マティルド・ド・ダンマルタン

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シャルトル大聖堂に残るマティルド・ド・ダンマルタン像

マティルド・ド・ダンマルタン(Mathilde de Dammartin)またはマティルド2世・ド・ブローニュ(Mathilde (II) de Boulogne, 1202年 - 1260年)は、ブローニュ女伯。名はマオー(Mahaut)とも呼ばれる。1248年にポルトガル王となったアフォンソ3世と結婚し、ポルトガル王妃にもなった。ポルトガル語名はマティルデ・デ・ボロニャ(Matilde de Bolonha)。

ブローニュ女伯である母イドと、女婿で共同統治者であるルノー・ド・ダンマルタンの娘として生まれた。1216年、母の死により伯位を継承する。1223年、クレルモン伯フィリップ・ユルプルフランスフィリップ2世と3番目の王妃アニェス・ド・メラニーの息子)と結婚した。彼はマティルドとの結婚と同時にブローニュ伯を名乗り、ブローニュ、モルタン、オーマール、ダンマルタンの共同統治者となった。

ルイ8世が1226年に若死にすると、フィリップ・ユルプルは兄嫁で摂政のブランシュ・ド・カスティーユに対し反乱を起こした。1235年にフィリップが死に、マティルドは一人で統治をしたが、男性の統治者が必要となり1238年にポルトガル王子アフォンソと再婚した。アフォンソは1248年に兄サンシュ2世の後継として王位に就いたが、ブローニュ伯も兼ねた。しかし、5年後の1253年にマティルドとアフォンソは離婚した。前夫フィリップとの間に一男一女をもうけていたマティルドであったが、アフォンソの間に子供が育たず、高齢で今後生まれる見込みも少ないことから、王位継承者の欲しいアフォンソが離婚を必要としたと見られている。言い伝えによると、マティルドは即位した夫に同行せず、ブローニュに残ったままだったという。

理由は不明であるが、マティルドの息子は王位を主張してイングランドへ渡った。彼は子孫を残さなかった。また、娘はシャティヨン=モンジェ卿と結婚していたものの、子供が育たなかった。マティルドの直系が絶えると、伯位は従妹アデライード・ド・ブラバン(ブラバント公アンリ1世とマティルド2世の叔母にあたる妻マティルドの娘)に継承された。