ポリニャック公爵夫人ヨランド・ド・ポラストロン

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ポリニャック伯爵夫人(部分) 、ヴィジェ=ルブラン画、ヴェルサイユ宮殿美術館蔵、1782年
ポリニャック公爵夫人、ヴィジェ=ルブラン画、1783年

ポリニャック伯爵夫人ことポリニャック伯爵夫人(公爵夫人)およびマンチーニ侯爵夫人ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン: Yolande Martine Gabrielle de Polastron, comtesse puis duchesse de Polignac, marquise de Mancini, 1749年9月8日 - 1793年12月9日)は、フランスルイ16世の王妃マリー・アントワネットの取り巻きの一人である。寵臣としてさまざまな恩恵を王家から引き出したことで悪名高い。

漫画『ベルサイユのばら』に「ポリニャック伯夫人」として登場するキャラクターのモデルである。

略歴[編集]

1767年、彼女はポリニャック伯爵ジュール (enと結婚したが、嫁ぎ先のポリニャック家は代々ブルボン王家に仕えた家柄で、特にメルシオール枢機卿 (enルイ14世ルイ15世の代表的な外交官として重用された。しかし、ルイ14世の寵姫のモンテスパン侯爵夫人1678年に起こした黒ミサ事件に関与者を出し、またメルシオール自身もメーヌ公爵夫人のクーデター計画事件に関与して失脚したため、家運は衰退していた

家運を回復するというもくろみを持って、機転の利くポリニャック伯爵夫人はマリー・アントワネットに近づいて取り入り、彼女の寵愛を手にした。以降はマリー・アントワネットが愛したプチ・トリアノン宮殿に招かれる王妃の数少ないお気に入りの取り巻きの一人となった。ポリニャック伯爵夫人は夫のポリニャック伯爵ともども国王夫妻の友人として権勢をほしいままにし、1782年にジュールは初代ポリニャック公爵に陞爵した。ポリニャック家には年金および下賜金として年間50万リーヴル、後には70万リーヴルもの大金が与えられた。

しかしフランス革命が起きると、ポリニャック公爵夫人は国王夫妻を真っ先に見捨てオーストリアに亡命し、ウィーンで急死した。オノーレ・ミラボーはマリー・アントワネットのポリニャック家への偏愛を苦々しく思い、こんな言葉を皮肉として残している。「ダサス家の家族には国家を救った手柄により1000エキュ、ポリニャック家には国家を滅ぼした手柄によって100万エキュ!!」

次男ジュール王政復古後にフランスに帰国して、シャルル10世の時代にフランスの首相になった。だが、徹底的な反動政策で民衆の恨みを買い、フランス7月革命の一因になったと言われている。三男メルシオール(カミーユ)の子孫ピエールは、モナコ大公ルイ2世の長女シャルロットと結婚し、レーニエ3世をもうけた。ポリニャック家は現在のモナコ大公家の男系の先祖となっている。