マクラーレン

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マクラーレン
エントリー名 Vodafone McLaren Mercedes
チーム国籍 イギリス
チーム本拠地 イギリスサリーウォーキング Chertsey Road,GU21 5JY
チーム代表者 マーティン・ウィットマーシュ
テクニカルディレクター パディ・ロウ
ニール・オートレイ
ドライバー 1. ルイス・ハミルトン
2. ヘイキ・コバライネン
テストドライバー ペドロ・デ・ラ・ロサ
ゲイリー・パフェット
シャーシ MP4-24
エンジン メルセデスFO108W
タイヤ ブリヂストン
参戦年度 1966 -
出走回数 619
コンストラクターズ
タイトル
8 (1974, 1984, 1985, 1988, 1989, 1990, 1991, 1998)
ドライバーズタイトル 12 (1974, 1976, 1984, 1985, 1986, 1988, 1989, 1990, 1991, 1998, 1999, 2008)
優勝回数 148
通算獲得ポイント 3141.5
表彰台(3位以内)回数 389
ポールポジション 125
ファステストラップ 129
F1デビュー戦 1966年モナコGP
初勝利 1968年ベルギーGP
2008年順位 2位(151ポイント)
(記録は2008年第18戦終了時)
  

マクラーレンMcLaren )は、1963年ブルース・マクラーレンにより設立されたイギリスのレーシング・チームである。レースチームの会社としての正式名称はマクラーレン・レーシングMcLaren Racing )であり、マクラーレン・グループの一角を為す。代表はマーティン・ウィットマーシュ

目次

[編集] 概要

ブルース・マクラーレン

ブルース・マクラーレンにより設立され、1966年よりF1に参戦しており、フェラーリウィリアムズと並び、F1を代表する名門チームの一角に数えられている。ロン・デニスを中心とする、完璧主義で規律を重んじるチームとして知られる。そのロン・デニスの気質等から「帝国」と呼ばれることが多く、現在のシルバーの車体色と合わせて、フジテレビF1グランプリの放送内ではしばしば「銀河帝国」と表現される。2006年シーズン終了時点で、グランプリにおける優勝回数、ドライバーズタイトル獲得回数、ともフェラーリに次ぐ歴代2位、コンストラクターズタイトル獲得回数ではフェラーリとウィリアムズに次ぐ歴代3位となっている。

その他のレースカテゴリーでは、カナディアン-アメリカン・チャレンジカップにおいて1967年から1971年にかけ5年連続でタイトルを獲得した。インディ500ル・マン24時間レースにおいても優勝を記録している。F1のコンストラクターズタイトル、ル・マン24時間レース、インディ500の3つを制したコンストラクター(車体製造者)は、2009年現在マクラーレンのみである。

2005年シーズン半ばまでタイトルスポンサーだったウエストにかわり、2007年からはボーダフォンがタイトルスポンサーとなったことから、エントリー名はボーダフォン・マクラーレン・メルセデス(Vodafone McLaren Mercedes)となる。

[編集] 歴史

[編集] 1960年代

  • 1963年、ブルース・マクラーレンにより、ブルース・マクラーレン・モーターレーシングが設立
  • 1966年モナコGPでF1デビュー。
1969年ベルギー・グランプリ
  • 1966年と1967年はブルース・マクラーレンのみの1カーエントリーだった。マクラーレンはF1に参戦するかたわら、ブルース・マクラーレンとデニス・ハルムのコンビでM1B(1966年)とM6A(1967年)を駆り、Can-Amにも参戦した。
  • 1968年、この年より2カーエントリーとし、Can-Amのデニス・ハルムをF1チームにも加える。ブルース・マクラーレンはブランズハッチで開催された非選手権で優勝を飾るとともに、同年のベルギーGPでチーム・マクラーレンにとってのF1初優勝を遂げた。
  • 1969年、ブルース・マクラーレンによる1回の優勝を含む5回の表彰台を得る。デニス・ハルムはM8Bを駆り、Can-Amの各レースを制覇。

[編集] 1970年代

  • 1970年は悲劇にいきなり襲われた。6月2日、グッドウッドサーキットでCanAm用の新車M8Dをテストドライブしていたチームのボス、ブルース・マクラーレンがマシントラブルが原因で起きたクラッシュにより死亡した[1]。この事件はチームにとって巨大な痛手であったが、チーム運営はテディ・メイヤーによって引き継がれ、引き続き、CanAm、F1、F2、インディ500、F5000などへの参戦を継続し、いずれのカテゴリーにおいても目覚しい活躍を見せた。
  • 1972年ペンスキーチームのマーク・ダナヒューの手により、コンストラクター(車体製造者)としてインディ500初優勝を遂げた。そして同年末には充分な成果を残したCan-Amから撤退し、以後はF1とインディに集中することを決めた。この決定は正しく報われ、1974年、F1において初のコンストラクターズタイトルを獲得するとともに、やはり初となるドライバーズタイトルをエマーソン・フィッティパルディの手により獲得し、同時にインディ500においてもジョニー・ラザフォードによって2度目の優勝が果たされた(マクラーレン「チーム」としてはインディ500初優勝)。このふたつのカテゴリーを同じ年に制したのは、1965年のロータスに次ぐ2例目であった。
  • スポンサー面では1972年からはヤードレイ化粧品、1974年からはマールボロと契約し、この年からマルボロカラー=マクラーレンといった関係は長期にわたって続くこととなった。ちなみにこの2社とも以前はBRMをスポンサードしていた。
  • 1976年、この年のF1選手権ではジェームス・ハントが、日本で開催され雨で混乱したレースとなった最終戦でフェラーリニキ・ラウダをポイントで逆転して王座を獲得。インディ500においてまたもジョニー・ラザフォードにより、マクラーレン製シャシーとして3度目、マクラーレンチームとしては2度目となる優勝を遂げた。
  • その後、参戦することの意義が薄くなったとして、1979年限りでインディ500から撤退した。

[編集] 1980年代

[編集] 1980年-1984年

1980年

  • 前年型のM29改良型である、M29B,M29Cでシーズンを戦い、後半には旧チームとしては最終型のM30を1台投入した。開幕戦でアラン・プロストをデビューさせ、そのレースと次のレースで連続入賞を果たしたが、マシンの競争力、信頼性は決して高くはなく、キャラミで行われた南アフリカグランプリでは、走り出して最初のコーナーでフロントサスペンションマウントが破損するなど、トラブルが度々発生した。マシントラブルによるクラッシュでプロストが怪我を負うこともあった[1]
  • シーズン終了後、それまでのマクラーレンと、マールボロの後ろ盾を元にロン・デニスのチーム、プロジェクト4の2チームが合併し、現在まで続くマクラーレンの体制の基礎が作られた。

1981年

1982年

1983年

  • TAGのスポンサーでポルシェターボエンジンを開発。一貫して使い続けてきたコスワースDFVエンジンに別れを告げ、第12戦オランダGPから、そのポルシェ1.5リッター・ターボV6エンジンを搭載したMP4/1Eが投入され、ラウダは同マシンをドライブ。残りのレースは、結果的に来シーズンの準備となった。1987年まで使用されるこのエンジンは、マクラーレンからオーダーされる形で設計・製作されたので外形寸法などもバーナードから厳密に指定され、車体デザインの自由度を広げる面でも大きく貢献した。

1984年

MP4/2を駆るニキ・ラウダ(アメリカGP,ダラス)
  • 完全新設計のMP4/2シャシーを投入。ラウダのチームメイトとして、前年ルノーにいたアラン・プロストがチームに復帰した。ドライバーズタイトル争いはこの二人によって繰り広げられ、全16戦のうちラウダが5勝、プロストが7勝の計12勝をあげた。最終的にラウダがプロストをわずか0.5ポイント差で下し、自身7年ぶり3度目のワールドチャンピオンに輝いた。マクラーレンにとって、ドライバーズタイトルはジェームス・ハント以来8年ぶりで、コンストラクターズタイトルは10年ぶり2度目であった。ちなみにマクラーレンはレースのたびに、ふたりのドライバーがマシンを壊すことなくピットに戻ってくるので、シャシーにかけていた保険を解約した[2]。なお、4シーズンに渡ってタイヤ供給を受けていたミシュランが、このシーズンでF1から撤退した。

[編集] 1985年-1989年

1985年

  • 前年に引き続きコンストラクターズチャンピオンを獲得した。ドライバーズチャンピオンは、ラウダを下してプロストが初めて獲得した。この年、キャラミで行われた南アフリカグランプリにて投入されたMP4/2Bの6号車が、完全にマクラーレンのファクトリーで自製された初のモノコックである[1]

1986年

マクラーレンMP4/2B・TAGポルシェ(1985年)
  • コンストラクターズタイトルはホンダエンジンを搭載したウィリアムズに奪われたが、ドライバーズタイトルはプロストが最終戦で7ポイント差を逆転し、前年に引き続きドライバーズタイトルを獲得した。

1987年

  • タイトルは獲得出来なかったが、プロストが3勝を上げた。シーズン途中のイタリアGPで翌年の体制発表を行い、ホンダエンジンの獲得とアイルトン・セナのチーム加入を公表した。マクラーレンは前年にもホンダエンジン獲得を狙っていたが果たせずにいた(1986年6月にデニスとプロストが来日しホンダにエンジン供給を要請したが、既にホンダはウィリアムズ・ロータスの2チームへのエンジン供給を決めた後で、要請を断らざるを得なかった[3])。

1988年

  • プロストとセナのラインナップと新設計のMP4/4、ホンダエンジンの組み合わせは、16戦中15勝という圧倒的な成績を残し、コンストラクターズとドライバーズの両タイトルを獲得した。唯一優勝を逃したイタリアGPはプロストがエンジントラブル、セナはトップを走りながら、第1コーナーで周回遅れのジャン=ルイ・シュレッサーと接触してストップしたというもので、ドライバーいずれかが完走したレースは必ず優勝した。この年はポールポジションも15回獲得し、獲得したコンストラクターズポイントは199ポイントで、2位のフェラーリに対し134ポイントもの差をつけた。

1989年

マクラーレンMP4/5・ホンダ 1989年
  • 前年同様の布陣でダブルタイトルを獲得するが、深刻な問題も起きた。前年の第13戦ポルトガルGPでのレース中にセナがチームメイトであるプロストに幅寄せをしたことから両者の間に不協和音が生じ始め、この年のサンマリノGPにおいて、「1コーナーの通過順位をオープニングラップにおいては守る」というチームメイト間の紳士協定をセナが破ったことによって、プロストとセナの亀裂は決定的なものとなり、その後シーズン途中でプロストがチーム離脱を発表した。第15戦日本GPではシケインでお互いに道を譲らずに接触し、両者のエンジンは停止した。セナは復帰しトップでチェッカーを受けたが、プロストによる抗議によりシケイン不通過(後に押しがけに変更)との裁定が下され、セナはレース後に失格となった。これによりプロストの3度目のチャンピオンが決まった。

[編集] 1990年代

[編集] 1990年-1994年

1990年

  • アラン・プロストフェラーリへの移籍により、フェラーリからゲルハルト・ベルガーがセナのチームメイトに迎えシーズンを戦った。最終的に、日本グランプリにてコンストラクターとドライバーの両タイトルを獲得した。空力面でバランスを崩しつつあったマクラーレンは、その分野で優位性を築いたフェラーリによって苦しめられ、タイトル争いは前年同様に第15戦日本GPまで持ち込まれた。
  • 日本GPのスタート直後の1コーナーでセナがプロストに激突したことで両者リタイアとなり、セナの2度目のチャンピオンが決まり、マンセルのフェラーリがマシントラブルでストップしたことにより、コンストラクターズタイトルも決定した。

1991年

マクラーレンMP4/6・ホンダに乗るアイルトン・セナ(1991年)
  • ホンダが前年から開発していたV12型エンジンを導入しシーズンを戦い、セナが当時の新記録となる開幕4連勝を達成した。シーズン中盤はルノーエンジンを搭載したウィリアムズが、戦闘力を増し追い上げてきた。特にエンジントラブルやテレメトリーのミスによるガス欠でのストップ等もタイトル争いで苦戦する要因となった。こうした状況に至って、シーズン途中でアクティブサスペンションセミオートマチックトランスミッションの開発に着手した。序盤戦に広げた差を詰められながらも結果的には逃げ切り、第15戦日本GPでセナが2年連続のドライバーズタイトルを獲得した。コンストラクターズタイトルも、最終戦オーストラリアGPまでもつれたものの獲得した。
  • 日本GPでは「スタート直後の1コーナーに先に入った方が優勝とし、後ろに回ったものがマンセルをブロックする」と両ドライバー間で約束をしたが、レース途中にベルガーのペースが上がらずセナがベルガーを抜いてしまった。そのままレースは進行したものの、セナが最終周の最終コーナーでベルガーを前に出して優勝を譲った。
  • この年、チームの無線はスクランブルが掛かっていたはずであるが、ブラジルGPのチェッカー後のセナの声が地元テレビ局によって傍受された事はチームサイドに衝撃を与え、翌年から使用する予定だったケンウッドの無線をこの年の日本GPから前倒しして使用し始めることとなった。

1992年

  • 体制そのものは前年と同じ布陣で、序盤戦を信頼性の高い前年の改良型MP4/6Bで戦った後に新型MP4/7Aを出す予定だったがウィリアムズのFW14Bが速く、改良をほどこした旧型では勝負にならなかった。そのため第3戦ブラジルGPで、マクラーレン初のハイテク搭載車としてセミオートマチックトランスミッション、F1では初となる「ドライブ・バイ・ワイヤ」と呼ばれるコンピューター制御のアクセルシステムを導入したMP4/7Aが投入された。
  • エンジンパワーでエアロダイナミクスの弱点を補うという前年までの方法を行なうマクラーレンに対し、アクティブサスペンションなどのハイテク、ルノーエンジン、空力に優れたシャシーらがバランス良くまとめられたFW14Bを武器とするウィリアムズの前に歯が立たず、結局5勝を挙げるにとどまり両タイトルいずれも獲ることが出来なかった。この年を以ってホンダは第2期F1参戦に終止符を打ち、撤退した。

1993年

  • CARTのチャンピオンであるマイケル・アンドレッティと、ロータスから移籍してきたミカ・ハッキネンがチームに加入した。セナは休養するという話もあったが、結局開幕前に契約し、参戦。ハッキネンはセナが戻った場合、テストドライバーとなる契約であった。その後、セナは第8戦のフランスGPまではレース毎に参戦契約を交わしていた。フォードワークス仕様のエンジンを供給されていたベネトンに対し、カスタマー仕様のフォード・コスワースV8エンジンでパフォーマンスも劣っていた。ロン・デニスの政治力で第9戦からはベネトンと同じ仕様のエンジン供給契約を結んだ結果、セナとも第9戦以降の全戦出場の契約を結んだ。
  • この年のMP4/8は空力、ハイテク装備は他のチーム以上のレベルであったが、ルノーエンジンより50馬力から70馬力も劣るとされるフォードエンジンのパワー差と、シャシーの性能面でもウィリアムズとの差は大きかった。しかし、前年に供給されていた大きくて重いホンダエンジンが軽量なコスワースに代わったことにより、マシンの重量バランスは改善され、戦闘力が向上。結果的にセナ一人で前年と同じ年間5勝を挙げた。最終戦のオーストラリアGPではこの年唯一のポールポジションをセナが獲得し、ウィリアムズの全レースポールポジション獲得を阻止した。コンストラクターズランキングもウィリアムズに次ぐ2位となった。
  • アンドレッティは開幕戦からリタイアが続き、シーズン終盤の第13戦イタリアGPでの3位表彰台を最後に契約解除となりアメリカへ帰国し、テストドライバーを務めていたハッキネンが残りの3レースを走る事になった。ハッキネンは復帰初戦となった第14戦ポルトガルGPでいきなりセナを予選で上回り、第15戦日本グランプリでも初の3位表彰台を得た。翌年以降のエースに伸し上ることとなった。
  • シーズン中にはアメリカのビッグ3の一つであるクライスラー社からの依頼でクライスラーV12エンジン(ランボルギーニエンジンをこのテスト用に改良したもの)をテストしたが、「あくまでも依頼されたテスト走行」と言う位置づけであったことに加え、同時期にプジョーから多額の契約金付きの契約オファーがあったため、そちらを優先して契約を結んだ。

1994年

MP4/9を駆るハッキネン(イギリスGP 3位入賞)
  • ハッキネンとマーティン・ブランドルのコンビとなる。MP4/8のデザインを踏襲したMP4/9に、前年のフォードコスワースからワークスのプジョーエンジンに乗せ換えた。前半戦はエンジンの信頼性が低く頻発するエンジントラブルによって苦しめられ、第5戦スペインGPではハッキネンがトップを走っていたが、エンジンブローでリタイアした。第7戦フランスGPでは、よりによってプジョーにとっては同国のライバルであるルノーの看板の前で2台ともエンジンブローを起こし、イギリスGPではスタート直後に、ブランドルがエンジンブローとなるなど散々な結果であった。チームは複数年契約だったプジョーとの契約をこのシーズンのみで打ち切り、翌年はイルモアが開発するメルセデスベンツエンジンへと変更することをシーズン終了前に発表し、4シーズン連続のエンジンメーカーの交代となった。後半戦からは信頼性も上がり表彰台にも8回上がったが、1980年以来14年ぶりの「未勝利」に終わる。

[編集] 1995年-1999年

1995年

  • ナイジェル・マンセルと契約を結ぶが、コックピットが狭いことを理由にマンセルは開幕から2戦は参戦せず、チームは代わりにマーク・ブランデルをレース毎の契約で乗せることとした。マンセルは第3戦サンマリノGPと第4戦スペインGPで走ったが、予選でミカ・ハッキネンより遅く、決勝でもそれぞれ10位とリタイアであった。それ以降、マンセルはチームを去る。元々ロン・デニスとマンセルは「犬猿の仲」であったが、メインスポンサーであるマールボロ元ワールドチャンピオンのマンセルを欲しがった為、もしくはセナの死によりスター不在を憂慮したバーニー・エクレストンらの意向が働いたなど、何れにせよ政治的要因での加入であった。それゆえ、シーズン開幕以前の段階で多くのF1関係者が、デニスとマンセルの契約関係が早期に破局すると予想していた。
  • MP4/10はエアインテーク上にセンターウィングを搭載し、当時としてはユニークなデザインをしたマシンであった。メルセデスベンツエンジンとのマッチングや空力が弱く、戦闘力不足はウィリアムズベネトンフェラーリと比べると明らかで、シーズン中にMP4/10BMP4/10Cとモディファイされた。
  • ハッキネンが虫垂炎になり、第15戦パシフィックGPではテストドライバーのヤン・マグヌッセンを起用した。マグヌッセンにとっては、マクラーレンでのレース出場はこの1戦のみであった。第16戦日本グランプリでは復帰したハッキネンが2位入賞した。しかし、最終戦オーストラリアGPの予選でハッキネンは、タイヤのパンクが原因でコンクリートウォールに激突。選手生命を左右する瀕死の重症を負う。まさに辛いシーズンを最悪の形で終えることとなった。ハッキネンを治療に専念させるため、年末からアラン・プロストがアドバイザー兼テストドライバーとして迎え入れられた。

1996年

  • 1月のテストを、ウィリアムズから移籍してきたデビッド・クルサードとアドバイザーであるプロストで進めていた。ハッキネンも2月に戻ってきて3ヶ月ぶりにドライブし、いきなりフェラーリのミハエル・シューマッハを凌ぐタイムを叩き出し、速さを示した。ハッキネンが開幕戦から参戦できる目処もつき、ハッキネンとクルサードのドライバーズラインナップになった。このコンビは2001年まで続く。
  • MP4/11は前半戦でハンドリングに悩まされたが、後半戦からサーキットによりショートホイールベース仕様のMP4/11Bを投入した。信頼性の向上で完走&入賞数は増えたものの、速さに課題を残すシーズンとなった。
  • このシーズンをもって23年間、メインスポンサーだったマールボロとの関係が終了。慣れ親しまれた「赤・白」のカラーリングも見納めとなった。この訣別により、同シーズンで契約を終了するハッキネンがマールボロの後押しでフェラーリへ、ウィリアムズのデイモン・ヒルが加入するという移籍話も出てきたが、結局第15戦ポルトガルGPでマクラーレンはハッキネンの残留を発表した。
  • ウィリアムズのチーフデザイナーであったエイドリアン・ニューウェイが11月にウィリアムズから離脱し、マクラーレンとの契約を締結。しかし、ウィリアムズは契約が残っていることを訴え、法廷闘争に持ち込んだ。ニューウェイは契約解除が出来なくなり、この時点ではいつからマクラーレンに加入できるかは未定だった。

1997年

  • インペリアル・タバコドイツ向けブランドであるウエストがタイトルスポンサーとなった。この年、開幕戦オーストラリア・第13戦イタリアGPでクルサードが、最終戦ヨーロッパGPでハッキネンがF1で初優勝し、年間で計3勝をあげた。その一方でハッキネンがトップを走っていた第9戦イギリスGP、第14戦オーストリアGP、そして4年ぶりにポールポジション(ハッキネンが獲得)に返り咲いている第15戦ルクセンブルクGPとメルセデスベンツエンジンのトラブルによりリタイアをし、信頼性に課題を残すシーズンとなった。
  • 技術陣では契約上の問題をクリアしたニューウェイがテクニカル・ディレクターとして第11戦ハンガリーGPから加入。その後、マシン開発に拍車がかかり、翌年への明るい材料となった。
  • シーズン終了後にグッドイヤーが「1998年をもってF1から撤退する」と発表したため、同年まであった同社とのタイヤ供給契約を破棄し、1997年12月のテストからブリヂストンタイヤへ変更する事になった。
  • この年のMP4-12より、車体形式番号の表記の区切りが従来のスラッシュ「/」からハイフン「-」に変更されている。

1998年

  • 前年の12月から、今シーズン仕様の各パーツを載せたMP4-12Bは、ブリヂストンタイヤの理解も兼ねて約8,000kmを走りこみ、MP4-13への開発に繋げた。
  • 開幕戦オーストラリアGPでは1-2フィニッシュして3位以下を周回遅れにしたが、トップ走行中のクルサードが56周目にハッキネンを前に出すチームオーダーが発生。この行為をオーストラリアのプレスや主催者はレースの精神に反すると批判したが、擁護するプレスもいた[4]。ちなみにマクラーレンの言い分は「むやみなチームメイト同士のバトルを避けるために“スタートで1コーナーに先に入ったドライバーに勝つ権利がある”という取り決めをしていた。ハッキネンが一時2位に落ちたのも、チームの無線ミスによりピットインを1回多くしていたから」であった。
  • 第2戦ブラジルGPからチームオーダー禁止となったが、具体的な罰則内容はこの時点では何も決まっていなかった。さらに同GPのレーススチュワードはフェラーリからの抗議を認め、MP4-13のブレーキ・ステアリング・システムを使用禁止とする。もともとマクラーレンは、開幕前にFIAの技術部門からレギュレーションに反していないという承認をもらい、使用していた。
  • 最終的にはハッキネンが8勝、クルサードが1勝をあげ、1991年以来のドライバーズタイトルコンストラクターズタイトルを獲得した。ブリヂストンにとっても初ポール・初優勝・初ダブルタイトルと初物づくしのシーズンとなった。ブリヂストンタイヤを装着するマクラーレン・メルセデスを駆るハッキネンと、グッドイヤータイヤを装着するフェラーリを駆るミハエル・シューマッハの対決が話題を呼び、最終戦の日本グランプリ迄、もつれ込む展開となった。

1999年

MP4-14を駆るハッキネン(カナダGP
  • 予選ではハッキネンが全16戦中ポールポジションを11回獲得し、決勝ではハッキネンが5勝、クルサードが2勝をあげたものの、MP4-14の信頼性不足に悩まされ、ピット作業やチーム戦略のミスが重なり、苦戦を強いられた。
  • また、フェラーリが第8戦イギリスGP迄はミハエル・シューマッハ、第9戦オーストリアGPからエディー・アーバインと、優先するドライバーを明確に決定していたことに対し、マクラーレンではチャンピオンになったハッキネンとクルサードを第14戦ヨーロッパGP迄、平等に扱う戦略を採っていた。結果的にオーストリアGPと第12戦ベルギーGPで両者接触を招き、オーストリアGPではアーバインにポイントを献上することとなった。
  • 第15戦マレーシアGPで決勝後、フェラーリが競技審査委員会からディフレクターの寸法違反で一旦失格になり、ハッキネンのワールドチャンピオンとコンストラクターズチャンピオンが決まりかかった。しかし、5日後のパリで開かれたFIAの国際控訴裁判所でフェラーリの逆転無罪となる。
  • タイトル争いは第16戦(最終戦)の日本GP(鈴鹿サーキット)までもつれ、アーバインに4ポイント差であったハッキネンが逆転優勝し2年連続のワールドチャンピオンに輝いたものの、クルサードはスプーン・コーナーの手前でスピンしてフロントウィングとサスペンションを破損し、リタイア。コンストラクターズタイトルはフェラーリに奪われてしまった。

[編集] 2000年代

[編集] 2000年-2004年

2000年

MP4-15を駆るハッキネン(アメリカGP
  • 再びフェラーリとミハエル・シューマッハとの激しいチャンピオン争いとなったが、惜しくも両タイトルともに逃す結果となる。
  • この年、タイトルこそ逃すこととなったが、テストドライバーとして契約をしたオリビエ・パニスの加入はMP4-15の開発に大いに貢献した。1997年よりブリヂストンを使用し、またレギュラードライバー時代の豊富な経験もあるパニスは、チームに膨大な情報をもたらした。パニスは翌2001年のレギュラーシートをB・A・Rに確保するという、当時としては珍しいキャリアを築くことに成功した。当時、レギュラードライバーからテストドライバーになったドライバーが、再度レギュラードライバーになることは珍しいことであった。マクラーレンのテストドライバーは、翌2002年はアレクサンダー・ヴルツ、2003年にはペドロ・デ・ラ・ロサが担当し、強力な布陣を敷くことに成功した。

2001年

  • この年からベリリウム合金の使用が禁止となる。これはフェラーリから「ベリリウムは人体に有害である」との抗議が国際自動車連盟(FIA)に対して行われた為であるが、以前からベリリウムを使用していると噂されていたメルセデスはこの決定の影響を大きく受け、苦戦を強いられた。
  • また、主要スタッフの離脱やデザイナーのニューウェイのジャガーへの移籍騒動などもあり、チーム体制は不安定であった。度重なるマシントラブルがハッキネンを襲い、ハッキネンはこの年をもってF1を「休養」することとなった(結局翌年のドイツGPにおいてF1引退を発表)。コンストラクターズランキングは2位であった。ハッキネンは9年間、マクラーレンに在籍した。

2002年

  • この年からはハッキネンの後を受けて、同郷のキミ・ライコネンザウバーから移籍してきたが、前年からのチーム内の乱れが尾を引き、車の熟成作業がヨーロッパラウンドに入ってから本格的になるというありさまとなってしまう。フェラーリに対するにあたって同じタイヤで戦ってはアドバンテージが少ないとの判断から、この年からタイヤメーカーをブリヂストンからフランスミシュランへ変更したものの、初年度のこのシーズンはタイヤの特性の違いをチームが把握しきれず苦しい戦いとなる。また、この年はタイトル争いに加わる事が出来なかっただけではなく、フェラーリがシリーズを席巻したこともあり、優勝ですらモナコGPでデビッド・クルサードが挙げた1勝にとどまった。

2003年

  • トップチームが揃って、熟成された新車投入ができなかったため、旧型を大幅に改良させたマクラーレンが、開幕戦をクルサード、第2戦をライコネンが勝利するなど、順調なスタートを切ったが、特にクルサードが新予選方式に対応できず、下位のグリッドに沈み、追い上げるも表彰台は遠く、足を引っ張ることとなる。一方、ライコネンがわずか1勝ながらしぶとくポイントを稼ぎ、最終戦までシューマッハを追い詰め、ドライバーズランキングではわずか2ポイント差のランキング2位の成績を収めた。この年からミシュランタイヤ専用とも言える「MP4-18」を投入するはずであったが、十分な信頼性と戦闘力を得る事が出来ずにお蔵入りとなり、旧型の改良版の「MP4-17D」でシーズンを戦い抜いた。また、シーズン途中ではあったがデ・ラ・ロサを臨時でテストした後にフルタイムテストドライバー契約を結び、ヴルツとの2名によるテストチーム体制を整えている。

2004年

2004年アメリカGP(キミ・ライコネン)
  • 前年と同じ体制で、昨年デビューするはずだった幻のMP4-18を新ルールにあわせて改良したMP4-19を投入するが、MP4-18が持っていた弱点はMP4-19では改善出来ておらず(新車が間に合わなかったため基本的に19は18と同じ車であったと後にエイドリアン・ニューウェイが語っている)、第11戦のイギリスGPでようやく本来の新車が「MP4-19B」としてデビューした。これはマクラーレンのチーム関係者も、チームが2年連続で新車開発に失敗した結果である、と、後に認めている。このイギリスGPでライコネンがシーズン初の表彰台に登りその後も表彰台に登るが、優勝はベルギーGPの1勝にとどまり、コンストラクターズランキングは3位から5位へと後退した。クルサードにとってはマクラーレン最後のシーズンであったが、一度も表彰台に登ることなく9年間在籍したチームを去っていった。

[編集] 2005年-

2005年

  • ライコネンのチームメイトにファン・パブロ・モントーヤを迎える。シーズン当初は信頼性不足などで出遅れたが、ヨーロッパラウンド以降は、ルノーフェルナンド・アロンソと激しいタイトル争いを繰り広げる。MP4-20はハンガリーGPから日本GPまでの6連勝を含む、1989年以来となる2桁勝利の10勝を挙げる。しかし、ライコネンを襲った4度のエンジントラブルをはじめ、信頼性の低さはいかんともし難く、結果としては惜しくもチームもライコネンもランキング2位に終わってしまった。
  • この年は、前年コンストラクターズランキング5位で終えたため、金曜日のフリー走行でサードカーを走らせる権利を得、デ・ラ・ロサとヴルツがグランプリにより交替で担当した。レギュラードライバーのモントーヤがテニス中に肩を負傷するというアクシデントに見舞われたため、バーレーンGP、サンマリノGPの2戦をそれぞれデ・ラ・ロサ、ヴルツが代役として出場し、バーレーンでデ・ラ・ロサは5位入賞を遂げるとともにファステストラップを記録し、サンマリノではレース後の繰上げではあるがヴルツが3位入賞した。
  • 第13戦のハンガリーGPの金曜日(7月29日)をもって、1997年以来のタイトルスポンサーであったウエストとの契約を終了した。これはヨーロッパにおけるタバコ広告規制の強化を受けてのものである。7月30日以降のカラーリングは、それまでタバコ広告禁止国で開催されるGPで用いた手法と同様に、従来「WEST」のロゴがあったサイドポンツーン、ノーズ、コクピットサイド、レーシングスーツ、ヘルメットにはドライバーの名前をオリジナルデザインで表記し、チームスタッフには「WEST」のロゴ表記が消されたウエアとスーツが支給された。

2006年

  • 前年までチームのテクニカルディレクターのエイドリアン・ニューウェイレッドブルへ移籍。また2005年のDTMチャンピオン、ゲイリー・パフェットがテストドライバーに加わる事になり、それに伴って5年間と言う長期にわたってテストドライバーを務めたヴルツがウィリアムズのテストドライバーとして移籍した。
  • 2005年のマシンMP4-20が圧倒的な速さを誇っていたこともあり、シーズン開幕前はライコネン&マクラーレンはこの年のチャンピオンの筆頭候補であった。しかし前年までの3.0リッターV10から2.4リッターV8へのエンジンルール変更に対応しきれず、メルセデスが十分な戦闘力を持つエンジンを提供できなかった。加えてこの年のマシンMP4-21自体もニューウェイ不在の影響からか熟成が進まず、前年にタイトルを争ったルノーとフェラーリの後塵を拝することとなった。結果として、コンストラクターズランキングこそ3位を確保したものの、1996年以来10年ぶりのシーズン未勝利に終わってしまった。
  • モントーヤがF1に嫌気がさしたため7月9日に2007年はアメリカのNASCARシリーズへ移籍(チームはチップ・ガナッシ・レーシング)する事を発表。アメリカGPを最後にF1から離れる事になった。しかし、この発表がチーム首脳には直前になって知らされたこともあり、双方の合意の下シーズン途中で契約が解除され、テストドライバーのペドロ・デ・ラ・ロサがフランスGPよりレギュラードライバーとしてシーズンの残りのレースに参戦した。

2007年

アロンソ駆るMP4-22(第2戦マレーシアGP
マクラーレンの産業スパイ疑惑
フェラーリの元チーフメカニックであるナイジェル・ステップニーがチームから技術に関する機密情報を持ち出し、マクラーレンのマシンデザイン部門を統括するマイク・コフランに提供したとされる疑惑である。フェラーリはイタリアとイギリスに告発し、両国当局は捜査を進めていた。
その中で家宅捜索に入ったマクラーレン関係者の自宅から、780ページ分に及ぶフェラーリの機密情報が記録されたディスクが発見されたことなどで徐々に表面化、FIAも独自に調査を開始した。
  • 7月12日 - FIAはフェラーリの機密情報が何者かに持ち出され、マクラーレン側に極秘に提供したとする事実を告発した。マクラーレン側は疑惑の関与を否定した。
  • 7月26日 - 世界モータースポーツ評議会(WMSC)に公聴会が開かれた後、評議が行われ、国際競技コードの第151c条に違反しているが機密情報が使用された証拠がないため証拠不十分としてマクラーレンに対するペナルティは課されないことが決まった[8]
  • 9月5日 - FIAは166ページに及ぶ疑惑に関する新たな証拠を提出、WMSCが関係者を招集し公聴会の開催を決定する。
  • 9月13日 - WMSCが公聴会を開き、その後再審理を行われた結果、以下の処分がFIAから発表された[9]
    1. 2007年のコンストラクターズポイント剥奪、今シーズンの残りのレースもポイントを獲得できない。
    2. 賞金や放映権収入などから分配予定だった1億ドルの没収処分。
    3. チームのドライバーに対しては証拠提出の見返りとしてペナルティを科さない(ドライバーズポイントはそのまま)。
    4. WMSCは、2008年のマクラーレンの車体に関する技術レポートを受け取り、2007年12月の会議の中でチームの2008年シーズンに関する制裁措置を行うかを決定する(マクラーレンは次シーズンの車体にフェラーリが使用している技術を一切使用していないことを証明しなければならない)。最悪の場合、1シーズン出場停止になる可能性もある。
  • 12月7日 - WMSCは、FIA技術部門にマクラーレンの2008年マシンにフェラーリの機密情報を組み込まれていないかどうかの調査は完了し、詳細な報告書がWMSCに提出された。マクラーレンの新マシンの合法性に関する裁定が下される予定であったが、WMSCはマクラーレンやフェラーリをはじめとする他のチームは、2008年2月14日に開催されるWMSCの臨時総会において報告書に対する意見を発表するチャンスを与えるべきであると判断した。
  • 12月13日 - マクラーレンCEO・マーティン・ホイットマーシュはマクラーレンの2008年マシン(MP4-23)にフェラーリの機密情報が含まれる予定だったことを認めそれを謝罪し2008年マシンの一部開発凍結の話し合いをする内容の手紙をWMSCとマックス・モズレー宛てに送った。[10]
  • 12月18日 - WMSCはFIA会長マックス・モズレーの提案をうけ2008年2月14日に予定されていた公聴会を中止することで同意した。

2008年

  • ドライバーは、ハミルトンが残留、アロンソは2年契約の2年目だったが契約解除となり、代わりに2007年ルノーに所属していたヘイキ・コバライネンが加入した。テストドライバーは、引き続きデ・ラ・ロサとパフェット。コバライネンは2008年シーズン中に2009年もマクラーレンに残留することが発表された。
  • 新車(MP4-23)の発表会は、初めてドイツのシュツットガルトのメルセデス本社で行われた。
  • 2008年シーズンは、ハミルトンとフェラーリのフェリペ・マッサとの熾烈なチャンピオン争いが繰り広げられたが、最終戦のブラジルGPでハミルトンが1ポイント差で逃げ切り、ドライバーズタイトルを手にする(チームとしては1999年以来のチャンピオン輩出)。コンストラクターズランキングは2位。
  • 11月に、フォース・インディアがマクラーレンとの技術提携を結んだことが発表された(2009年シーズンより、エンジン類の供給もフェラーリからメルデセスにスイッチすることが決定している)。

2009年

  • 新車のMP4-24の発表会で、ロン・デニスがチーム代表から退くことが発表された。後任は前CEOのウィットマーシュ[11]。しかし、デニスは、今後もチームに深く関わっていくつもりであることを宣言しレース界からの引退は否定した。
  • 開幕戦オーストラリアGPでのセーフティカー先導中の出来事について、「当時の無線記録及びメディアへの発言」と「スチュワードからの事情聴取」で、逆とも言える説明を行う。事情聴取時点では全無線記録が参照できなかったため、一旦はマクラーレン・ハミルトン側の主張が認められたが、後に無線記録が証拠として検証されスチュワードへの偽証・ミスリードが発覚。オーストラリアGPの結果から抹消された。
  • この件で、マクラーレンチームとしては事情聴取に出席したデイブ・ライアンを翌週停職処分に。同時に事情聴取に出席していたハミルトンは「スチュワードへの情報提供を控えるようにライアンから言われた」と説明、それ以上の処分・ペナルティはなかった。
  • その後、4月29日にパリでWMSCの臨時会議が開かれ、「ペナルティは3戦のグランプリ出場停止とする。ただし、今後12か月において、この件に関して新たな証拠が発見された場合、もしくはチームによってさらなるインターナショナル・スポーティングコードの151c項違反が行われた場合のみに適応する。」との裁定を下した[12]
  • 4月16日にマクラーレングループ全体の再編が発表され、市販車部門であるマクラーレン・オートモーティブがグループから離脱し、さらにデニスが同社の会長に就任しレース部門から完全に引退することが明らかにされた[13]。レース部門のCEOにはウィットマーシュが返り咲く。

[編集] カラーリング

イギリス国籍のチームではあるが、チーム設立当初1968年からしばらくは車体はブルース・マクラーレンの母国ニュージーランドのナショナルカラーであるオレンジ色に塗られていた。

1972年からはヤードレイ化粧品がスポンサーに付き、ボディーサイドにチームカラーのオレンジを残した白/オレンジに塗られた。

その後、マールボロとのパートナーシップにより、1974年からはマールボロのパッケージと同じ赤白に塗られた俗にマルボロカラーと呼ばれるカラーリングが長らく用いられた(74年は3台体制でヤードレイ車も1台のみ参戦)。このカラーリングの赤の部分は、1974/75年にはパッケージと同じような赤で塗られたが、1976年以降はテレビ/写真写りを考慮して蛍光レッドに変更された。

1997年にカラーリングが変更され、銀と黒を基調に赤をアクセントに用いるカラーリングが使用されるようになった。これは、マールボロとの契約終了に伴いマクラーレンが独自のカラーリングを施すことが可能となったことにより決められたものである。銀色は「シルバー・アロー」メルセデスへの配慮、と考えられているが、カラーリング全体については当初のタイトルスポンサーであるウェストを含め特定のスポンサーの意向によるものではない、と、ロン・デニスは述べている。ロン・デニスはことのほかこのカラーリングを気に入っており、今後(他チームやマルボロカラー当時のマクラーレンのような)色と色の境界を線で区切ったようなカラーリングは自分のチームの車体には用いたくない、と発言している。その発言通り、2006年にカラーリングを若干変更した後も、各色の境はグラデーションを用いたものとなっていた。このカラーリングを施すためには、通常の3倍の手間とコストがかかると言われている。カラーリング塗装は毎回のGPの際、毎回行われている。

[編集] 例外

上記したように、基本的にカラーリングはオレンジ色の時代、赤と白の時代、銀色の時代、の3つに分けることが可能であるが、40年余りの歴史の中では例外もあり、1978年終盤の北米ラウンド2戦と1979年にロングビーチで開催されたアメリカ西GPではマールボロと同じくフィリップ・モリス傘下のビール会社レーベンブロイ(Löwenbräu)の水色と白のカラーリングにしているほか、1986年のポルトガルGPではマールボロの新製品マールボロ・ライトをPRするため、ロズベルグ車のカラーリングは本来は赤の部分が黄色に変更された。

近年では、マールボロとの契約終了に伴いカラーリングを変更した1996年末から1997年初めにかけてのシーズンオフと翌年のシーズンオフ、ウェストとの契約終了に伴いカラーリングに変更を加えた2005年末から2006年のシーズンオフにかけ、テストにおいて往年のオレンジ色のカラーリングを暫定のカラーリングとして用いている。

[編集] マクラーレンでドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー

[編集] 変遷表

[編集] F1

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー ランキング 優勝数
1966年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M2B F フォード
セレニッシマM166
シェル? ブルース・マクラーレン 8 (3 pts) 0
1967年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M4B,M5A G BRM P16 シェル ブルース・マクラーレン 8 (3 pts) 0
1968年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング
* Joakim Bonnier Racing Team (M5A)
* Anglo American Racers (M7A)
M5A,M7A G フォードDFV
BRMP16
シェル デニス・ハルム
ブルース・マクラーレン
ヨー・ボニエ
ダン・ガーニー
2 (51 pts) 3
1969年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング
* Team Lawson (M7A)
* Antique Automobiles / Colin Crabbe Racing (M7B)
M7A,M7B,M7C,M9A G


D

フォードDFV シェル
ガルフ
デニス・ハルム
ブルース・マクラーレン
デレック・ベル
ベイシル・ファン・ルーエン
ビック・エルフォード
4 (38 pts) 1
1970年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング
* Team Surtees (M7C)
* Ecurie Bonnier (M7C)
M7C,M14A,M7D,M14D G


F

フォードDFV
アルファ・ロメオTipo33/3
ガルフ デニス・ハルム
ブルース・マクラーレン
ピーター・ゲシン
ダン・ガーニー
アンドレア・デ・アダミッチ
ナンニ・ガッリ
ジョン・サーティス
ヨー・ボニエ
4 (34 pts) 0
1971年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング
* Ecurie Bonnier (M7C)
* Penske-White Racing (M19A)
M7C,M14A,M19A G フォードDFV ガルフ デニス・ハルム
ピーター・ゲシン
ジャッキー・オリバー
ヨー・ボニエ
ヘルムート・マルコ
マーク・ダナヒュー
6 (10 pts) 0
1972年 ヤードレイ・チーム・マクラーレン M19A,M19C G フォードDFV ガルフ デニス・ハルム
ピーター・レブソン
ジョディー・シェクター
ブライアン・レッドマン
3 (47 pts) 1
1973年 ヤードレイ・チーム・マクラーレン M19A,M19C,M23 G フォードDFV ガルフ デニス・ハルム
ピーター・レブソン
ジョディー・シェクター
ジャッキー・イクス
3 (58 pts) 3
1974年 マールボロ・チーム・テキサコ
* ヤードレイ・チーム・マクラーレン (M23)
* Scribante Lucky Strike Racing (M23)
M23 G フォードDFV テキサコ
サソル
エマーソン・フィッティパルディ
デニス・ハルム
マイク・ヘイルウッド
ヨッヘン・マス
デビッド・ホブス
デイブ・チャールトン
1 (73 pts) 4
1975年 マールボロ・チーム・テキサコ
* Lucky Strike Racing (M23)
M23 G フォードDFV テキサコ エマーソン・フィッティパルディ
ヨッヘン・マス
デイブ・チャールトン
3 (63 pts) 3
1976年 マールボロ・チーム・マクラーレン M23,M26 G フォードDFV テキサコ ジェームス・ハント
ヨッヘン・マス
2 (75 pts) 6
1977年 マールボロ・チーム・マクラーレン
* Chesterfield Racing (M23)
* Iberia Airlines (M23)
M23,M26 G フォードDFV テキサコ ジェームス・ハント
ヨッヘン・マス
ジル・ヴィルヌーヴ
ブルーノ・ジャコメリ
ブレット・ランガー
エミリオ・デ・ヴィロッタ
3 (60 pts) 3
1978年 マールボロ・チーム・マクラーレン
* Liggett Group/BS Fabrications (M23, M26)
* Centro Asegurador F1 (M23)
* Melchester Racing (M23)
M26 G フォードDFV テキサコ ジェームス・ハント
パトリック・タンベイ
ブルーノ・ジャコメリ
ブレット・ランガー
ネルソン・ピケ
エミリオ・デ・ヴィロッタ
トニー・トリマー
8 (15 pts) 0
1979年 マールボロ・チーム・マクラーレン
* Lowenbrau Team McLaren (M23)
M26,M28,M28B,M28C,M29 G フォードDFV カストロール ジョン・ワトソン
パトリック・タンベイ
7 (15 pts) 0
1980年 マールボロ・チーム・マクラーレン M29B,M29C,M30 G フォードDFV カストロール ジョン・ワトソン
アラン・プロスト
ステファン・サウス
8 (11 pts) 0
1981年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル M29C,M29F,MP4/1 M フォードDFV ユニパート ジョン・ワトソン
アンドレア・デ・チェザリス
6 (28 pts) 1
1982年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/1B M フォードDFV ユニパート ニキ・ラウダ
ジョン・ワトソン
2 (69 pts) 4
1983年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/1C,MP4/1E M フォードDFY
TAG TTE PO1(ポルシェ
ユニパート ニキ・ラウダ
ジョン・ワトソン
5 (43 pts) 1
1984年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/2 M TAG TTE PO1(ポルシェ) シェル ニキ・ラウダ
アラン・プロスト
1 (143.5 pts) 12
1985年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/2B G TAG TTE PO1(ポルシェ) シェル ニキ・ラウダ
アラン・プロスト
ジョン・ワトソン
1 (90 pts) 6
1986年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/2C G TAG TTE PO1(ポルシェ) シェル アラン・プロスト
ケケ・ロズベルグ
2 (96 pts) 4
1987年 マールボロ・マクラーレン・インターナショナル MP4/3 G TAG TTE PO1(ポルシェ) シェル アラン・プロスト
ステファン・ヨハンソン
2 (76 pts) 3
1988年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/4 G ホンダRA168E シェル アラン・プロスト
アイルトン・セナ
1 (199 pts) 15
1989年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/5 G ホンダRA109E シェル アイルトン・セナ
アラン・プロスト
1 (141 pts) 10
1990年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/5B G ホンダRA100E シェル アイルトン・セナ
ゲルハルト・ベルガー
1 (121 pts) 6
1991年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/6 G ホンダRA121E シェル アイルトン・セナ
ゲルハルト・ベルガー
1 (139 pts) 8
1992年 ホンダ・マールボロ・マクラーレン MP4/6B,MP4/7A G ホンダRA122E,122E/B シェル アイルトン・セナ
ゲルハルト・ベルガー
2 (99 pts) 5
1993年 マールボロ・マクラーレン MP4/8 G フォードHB5,7,8 シェル アイルトン・セナ
マイケル・アンドレッティ
ミカ・ハッキネン
2 (84 pts) 5
1994年 マールボロ・マクラーレン・プジョー MP4/9 G プジョーA6 シェル ミカ・ハッキネン
マーティン・ブランドル
フィリップ・アリオー
4 (42 pts) 0
1995年 マールボロ・マクラーレン・メルセデス MP4/10,10B,10C G メルセデスFO110 モービル ミカ・ハッキネン
マーク・ブランデル
ナイジェル・マンセル
ヤン・マグヌッセン
4 (30 pts) 0
1996年 マールボロ・マクラーレン・メルセデス MP4/11 G メルセデスFO110 モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
4 (49 pts) 0
1997年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-12 G メルセデスFO110E,110F モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
4 (63 pts) 3
1998年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-13 B メルセデスFO110G モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
1 (156 pts) 9
1999年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-14 B メルセデスFO110H モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
2 (124 pts) 7
2000年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-15 B メルセデスFO110J モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
2 (152 pts) 7
2001年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-16 B メルセデスFO110K モービル ミカ・ハッキネン
デビッド・クルサード
2 (102 pts) 4
2002年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-17 M メルセデスFO110L モービル デビッド・クルサード
キミ・ライコネン
3 (65 pts) 1
2003年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-17D M メルセデスFO110M モービル デビッド・クルサード
キミ・ライコネン
3 (142 pts) 2
2004年 ウェスト・マクラーレン・メルセデス MP4-19,MP4-19B M メルセデスFO110Q モービル デビッド・クルサード
キミ・ライコネン
5 (69 pts) 1
2005年 チーム・マクラーレン・メルセデス MP4-20 M メルセデスFO110R モービル キミ・ライコネン
ファン・パブロ・モントーヤ
ペドロ・デ・ラ・ロサ
アレクサンダー・ヴルツ
2 (182 pts) 10
2006年 チーム・マクラーレン・メルセデス MP4-21 M メルセデスFO108S モービル キミ・ライコネン
ファン・パブロ・モントーヤ
ペドロ・デ・ラ・ロサ
3 (110pts) 0
2007年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-22 B メルセデスFO108T モービル フェルナンド・アロンソ
ルイス・ハミルトン
ポイント剥奪 8
2008年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-23 B メルセデスFO108V モービル ルイス・ハミルトン
ヘイキ・コヴァライネン
2 (151pts) 6
2009年 ボーダフォン・マクラーレン・メルセデス MP4-24 B メルセデスFO108W モービル ルイス・ハミルトン
ヘイキ・コヴァライネン

*太字はドラーバーズタイトル獲得者
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など
*枝がついているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)

[編集] Can-Am

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料・オイル ドライバー
1966年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M1A,M1B.M1C G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
1967年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M6A G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
1968年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M8A G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
1969年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M8B G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
1970年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M8C,M8D G シボレー STP ブルース・マクラーレン
デニス・ハルム
ピーター・レブソン
1971年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M8C,M8F G シボレー STP デニス・ハルム
ピーター・レブソン
1972年 ブルース・マクラーレン・モーターレーシング M20 G シボレー ガルフ デニス・ハルム
ピーター・レブソン

[編集] 資本

  • F1以外の活動は別会社が行っており、マクラーレン・グループを構成している。
  • 2000年1月、当時メルセデス・ベンツの親会社であったダイムラー・クライスラーが、グループの所有権を40%取得。事実上、マクラーレン・グループはダイムラー・クライスラーグループの一員となっている。残りの60%をロン・デニスとサウジアラビア人の大富豪であるマンスール・オジェが所有してきたが、ダイムラー・クライスラーがこの残りの60%の株式を取得し、メルセデス・ベンツが単独でのF1参戦を目指しているのではという噂が根強い。
  • 2007年1月にバーレーン王国所有のバーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニーがロン・デニスとマンスール・オジェの保有する株式のそれぞれの半数を取得した。この結果、ダイムラー・クライスラーが40%・バーレーン・マムタラカト・ホールディング・カンパニーが30%・ロン・デニスとマンスール・オジェが15%ずつと保有比率が変化している。

[編集] マクラーレン・グループ

(主な会社のみ)

  • マクラーレン・オートモーティブ(McLaren Automotive)
1990年に設立。高性能市販車の開発を行っている。旧称はマクラーレン・カーズ (McLaren Cars)。
1994年、ゴードン・マレーのデザインによる非常に高価な公道走行車である「マクラーレン F1」(McLaren F1)を少数生産していた。前席は中央に運転席のみ、後部に2座席というきわめて稀な座席レイアウトを持つ。この車は、現在のところ、かつて生産された中で最も速い車であり、最高速度は時速370kmを超えて尚伸び続けるという。比較の対象となり得る他の自動車は、フェラーリ・F40エンツォ・フェラーリ(Enzo Ferrari) 、ブガッティ(Bugatti)EB110 、サリーン(Saleen)S7 等。1995年には、「マクラーレン F1」の競技用仕様である「マクラーレンF1 GTR」がル・マン24時間レースに出場し、レース中の雨でプロトタイプのマシンがリタイヤしていく中、J.J・レート/ヤニック・ダルマス/関谷正徳の駆るカー№59の「マクラーレンF1 GTR」が安定した走行で総合優勝した。
2003年9月、メルセデス・ベンツが「メルセデス・ベンツ SLRマクラーレン」を発表。開発・生産はマクラーレン・カーズが担当。受注販売のみとはいえ量産車として販売される。
2009年後半を目処に現在のマクラーレン・グループから資本的に独立し、グループを離脱する予定。グループ離脱に伴いクレディ・スイスを通じて2億5千万ポンドの投資を受け新たに工場を建設、約800人を雇用する方針も明らかにされており、早ければ2011年にも新型車を発売する。会長は引き続きロン・デニスが務める[13]
  • マクラーレン・エレクトロニックシステムズ (McLaren Electronic Systems)
モータースポーツ向け電子制御システムの開発、製造。旧称はTAGエレクトロニクス
2008年よりマイクロソフトと共同で、F1に参戦する全車に搭載が義務付けられるECUの供給を行っている。
  • マクラーレン・マーケティング (McLaren Marketing)
1987年に設立。マーケティング、メディア対応などを担当。
  • マクラーレン・コンポジット (McLaren Composites)
1993年に設立。自動車などに用いる、高機能素材の開発・生産を担当。

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d e Mclaren: The Grand Prix, CanAm and Indy Cars., Doug Nye, Hazleton Publishing, ISBN 0-905138-54-6
  2. ^ アラン・ヘンリー 『ニキ・ラウダ/不屈のチャンピオン』 森岡茂憲訳、ソニー・マガジンズ、1991年、129頁。
  3. ^ 「F1走る魂」(海老沢泰久著、文藝春秋)pp.308 - 309
  4. ^GPX(F1 Grand Prix Xpress)』 Australian GP issue/210、山海堂、32頁、1998年。
  5. ^ McLaren Appeal- (FIAプレスリリース 2007年10月23日)
  6. ^ DECISION OF THE INTERNATIONAL COURT OF APPEAL- (FIAプレスリリース 2007年11月16日)
  7. ^ McLaren still hope for fuel rules clarity- (autosport.com 2007年11月16日記事)
  8. ^ World Motor Sport Council - Decision- (FIAプレスリリース 2007年7月26日)
  9. ^ WORLD MOTOR SPORT COUNCIL- (FIAプレスリリース 2007年9月13日)
  10. ^ The full letter from McLaren to the FIA- (autosport.com 2007年12月13日記事)
  11. ^ デニス 代表職を退任(GPUPDATE.net)
  12. ^ World Motor Sport Council - Decision- (FIAプレスリリース 2009年4月29日)
  13. ^ a b McLaren restructures Group to create independent McLaren Automotive company - 公式プレスリリース(2009年4月16日)

[編集] 関連項目

フロントノーズに「ジャンプ」のロゴを貼った、1991年のMP4/6
ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク

先代:

ロータス
フェラーリ
ウィリアムズ
ウィリアムズ
F1コンストラクターズチャンピオン
1974年
1984年-1985年
1988年-1991年
1998年
次代:

フェラーリ
ウィリアムズ
ウィリアムズ
フェラーリ