マカルスカ

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マカルスカ
Makarska from port.jpg
港からみたマカルスカの町
座標 : 北緯43度18分 東経17度02分 / 北緯43.300度 東経17.033度 / 43.300; 17.033
行政
クロアチアの旗 クロアチア
  スプリト=ダルマチア郡
 市 マカルスカ
市長 Marko Ožić-Bebek(HDZ
地理
面積  
  市域 28km2
人口
人口 (2001年現在)
  市域 13,716人
  市街地 13,381人
その他
等時帯 中央ヨーロッパ時間UTC+1
夏時間 中央ヨーロッパ夏時間UTC+2
郵便番号 21300
市外局番 021
ナンバープレート MA
公式ウェブサイト : makarska.hr

マカルスカクロアチア語:Makarskaイタリア語:Macarsca)は、クロアチア南部のに位置するアドリア海に面した町(grad)、およびそれを中心とした自治体であり、スプリトから南に60キロメートル、ドゥブロヴニクから北西に140キロメートルにある。行政区分としてのマカルスカは町(grad)であり、スプリト=ダルマチア郡の一部である。

町はビオコヴォ山脈Biokovo)とアドリア海に挟まれた、馬蹄型の入り江に広がっており、有力な観光地となっている。ヤシの木が並ぶ海辺の散歩道には、しゃれたカフェやバー、ブティックが立ち並び、数多くの観光用の船が係留されている。

マカルスカの中心を成す旧市街は石畳の細い路地が入り組んでおり、教会前の中心広場には花や果物の市場があり、フランシスコ会修道院には巨大なハマグリの貝殻をはじめとする貝殻のコレクションがある。

町はマカルスカ海岸Makarsko primorje)の中心を占めている。海岸はブレラBrela) からグラダツGradac)にかけて60キロメートルにわたって広がっている。夏季になるとクロアチア国内のほか、ドイツオーストリアチェコスロバキアスウェーデンスロベニアハンガリーボスニア・ヘルツェゴビナをはじめ、各国から観光客が集まってくる。

マカルスカの路地

歴史[編集]

マカルスカの地域には古代イリュリア人が居住していた。町はTabula Peutingerianaイナロニア(Inaronia)として記されているが、533年サロナで開かれた教会会議ではムックルム(Muccurum)と呼ばれており、この時にこの町を中心とする教区が設置された。7世紀ツェティナ川Cetina)からネレトヴァ川までの領域はスラヴ人に占領され、彼らはネレトヴァ公国Neretva Principality)を建国し、この町をモクロ(Mokro)と呼んで公国の首都とした[1]

スラヴ人による海賊行為に報いるためにこの地に襲来したヴェネツィアドージェ(総督)、ピエトロ・カンディアーノ1世は、877年9月18日にこの地で敗北し、死去した。

公国は12世紀にクロアチア王国の一部となり、1世紀後にはヴェネツィア共和国に征服された。15世紀にはオスマン帝国がこの町を占領し(1502年に初めてマカルスカの名で呼ばれるようになった)、3本の塔を持った城壁が町の周りに築かれた。1646年に再びヴェネツィア共和国が支配下に収めたが、1797年カンポ・フォルミオ条約によってオーストリア帝国に引き渡された。1805年から1815年までフランス帝国の占領下となり、この時代に経済的・社会的・文化的な発展がもたらされた。ウィーン条約によって再びオーストリア領に復し、1918年までオーストリアの支配下であった。

20世紀初頭には農業、交易、漁業が経済の根幹であった。1914年に初のホテルが建ち、観光地としての発展が始まった。第二次世界大戦の時代、マカルスカはクロアチア独立国の領域となった。町はクロアチア独立国海軍の港となり、中央アドリア海司令部の拠点となったが、後に司令部はスプリトに移された[2]2007年時点でも、戦争の犠牲者の発掘作業が続いている[3]

見どころ[編集]

係留場

参考文献[編集]

  1. ^ http://enc.slider.com/Enc/Pagania
  2. ^ Nigel Thomas, K. Mikulan, Darko Pavlovic. Axis Forces in Yugoslavia 1941-45. Osprey Publishing, 1995. (pg. 18)
  3. ^ U Makarskoj iskopane žrtve drugog svjetskog rata