、私はメキシコ人に何も恨みは無いのだからメキシカン・キラーと呼ばないでほしい」とデラホーヤ戦の前日会見でコメントしている。
パッキャオは祖国フィリピンの国民的英雄であり、「Fighting Pride of the Philippines(フィリピンの戦う誇り)」「People's Champion(ピープルズ・チャンピオン、皆の王者)」とも呼ばれている。グロリア・アロヨ大統領とも仲が良い。政界進出を目指しており、2007年5月には下院選挙に出馬したが、国民の大半が「パッキャオが選挙に当選したら、もうパッキャオの試合が見られなくなるから駄目だ」という理由で投票しなかったため落選。ボクサー引退後に再び政界進出を目指すと語っているが、イスラム教徒が多く内戦状態のミンダナオ島出身でクリスチャンの彼が、政治的に利用されているだけとの声もある。
2008年12月にはフィリピンのアティエンザ環境天然資源相が2009年度予算の上院審議をすっぽかして、デラホーヤ戦の応援に駆けつけた。アティエンザは「パッキャオ選手の応援は予算と同じくらい重要だ」と答弁をして話題になった[3]。
このように伝説的な影響力を誇り、歌手デビューも果たすなど絶大な人気を誇る。今後はフィリピンのエコロジー対策のシンボルとして活動する事も予定している。また、教育機関や医療機関への多大な寄付を惜しまず、学校に通えない貧しい子供たちを自分のお金で通わせたり、最新の医療設備を整えるために医療費を払ったりしている。
2008年12月17日にフィリピンで行った自身の盛大な誕生日会には友人たちだけでなく、エドウィン・バレロら近隣階級のライバルボクサー達や一般人のファンを招待し、さらには招待できず、会場の外で待っていた4000人以上のファンには弁当を配った。
パッキャオが4階級制覇を達成した試合のフィリピンでのテレビ視聴率は63.8%を記録[4]。さらに「The DREAM MATCH」と銘打たれた2008年12月6日のオスカー・デ・ラ・ホーヤ戦は、フィリピンでのテレビ視聴率は98%を記録し、さらには世界金融危機の真っ只中だったにもかかわらず、HBOのPPV中継の売り上げは125万件を突破して興行収益は7,000万ドル以上となり、KO勝ちしたパッキャオはアジア人史上最高額となる2,000万ドル以上のファイトマネーを獲得。2009年5月2日のリッキー・ハットン戦でもフィリピンでの視聴率は90%以上を記録し、パッキャオはKO勝ちしてファイトマネーとPPV売り上げにより1,200万ドルから2,000万ドル以上のファイトマネーを獲得した[5][6]。
また、『タイム』誌が選ぶ「The World's Most Influential People(世界で最も影響力のある人物100人)」の「Heroes & Icons(英雄と象徴)」部門の2009年版に選ばれて元世界ヘビー級王者レノックス・ルイスに「マニー・パッキャオは世界最高のボクサーで、パウンド・フォー・パウンド最強だ。マニーはいずれフィリピンの大統領になるだろう。ボクシングにはマニーのような存在が必要だ」と紹介されるなど[7]、スポーツの枠を超越した世界的な英雄となっている。
現役トップボクサーとして活躍する一方で、自らもボクシングプロモーターとしてMPプロモーションを設立。自身が選手としてプロモート契約しているボブ・アラム率いるトップランク社と提携して、有望なフィリピン人ボクサーを自分の興行に出場させている。
[編集] 評価
近年のボクシング界では、自分が保持するタイトルを返上してでも、他の強豪選手・人気選手との試合を優先させる選手が多くなっている。その象徴的な選手がパッキャオであり、パッキャオはマルコ・アントニオ・バレラに勝利してスターダムにのし上がった事をきっかけに主要4団体の世界王座にこだわらなくなり、世界的な人気選手とのビッグマッチを優先して戦うようになった。
フェザー級では2003年に当時フェザー級世界最強と評価されていたマルコ・アントニオ・バレラにKO勝利。
さらに2004年には、バレラに代わって当時フェザー級世界最強と評価されていたWBA・IBF統一世界フェザー級王者ファン・マヌエル・マルケスから1ラウンドに3度のダウンを奪って引き分けている。WBAではスリーノックダウン制(1ラウンド中3度のダウンをした場合ノックアウトが成立する)を採用しているが、この試合はABCルール(アメリカで試合をする場合に採用される全米統一ルール)に則ってフリーノックダウン制で行われていたため、パッキャオの1ラウンドKO勝ちとはならなかった。
また、2009年にはリッキー・ハットンとスーパーライト級契約で対戦。ハットンは2005年6月4日にコンスタンチン・チューに勝利して以来、ファンや専門家からも「スーパーライト級現役最強」と評価されていた。そのハットンをパッキャオは一方的に圧倒して失神KO勝ちを収めた。この試合も主要4団体の世界タイトルマッチではなかったが、当然ファンや専門家からは「パッキャオがスーパーライト級世界最強」と評価されている。
また、プロボクシング史上唯一の公式な6階級制覇王者にしてウェルター級でも世界最強として君臨していたオスカー・デ・ラ・ホーヤとウェルター級契約で対戦し、パッキャオが一方的に圧倒し続けてKO勝ちした。そのため、「パッキャオは事実上の7階級制覇王者」と評価するファンも少なくない。7階級制覇はプロボクシング史上誰も成し遂げていない大記録である。
さらに、パッキャオはライトフライ級で試合をしていた時期もあるため、実質10階級に渡って試合をしていることになる。もちろん、このような選手は他に類を見ない。
[編集] プロボクサー
アマチュアボクシングでナショナルチーム入りを果たすなど、64戦60勝4敗の戦績を残した後、1995年1月22日、16歳1か月にしてライトフライ級でプロデビュー。12戦目で初黒星を喫するまで、ライトフライ級とバンタム級の間を行ったり来たりしていた。この敗戦以降はフライ級に留まる。
1998年12月4日、27戦目でチャッチャイ・ダッチボーイジム(タイ)から8回KOでWBC世界フライ級王座を獲得。1999年9月17日、2度目の防衛戦でメッドグン・3Kバッテリー(タイ)に3回KO負けを喫する(※前日計量の体重超過で失格し試合前にタイトル剥奪)。
その後、スーパーバンタム級まで一気に3階級上げ、WBCインターナショナル王座を獲得。これを5度防衛し、2001年6月23日に、元王者のエンリケ・サンチェスの欠場で世界王座挑戦のチャンスを得て、IBF世界ジュニアフェザー級王者レーロホノロ・レドワバと対戦する。パッキャオはレドワバから3度ダウンを奪い、6回TKOで2階級制覇を達成する。
IBF王座を4度防衛し、2003年11月15日に、伝説的ボクサーの一人と評されていたマルコ・アントニオ・バレラ(メキシコ)と対戦。下馬評はバレラ有利だったが、パッキャオは1回にダウンを喫したが、左ストレートを武器にバレラのガードを破って3回にダウンを奪い返し、11回TKOで勝利。リングマガジン世界フェザー級王者となる。この番狂わせで世界的な評価と注目を獲得した。
2004年5月8日、WBA・IBF統一世界フェザー級王者ファン・マヌエル・マルケス(メキシコ)と対戦。この試合でパッキャオは1回に3度もダウンを奪ったが、猛反撃を受けて結局、引き分けに終わる。
2005年3月19日、階級をスーパーフェザー級に上げ、バレラにWBC世界スーパーフェザー級王座を明け渡したばかりの元3階級王者エリック・モラレスと対戦。善戦したが0-3で判定負けする。半年後のWBCインターナショナルスーパーフェザー級王座決定戦で6回TKOで勝利すると、2006年1月21日にエリック・モラレスと再戦。10回TKO勝ちでリベンジを果たす。同年11月18日にモラレスとのラバーマッチは3回TKO勝利し、ライバルとの決着をつけた。
2007年10月6日、マルコ・アントニオ・バレラとの再戦で12回判定勝ち(バレラは試合後に現役引退を表明)。
2008年3月15日、ファン・マヌエル・マルケス(メキシコ)と4年半ぶりに再戦、3回にダウンを奪うがマルケスの猛反撃もあって初対決時を上回る激闘の末、2-1のスプリット・デジションでパッキャオが勝利。WBC・リングマガジン世界スーパーフェザー級王者となり、アジア人として初のメジャー王座3階級制覇を達成した。
2008年6月29日、デビッド・ディアス(メキシコ)と対戦、初回から一方的に攻め続けて9回KO勝利、WBC世界ライト級王座を獲得すると共にアジア人として初のメジャー王座4階級制覇を達成した。
2008年12月6日、オスカー・デ・ラ・ホーヤとウェルター級ノンタイトルマッチで対戦。現役屈指の人気と実力を兼ね備えた両者の対決とあって「The DREAM MATCH(夢の対決)」と銘打たれていたが、ミドル級も制したデラホーヤに対してパッキャオはライトフライ級上がりということもあり、多くのボクシング関係者やファンが「試合自体が無謀で、勝負にならない。デラホーヤが勝つに決まってる」という見解を示し、両者との対戦を希望している同じ階級のボクサー達からは「二人とも大金に目が眩んだから、こんな馬鹿げた試合が決まったんだ」といった批判も多かった。
しかし、試合が始まると、第1Rからパッキャオが主導権を握り、その後は一方的に圧倒し続けて8R終了時TKO勝ちでデラホーヤを病院送りにして引退に追い込み、ボクシング史上に残る大番狂わせを起こした。
これらの大活躍によってパッキャオは2008年末は表彰ラッシュとなり、フィリピンのSports man of the year 2008を受賞。さらに世界ボクシング評議会、Yahoo!スポーツ部門、Googleスポーツ部門、アメリカ最大の総合スポーツ雑誌「スポーツ・イラストレイテッド」と、これら全ての2008年最優秀選手賞を総ナメで受賞する快挙を成し遂げた[5]。
2009年5月2日、ラスベガスにて「スーパーライト級(ライトウェルター級)現役最強」と評価されていたイングランドの国民的英雄リッキー・ハットンと対戦。戦前はデラホーヤ戦勝利の勢いがあるパッキャオに期待が高まる一方で、「パッキャオがデラホーヤに勝てたのはデラホーヤが絶不調だったからだ」という意見に加えて、スーパーライト級で全勝を誇るハットンのファイトスタイルがパワーと打たれ強さを活かしたスタイルであるため、下の階級から上げてきたパッキャオが不利と予想する専門家やファンも多かった。試合は、1R中盤以降にパッキャオが2度のダウンを奪い、2R終盤に左のカウンター一撃で失神KO勝ち。打たれ強いハットンがリング中央でピクリとも動かずに失神して病院送りにされるという衝撃のKO勝利で、IBO・リングマガジン世界ライトウェルター級王座を獲得した。
[編集] 戦績
- アマチュアボクシング:64戦 60勝 4敗
- プロボクシング:54戦 49勝 (37KO) 3敗 2分
| 戦 | 日付 | 勝敗 | 時間 | 内容 | 対戦相手 | 国籍 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1995年1月22日 | ☆ | 4R | 判定 | ティティング・イグナシオ | プロデビュー戦 | |
| 2 | 1995年3月18日 | ☆ | 4R | 判定 | ピノイ・モンテジョ | -- | |
| 3 | 1995年5月1日 | ☆ | 6R | 判定 | ロッキー・パルマ | -- | |
| 4 | 1995年7月1日 | ☆ | 2R | TKO | デール・ダシアート | -- | |
| 5 | 1995年8月3日 | ☆ | 6R | 判定 | フラッシュ・シンバジョン | -- | |
| 6 | 1995年9月16日 | ☆ | 3R | KO | アルマン・ロルシ | -- | |
| 7 | 1995年10月7日 | ☆ | 8R | 判定 | ロリト・ラロア | -- | |
| 8 | 1995年10月21日 | ☆ | 2R | TKO | レナト・メンドネス | -- | |
| 9 | 1995年11月11日 | ☆ | 3R | TKO | ロドルフォ・フェルナンデス | -- | |
| 10 | 1995年12月9日 | ☆ | 10R | 判定 | ローランド・ツユゴン | -- | |
| 11 | 1996年1月13日 | ☆ | 5R | TKO | リト・トレホス | -- | |
| 12 | 1996年2月9日 | ★ | 3R | KO | ルスティコ・トーレカンポ | -- | |
| 13 | 1996年4月27日 | ☆ | 10R | 判定 | マーロン・カリーリョ | -- | |
| 14 | 1996年5月20日 | ☆ | 4R | TKO | ジョン・メディナ | -- | |
| 15 | 1996年6月15日 | ☆ | 4R | TKO | バート・バティラー | -- | |
| 16 | 1996年7月27日 | ☆ | 2R | TKO | イッポ・ガラ | -- | |
| 17 | 1996年12月28日 | ☆ | 2R | TKO | イ・サンユル | -- | |
| 18 | 1997年3月8日 | ☆ | 1R | KO | マイケル・ルナ | -- | |
| 19 | 1997年4月24日 | ☆ | 1R | KO | 李旭基 | -- | |
| 20 | 1997年5月30日 | ☆ | 6R | TKO | アリエル・オーストリア | -- | |
| 21 | 1997年6月26日 | ☆ | 5R | KO | チョクチャイ・チョクビワット | OPBF東洋太平洋フライ級タイトルマッチ | |
| 22 | 1997年9月13日 | ☆ | 10R | 判定 | メルビン・マグラモ | -- | |
| 23 | 1997年12月6日 | ☆ | 1R 1:38 | KO | タノンディ・シンワンチャー | OPBF防衛1 | |
| 24 | 1998年5月18日 | ☆ | 1R 2:59 | TKO | 寺尾新 | -- | |
| 25 | 1998年12月4日 | ☆ | 8R | TKO | チャチャイ・ダッチボーイジム | WBC世界フライ級王座タイトルマッチ | |
| 26 | 1999年2月20日 | ☆ | 3R | TKO | トッド・マケリン | -- | |
| 27 | 1999年4月24日 | ☆ | 4R 2:45 | KO | ガブリエル・ミナ | WBC防衛1 | |
| 28 | 1999年9月17日 | ★ | 3R 1:32 | KO | メッドグン・3Kバッテリー | WBC世界フライ級王座陥落 | |
| 29 | 1999年12月18日 | ☆ | 2R | TKO | レイナンテ・ハミリ | WBCインターナショナルスーパーバンタム王座決定戦 | |
| 30 | 2000年3月4日 | ☆ | 4R | KO | アーネリル・バロテリオ | WBCインター防衛1 | |
| 31 | 2000年6月28日 | ☆ | 1R | TKO | 蔡昇坤 | WBCインター防衛2 | |
| 32 | 2000年10月14日 | ☆ | 10R 2:00 | TKO | ナデル・フセイン | WBCインター防衛3 | |
| 33 | 2001年2月24日 | ☆ | 5R | TKO | 千里馬哲虎 | WBCインター防衛4 | |
| 34 | 2001年4月28日 | ☆ | 6R | KO | クマンペット・キャットボラフォン | WBCインター防衛5 | |
| 35 | 2001年6月23日 | ☆ | 6R 0:59 | TKO | レーロホノロ・レドワバ | IBF世界ジュニアフェザー級タイトルマッチ/2階級制覇 | |
| 36 | 2001年11月10日 | 分 | 6R 1:12 | 負傷判定1-1 | アガピト・サンチェス | IBF・WBO世界ジュニアフェザー級タイトルマッチ/IBF防衛1 | |
| 37 | 2002年6月8日 | ☆ | 2R 1:09 | TKO | ホルヘ・エリセール・フリオ | IBF防衛2 | |
| 38 | 2002年10月26日 | ☆ | 1R 2:46 | TKO | ファーブラコム・ラキットジム | IBF防衛3 | |
| 39 | 2003年3月15日 | ☆ | 5R 1:52 | TKO | エリクザーン・イェシュマンベトフ | -- | |
| 40 | 2003年7月26日 | ☆ | 3R 0:48 | KO | エマヌエル・ルセロ | IBF防衛4 | |
| 41 | 2003年11月15日 | ☆ | 11R 2:56 | TKO | マルコ・アントニオ・バレラ | リングマガジン世界フェザー級タイトルマッチ | |
| 42 | 2004年5月8日 | 分 | 12R | 判定1-1 | ファン・マヌエル・マルケス | IBF・WBA世界フェザー級タイトルマッチ | |
| 43 | 2004年12月11日 | ☆ | 4R 1:26 | TKO | ファーサン・3Kバッテリー | IBF世界フェザー級挑戦者決定戦 | |
| 44 | 2005年3月19日 | ★ | 12R | 判定0-3 | エリック・モラレス | WBCインターナショナル・IBA世界スーパーフェザー級王座決定戦 | |
| 45 | 2005年9月10日 | ☆ | 6R 2:59 | TKO | エクトール・ベラスケス | WBCインターナショナルスーパーフェザー級王座決定戦 | |
| 46 | 2006年1月21日 | ☆ | 10R 2:33 | TKO | エリック・モラレス | WBCインター防衛1 | |
| 47 | 2006年7月2日 | ☆ | 12R | 判定3-0 | オスカー・ラリオス | WBCインター防衛2 | |
| 48 | 2006年11月18日 | ☆ | 3R 2:57 | TKO | エリック・モラレス | WBCインター防衛3 | |
| 49 | 2007年4月14日 | ☆ | 8R 1:16 | KO | ホルヘ・ソリス | WBCインター防衛4 | |
| 50 | 2007年10月6日 | ☆ | 12R | 判定3-0 | マルコ・アントニオ・バレラ | WBCインター防衛5 | |
| 51 | 2008年3月14日 | ☆ | 12R | 判定2-1 | ファン・マヌエル・マルケス | WBC世界スーパーフェザー級タイトルマッチ/3階級制覇、リングマガジン世界スーパーフェザー級王座決定戦 | |
| 52 | 2008年6月29日 | ☆ | 9R 2:24 | KO | デビッド・ディアス | WBC世界ライト級タイトルマッチ/4階級制覇 | |
| 53 | 2008年12月6日 | ☆ | 8R 3:00 | TKO | オスカー・デ・ラ・ホーヤ | -- | |
| 54 | 2009年5月2日 | ☆ | 2R 2:59 | KO | リッキー・ハットン | IBO・リングマガジン世界ライトウェルター級タイトルマッチ |
[編集] 獲得タイトル
- OPBF東洋太平洋フライ級王座
- WBC世界フライ級王座
- IBF世界ジュニアフェザー級王座
- WBCインターナショナルスーパーバンタム王座
- リングマガジン世界フェザー級王座
- WBCインターナショナルスーパーフェザー級王座
- WBC世界スーパーフェザー級王座
- リングマガジン世界スーパーフェザー級王座
- WBC世界ライト級王座
- IBO世界ライトウェルター級王座
- リングマガジン世界ライトウェルター級王座
[編集] 主な表彰
- フィリピンSports man of the year 2008
- 世界ボクシング評議会2008年最優秀選手賞
- Yahoo!スポーツ部門2008年最優秀選手賞
- Googleスポーツ部門2008年最優秀選手賞
- スポーツ・イラストレイテッド2008年最優秀選手賞
- TIME誌「The World's Most Influential People」Heroes & Icons部門2009年版100人入り
[編集] エピソード・その他
- 弟のボビー・パッキャオもプロボクサー。
- 1998年5月18日に日本のリングに上がり、ノンタイトル戦で寺尾新(八王子中屋)を1回TKOで下している。
- WBC世界フライ級王者時代に、日本で山口圭司(元WBA世界ライトフライ級王者)の挑戦を受けて防衛戦を行う計画があったが、実現しなかった。
- セレス小林にパッキャオとの対戦のオファーが届いたが、パッキャオの試合映像を見たセレスが「こんな怪物に勝てるわけがない」と言って拒否したため、実現しなかった。なお、セレス曰く「自分の生涯で試合のオファーを断ったのはパッキャオ戦だけ」と語っている。
- ボクサーとして成功する前は建設作業員をやっていた[1]。
- 北京オリンピックの開会式では、「フィリピンの顔」という理由で、オリンピックに出場しないにもかかわらず旗手を務めた。
- 「日本ボクシング界の絶対エース」と評価されているWBC世界バンタム級王者・長谷川穂積は目標の選手としてパッキャオを挙げており、「パッキャオのような“神の領域”に達したボクサーになりたい」と常々語っている。また、ボクサーだけでなくK-1や総合格闘技の選手にもパッキャオを尊敬する選手は多く、五味隆典などもパッキャオの戦い方を参考にしていると語っている。
[編集] 関連項目
[編集] 注釈
- ^ a b 日本経済新聞 2008年9月22日夕刊「駆ける魂」より
- ^ http://www.gmanews.tv/largevideo/latest/40924/Mga-sundalo-at-dating-mga-MNLF-sama-samang-nanuood-ng-Pacquiao-Hatton-fight
- ^ <フィリピン>大臣が予算審議すっぽかし米でボクシング応援 毎日新聞 2008年12月12日
- ^ ボクシング・ワールド 2008年8月号より
- ^ a b ボクシングマガジン 2009年7月号より
- ^ パックマンの年収は40億円 米経済誌長者番付で6位 「月刊ボクシングワールド」オフィシャルサイト 2009年6月19日閲覧
- ^ http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1894410_1894289_1894356,00.html
[編集] 外部リンク
- :::: P A C L A N D ::::
- Manny Pacquiao | Pictures | Videos | News | Merchandise
- BoxRecによる戦績
- リングマガジンによるランキング
| 前王者 チョクチャイ・チョクビワット |
第26代OPBF東洋太平洋フライ級王者 1997年6月26日 - 1998年9月(返上) |
空位 次タイトル獲得者 メルビン・マグラモ |
| 前王者 エリック・モラレス |
第18代WBCインターナショナルスーパーフェザー級王者 2005年9月10日 - 現在 |
次王者 N/A |
| 前王者 チャッチャイ・ダッチボーイジム |
第31代WBC世界フライ級王者 1998年12月4日 - 1999年9月17日(剥奪) |
空位 次タイトル獲得者 メッドグン・3Kバッテリー |
| 前王者 レーロホノロ・レドワバ |
第11代IBF世界スーパーバンタム級王者 2001年6月23日 - 2003年(返上) |
空位 次タイトル獲得者 イスラエル・バスケス |
| 前王者 ファン・マヌエル・マルケス |
第28代WBC世界スーパーフェザー級王者 2008年3月15日 - 2008年6月16日(返上) |
空位 次タイトル獲得者 ウンベルト・ソト |
| 前王者 デビッド・ディアス |
第27代WBC世界ライト級王者 2008年6月28日 - 2009年2月24日(返上) |
空位 次タイトル獲得者 エドウィン・バレロ |

