ポール・ケリー (ギャング)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ポール・ケリーPaul Kelly1876年 - 1936年)はアメリカ合衆国のイタリア系ギャング。本名はパオロ・アントニオ・ヴァッカレリ(Paolo Antonio Vaccarelli)。シチリア生まれ。

ファイブ・ポインツのリーダー[編集]

1890年代前半渡米し、バンタム級プロボクサーを経てニューヨーク市マンハッタンロウアー・イースト・サイドでストリートギャングになり、ファイブ・ポインツ・ギャングを結成した。賭博、売春や組織的なスリ・略奪を統率、また政治組織タマニーホールの裏仕事を請け負って政敵の妨害工作を行った。小さなギャングを次々に取り込んで勢力を拡大し、ジョニー・トーリオのJames Street Gangも編入された。

1900年代初頭にはニューブリトン[1]を拠点に最大勢力1500人を誇り、ユダヤ系ギャングのイーストマンズと抗争した。幹部はジャック・シロッコなど。ファイブポインター・ジュニアという下部組織にフランキー・イェール、ジョー・ブラウン (Joe Brown、別名ジョセフ・カスタノ Joseph Castano)、Humpty Jackson、Joe Casseliらがいた。

1905年、元ファイブポインターでアイリッシュ系ギャング「ゴファーズ」の頭領となったビフ・エリソンの襲撃で負傷し、警察の追放キャンペーンやタマニーホールの圧力により拠点をバワリーよりハーレムブルックリンに移すとともに勢力は衰えた。

ファイブ・ポインツの終焉[編集]

1910年代は東海岸港湾組合 (I.L.A) の仕事、1920年代は同組合のスト調停の委員長、また労働争議の武闘団を指揮した。

ファイブ・ポインツ・ギャングは組織型犯罪の走りだったが、1910年代ジョニー・トーリオやフランキー・イェールら有力メンバーが別々の道を歩み始めると組織の連帯力を失い、禁酒法時代の幕開けとなる1920年頃までに自然消滅した。

独学で語学を学びフランス語、イタリア語、スペイン語が話せたという。駆け出しの頃のジョニー・トーリオを可愛がり、若い頃のトーリオはケリーに影響を受けた。

ロサンジェルスベースの俳優・コメデイアンのグレッグ・ヴァッカレロ(Greg Vaccariello) は又甥にあたる。

脚注[編集]

  1. ^ 彼が57 Great Jones Street にオープンしたスポーツクラブ

関連書籍[編集]

  • ロバート・J・シェーンバーグ『ミスター・カポネ』、関口篤訳

外部リンク[編集]